041:口に蜜あり腹に剣あり
気が重くなる会合が終わった。
午後からは華やかなお茶会――と思いきや、マリーナは王宮の真の恐ろしさは、大臣会合ではなく、貴婦人たちのそれにあったことを知ることとなった。
はじめ、王妃の姿はなかった。
ドレスの海は赤と青に分かれていた。
そんな中、ひどく目立つピンク色のドレスを着た女性が座っている。
貴族たちはどちらかの派閥か、嫌でも明確にしないといけないだろうに、ピンクのドレスの人物はその風潮に敢えて反抗しているようで目立った。
「ストークナー公爵夫人だよ」
アルバートはそう教えると、真っ先に彼女の元に向かった。
彼女は王弟の妻であるから、この中で、身分が一番高いからだ、とマリーナは思った。
しかし、それだけではない理由があることを知る。
「まぁ、トーマス。帰って来たのね」
ふんわりとしたピンク色の少女が着るようなドレスに相応しい微笑。だが、その顔は少女ではない。
彼女は失ったとはいえ、生きていれば二十歳になろうとするはずの息子がいる年齢なのだから。
そう、息子だ。
名前はトーマス。王妃によって奪われた子どもの名を、その王妃の息子であるアルバートに向かって呼んだ。
マリーナは混乱したが、アルバートはいつものことのように答える。
「はい、母上。ただいま、戻りました」
「トーマス、また遠くに行ってしまうの?」
「ええ、また。海に出ますので」
「また帰って来てくれる?」
「勿論ですよ」
ふふふふ。
ストークナー公爵夫人はあどけなく笑う。
それからマリーナに目を留めた。「あら、あなた……」と瞬きした後、夢見がちな表情に戻った。
「あなた、誰だったかしら?」
「あの……」
助けを求めてアルバートに視線を送ると、『そのように』と頷かれた。
つまりは彼女に合わせろ、ということらしい。
「ジョンです……あ……ジョン・ぐ……」
「そうそう!
ジョンよ! ジョン・ガーデナーだったわね」
違う、と否定しても無駄なことだった。
アルバートすらトーマスと呼ぶこの女性には、周りの言葉は耳に入らない。
「はい」
「トーマスのお友達だったわね! あら、懐かしい!
トーマスのこと、覚えている?」
「え……はい……」
周りの貴婦人たちは、明らかに彼女を憐れみと同情の視線で見つめている。
「トーマスはねぇ、今は、海に出ているのよ」
「そうなのですか」
「会えなくて、残念ね……」
「ねぇ、トーマス」と彼女は今度は、腕に抱いた人形に語りかけた。
「トーマスもジョンとお話したいって。
さぁ、座って!」
朗らかな言い回しだったが、その強制力は凄まじかった。
アルバートは躊躇したものの、ストークナー公爵夫人にマリーナを委ねるしかなかった。
こうもストークナー公爵夫人がマリーナに執着するとは思いもしなかった。彼女は、息子に似た金髪碧眼の男の子以外には反応しないからだ。
マリーナは断れる立場になかった。大人しく、ストークナー公爵夫人の隣に座る。王妃とは別の意味で因縁深い相手と差し向かいとなった。
「トーマスはね、海に出ているの」
うっとりとストークナー公爵夫人がマリーナに語り始めた。
トーマスの大冒険の話だ。
人を飲み込む大きな貝や、生きた女神の話、巨大なクジラとの格闘。
雑多でとりとめもない話ばかりだった。
マリーナは『母親』のことを思い出し、なんとも言えない気持ちになった。自分がエリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザの娘で、母親が彼女から大事なトーマスを奪った遠因となったことを白状しなければ、と思った。
だが、ここは王宮のお茶会で、”ジョン”の姿のマリーナには言えなかった。言った所で、今の彼女に理解出来るかどうかも分からない。とても申し訳ない気持ちに苛まれながら、せめてもの罪滅ぼしに、ストークナー公爵夫人の話に身を入れた。
ストークナー公爵夫人の話は、『夕凪邸』の中庭で父親の元部下であるナッシュやリード、シンプソン、ビルたちの話を聞いているようだ。パーシーが与太話と笑ったのと同じような内容のものもあった。いつしか演技ではなく、本当に楽しい気分になって、話を聞いてしまっていた。
なので、マリーナの相槌は適切だった。そのせいで、ストークナー公爵夫人は歌うように話し続ける。
「それは?」
