040:そうは問屋が卸さない
着替え前のアルバートは危険だ。
それこそ、寝間着はボタンが少なく、絹の滑らかな生地は、中身のしっかりとした筋肉を、それとなく感じさせる。ズボンは履いておらず、膝下から生足なのもいけない。
寝起きの気だるさと不機嫌さが、なぜか色気に変換されるのも厄介だ。いろんな怖さが合わさって、淫魔どころか、魔王にすら見えてくる。
「で、何をしてたの?」
最上級に不愉快な気分になると、彼はもう固まらないようだ。
「着付けを手伝っておりました。
殿下の小姓に相応しいようにです」
マリーナはローレンスの隣で首を激しく縦に振った。
「ジョンは一人で服を着られる」
「服を着られる? いいえ、殿下。
この者は、着られていましたぞ。それではいけません」
忠義に厚いが、職務には妥協しない男は断固とした調子で言った。そこに後ろめたい様子は一切、なかった。
どういう意味だ、と問い直そうとしたアルバートは横でひたすら頷くマリーナを見て驚いた。
服は同じなのに、全然、違う風に見える。彼女は……彼は”ジョン”だ。唖然として、結局、彼はやっぱり固まった。
「ローレンスの腕前は衰えていないようだ……」
アルバートはやっとのことでそう絞り出した。もっとも、素直な性質が長所のはずの王太子のくせに、その声音に悔しさと嫉妬が入り混じっていた。
ローレンスは、これまた意に介する様子もなく、「光栄です」と大いに相好を崩した。その後、彼はこれまた見事な手腕を見せ、アルバートに服を着せた。
マリーナの点呼が始まった。ローレンスの着付けによって、これまでよりもアルバートが恰好よく見えたからだ。
***
午前の予定は各省の大臣との会合。王が政治をほぼ放棄しているので、王太子が出席するようになっていた。
マリーナはそこで、久々に伯父のチェレグド公爵に会った。
二人の間の関係は勿論、親しい所も知られては差し障りがあるのだが、伯父にしても、姪にしても、話さずにはいられない。
「こんにちは。ジョン。
……王宮に上がって、男ぶりがあがったんじゃないか?」
各省大臣が集まる前に、紅茶を運ぶマリーナに、チェレグド公爵がそれとなく話しかける。彼はマリーナがそれなりに男の子に見えることに、驚いていた。
「はい。おかげさまで」
ローレンスに手伝ってもらった本当に良かった。マリーナは伯父にすら、自分が男の子に見えることに安心する。
それからもう一つ。
「閣下にお会い出来て嬉しいです」
くすんだ金髪に、薄い青い瞳。海の匂い。
途絶えていた補給がやって来て、マリーナの心の守護艦は活気に満ちた。
「……何か、困ったことが?」
『王太子殿下が色っぽ過ぎて困っています』とは言えない。
「いいえ。あの、ただ嬉しかったものですから」
さすがのローレンスの着付けも、身内に対して打ち解けたマリーナの女の子っぽい表情は隠せなかった。
可愛い姪にそう言われて、伯父も悪い気はしない。むしろ、こちらが嬉しい。
『ああ、なんだって、こんな可愛い娘っ子に、男の恰好なんてさせなければならないのだろう。また、似合ってきているのが腹立つ』
アルバートはマリーナが”満足”すれば王宮から下がるだろうと言ったが、”満足”させるような出来事からは巧妙に遠ざけているように見えた。それはある意味、マリーナを守っていると言えたが、囲い込み過ぎとも言えた。
「チェレグド公、”私の”ジョンが何か無礼でも?」
こそこそと話している二人を見て、アルバートが口を挟んできた。これまでほぼ、独占状態だったのに、今日に限って、自分を除け者にして、二人の男と仲よくしているのが、面白くない。相手が身内と老人だろうが、男は男だ。
『”私の”? どこが? どこら辺が?』
内心、突っ込みながらも、チェレグド公爵はにこやかにマリーナから離れると、自分に与えられた席に座る。そろそろ、他の大臣たちも集まって来た所だ。潮時だろう。
今日の議題はあいも変わらず”花麗国”とベルトカーン王国の情勢だった。
「また”花麗国”からの亡命者が出たようだね」
チェレグド公爵もアルバートと同様に深刻そうな顔で頷いた。
「”花麗国”の王家を支えるはずの貴族たちが領地まで捨て逃げてくるのとは、よほどのことです。
あちらは相当、国情が荒れているのでしょう」
「革命派……というものが蠢いているようですな。下賤の身のものどもが、徒党を組んで”花麗国”の貴族たちを脅かしているとか」
大臣の一人がチェレグド公爵に応じた。彼は侯爵家の出身で、反王妃派であったが、チェレグド公爵とはそりが合わない。
今度は、王妃派の大臣が言う。
「亡命してきた貴族は、ベルトカーン王国の国境近くに領地を持つものです。
どうも国境近くに布陣しているベルトカーン軍を頼っての亡命経路が出来ているようです。