マリーナは話の間中、ずっとストークナー公爵夫人が人形の首に掛けられたペンダントを触っているのが気になった。
「これ?」
ふふふふ、と笑った。
「トーマスがくれたのよ。いいでしょう?」
公爵夫人が持つにはみすぼらしい紐に吊るされたそれは、『夕凪邸』の老僕・リードが作ったような、あるいは今、マリーナが身に着けている鯨の歯の彫刻のように見えた。もっとよく見ようとしたが、ストークナー公爵夫人が握りしめてしまって叶わなかった。
周囲からは「お可哀想に、どこからか拾ってきたものを、息子さんからの贈り物だと思っているのよ」と言う声が聞こえた。
ストークナー公爵夫人は幼い息子を失った衝撃で、精神を病んでしまったのだ。
息子と同じ金髪と青い瞳の男は、みんなトーマスに見えるらしい。特に従弟であるアルバートはすっかりトーマスと認識されているようだ。
マリーナはなぜかトーマスの友人として扱われ、菓子と紅茶を与えられた。
それを飲みながら、公爵夫人の話に耳を傾け、アルバートの動きを目で追う。
美しく若い王太子は女性たちに人気があった。赤いドレスも青いドレスも等しく群がっていた。楽しげな笑い声が響く。
なんだか面白くない。
マリーナの視線に気づいたのか、そうでないのか、ストークナー公爵夫人が彼女の手を取る。温かい手だった。
「あの子は人気があるのよ。とても綺麗だから」
「あ……はい、そのようで」
「でも気を付けて。
綺麗な子どもは妖精がさらっていってしまうのよ」
「――」
不意に真面目な顔で言われた。全てを見透かしているような目だった。
しんっ、と辺りが静かになったような気がする。そして、それは気のせいではなかった。
ストークナー公爵夫人が立ち上がり、振り向いた。マリーナもそれに倣った。
向こうから、コルセットをしていない白いドレスの女性が優雅な足取りでやって来た。ドレスは薄手で身体にまとわりつき、曲線を露わにしていた。黒色の髪の毛も全てを結い上げることはせずに、背中に垂らしている。ローレンスが見たら「みっともない」と眉を潜めるだろう。”花麗国”の最新流行の恰好で、ひどく蠱惑的にも見えながらも、どこか子どもっぽい雰囲気も纏っている。
その女性こそ――。
「王妃さま」
ストークナー公爵夫人が進み出た。そのせいで、マリーナは彼女の膨大なドレスの生地の陰に隠れてしまった。王妃と違って、時が止まった彼女のドレスはもう十年も前の古い型のもので、コルセットとパニエで大きく膨らんでいたからだ。
マリーナはこんな時にもかかわらず、妙なことを思った。
アルバートは王妃のスカートの中で育てられたと言われているが、あのドレスではそれは無理だろう、と。
「王妃さま、こんにちは。
ほら、トーマス、あなたも王妃さまに挨拶して」
腕の中の人形を、ストークナー公爵夫人が王妃に差し出した。
意外なことに、王妃ロザリンドは怯えたように後ずさった挙句、弱々しく「こんにちは、トーマス」と声を掛けて、人形を撫でた。
「良かったわね、トーマス」
そう言いながら、ストークナー公爵夫人は王妃が触った場所を、払うように撫で直した。
まるで私の可愛いトーマスに汚い手で触らないでと言わんばかりだ。
それでも王妃は何も言えない。なぜならば、ストークナー公爵夫人の精神は尋常なものではなく、そうさせたのは王妃本人だからだ。
マリーナの勝手な印象では、王妃はもっとふてぶてしく、冷酷な人物だった。それが、ストークナー公爵夫人に対し、後ろめたさを感じているのが不思議でたまらなかった。
これが『夕凪邸』を爆発炎上させた悪名高き王妃さまなの? 見えない。
反対に、ストークナー公爵夫人に脅され、苛められているようにすら見える。
だが、違うのだ。
ストークナー公爵夫人は子どもを王妃に殺され、本人は気が触れてしまっている。悪意があるのはどちらだと言うのだろうか。
王妃はストークナー公爵夫人から逃げるように、そそくさと立ち去った。
その後をアルバートの乳兄弟であり近侍のロバートが付き添っていた。彼の大きな身体の向こうに、やはりコルセットをしていない小柄な女性がいた。おそらくロバートの母親であろう。
そのまま、アルバートの元に行った王妃は、息子にしな垂れかかるように寄り添った。
見れば、周りのドレスは赤だけになっていた。
王妃は若い娘を息子に勧めているようでいて、自分こそが息子の一番だと言わんばかりの表情を隠そうとはしていなかった。