彼らが逃げ出せば、ベルトカーン軍も侵略し易くなるためか、率先して手助けをしているとか……なんとか……」
簡単に言えば、現在の”花麗国”は幼い国王を擁して国政をほしいままに操り、財政を破綻させている王太后とその愛人に反発した民衆が蜂起寸前な上に、ベルトカーン王国がその隙を狙って攻め込もうとしていることから、金と身分、そして技術のある者たちが逃げ出し始めているということなのだろう。
アルバートの隣に立ちながら、マリーナはそう解釈した。
そして、王妃派も反王妃派も、”花麗国”に革命が起きるのを懸念しているという一点では、共通しているらしい。対岸の火事ではあっても、飛び火しないとは限らない。王家が民衆に滅ぼされるなど、あってはならないことなのだ。
「ヴァイオレット妃はご無事だろうか?」
そのアルバートが不安そうな声を出し、一同、顔を上げた。
「国王夫婦は未だ、王城に留まっている模様です。
なにしろ、”花麗国”の王は病篤く、床から起き上がれない有様です。
逃げ出すことも出来ません。
王妃は、その側で懸命に看病を続けています」
「国民の憎悪は主に、王太后とその愛人に向けられています。
ベルトカーンとの国境近くはともかく、王都周辺ではまだ幼い王への同情の声も多く、ヴァイオレット王妃に対する人気もあります。
ヴァイオレット妃は、幼王の看病の合間を縫って、国民への福祉を充実させようとしていましたので」
「……とは言え、それも焼け石に水だ。
さすがにエンブレア王国の王族にして、サイマイル王国の元王妃。そして、神聖イルタリア帝国の皇太后であり、それに代わってイルタリアの女大公の身分を持って嫁いで来たヴァイオレット妃に対し、危害を加えられるとは思いませんが……」
その場の皆が、ヴァイオレットのことを讃え、心配している。
それほどまでに完璧で美しい女性と比べらられるなんて御免だ。マリーナは落ち込んだ。
”ジョン”のままでいい。マリーナはヴァイオレットと比べられるが、アルバートは”ジョン”とヴァイオレットは比べたりはしないだろ。
「ヴァイオレット妃を守る為に、イルタリアはエンブレアの要請に応じて、身分を保証した上で嫁がせた。
それが”花麗国”を……その王家を守ることでもありました。
ですが、暴徒化した集団を前に、それがどこまで通用するかは不安があります。
人は多数になると、統制を取ることが難しくなりますからね。ましてや彼らは烏合の衆です」
チェレグド公爵の言葉に、マリーナはついさっきまで抱いていた嫉妬めいた気持ちを浅ましく恥ずかしく思った。
ヴァイオレット・ヴィクトリア・アークライトは幼い頃から国の都合でその身を他国に委ね、今、まさに、どんな辱めを受けるのか、殺されるのか、分からない瀬戸際にいるのだ。
皆が心配するのは当たり前だ。おまけに、『母親』の例の本のことも脳裏によぎる。
なので、アルバートがこう言っても、素直な気持ちで受け入れられた。
「いざとなったらヴァイオレット妃を救出しようと思う。海軍を派遣出来ないか?」
陸軍大臣は渋い顔になったが、海を渡る必要がある作戦である以上、海軍が担うしかない。
そのまま彼らは敵地ではないものの、混乱する国土を通過し、王都まで行って、王妃を助け出す。非常に困難な作戦である。
海軍大臣であるチェレグド公爵は、それを知った上で、頼もしく請け負った。
「出来ます……周辺に展開している軍艦に命令を下しましょう。
ちょうど新造船の”ヴィヴィアン号”が警戒に当たっているはずです」
マリーナはジョアンが艦長を務める艦の名前を聞いて、ドキリとした。この危険な任務を義兄が担うのだ。
「ですが、殿下。
ヴァイオレット妃が王を見捨てて逃げるかどうか」
「”花麗国”の王も共にエンブレアに連れてくれば良い」
気楽にそう言ったアルバートに、チェレグド公爵は無常にも首を振った。彼には自分の部下を守る責務があった。
「話に聞くご容態では、動かすのは不可能でしょう。
王妃が国を捨てるのです。国民が知れば、どう思うか……。
ことは内密に行わなければなりません。それには、王は……」
「足手まとい……か……」
その場の空気が凍った。
誰しも、自国の身内だけを助け、王とはいえ、まだ十にもならない子どもを見殺しにするしかない状況にやりきれなさを感じていた。
「なるべく、ことを穏便に済ます方向で話をつけたい。
神聖イルタリア帝国の大使とは話したが、早いうちに、サイマイル王国の大使も含め、三者で話し合いを持とう。
どちらもバイオレット妃を通じて、我が国とは友好関係にある。
この三国でもって、ベルトカーン王国を押さえ、”花麗国”に秩序を取り戻す手伝いをするしかない」
王太子は断固とした調子で宣言し、大臣一同、礼をした。




