039:情けは人の為ならず
アルバートが自分で服を着ることを断念したことは、各方面で歓迎された。
なにしろ、アルバートは着替えに時間がかかることを見越して、早く起きるようになっていたからだ。ベルトカーン語の勉強を夜遅くまでやっていることもあって、ロバートはしきりに身体を心配していたし、マリーナは自身の身が持たないと感じていた。王太子の身支度を手伝う人間は、彼よりも早く起きなければならない。おまけに、マリーナは男装女子なので、特に準備に時間がかかるのだ。
これで少しは睡眠時間が取れる……と思ったマリーナの部屋の扉を、早朝に叩くものがあった。
王宮に居を移し二週間。これまで彼女の部屋を訪ねてきたものはいなかった。そこに部屋があるとは分からないような作りだし、”ジョン”に用事があるような人間はいない。
恐々、扉の近くによると、聞き覚えのある声で「ここを開けておくれ、お嬢さん」と言われた。
警戒心が働く前に、急いで扉を開ける。
「ミスター・ローレンス!」
「おはよう。お嬢さん」
もはや決定事項のようだ。
「おはようございます。……あの、お嬢さんは止めて下さい」
それでも否定はする。それから訪問の理由を聞いた。「何か御用ですか?」
「儂は本日より、殿下の身支度係に復帰した」
「おめでとうございます」
「だが、その前に、お嬢さんの恰好をなんとかせねばと思って、ここに来たのだ」
「なんとか……と申しますと?」
ローレンスはぐいぐいと扉の中に入って来た。老人とはいえ、男だ。マリーナは素早く部屋を見廻し、武器になりそうなものを探す。大声を出せば、隣室のアルバートに聞こえるかもしれないが、それは最後の手段にしたい。
「男、男と言うのならば、それなりの恰好という者があるだろうが」
静かだが、迫力のある声音に、マリーナは思わず身を正す。
「見えませんか?」
「儂には見えんの」
そこから、「脱げ」、「ええ!?」というやり取りがあって、マリーナは最終的に、ローレンスに身支度を任せることになった。
彼女は男爵令嬢であったが、多くの使用人を抱えていた頃は幼く、年頃になった時にはナタリー一人だけだったので、使用人を家具と同等の存在と思い、男の従僕の前でも着替えることが出来るような精神方面には発達していなかった。
ローレンスもそんな年頃の乙女の恥じらいは最大限、配慮してくれた。
マリーナ一人では出来ないようなしっかりとした補正がなされる。
「今後、一人でもきちんと出来るようなものを考えて持って来よう」
「ありがとうございます」
「しかし、なるべく早く、こんな馬鹿な真似は止めることだ。
これから寒くなり、厚着になれば、身体の線は隠せるが、夏になるに従い、それは難しくなる」
晒も、補正の為の布も、防寒にはなっても、その逆にはなり得ない。
「全く、殿下は何を考えているのやら。
いくら王妃の目が怖くとも、愛妾に男の恰好をさせて側に侍らすなど」
「あ……! 愛妾ですって!?」
「違うのか?」
「違います!」
「では、なんなのか?」と問われ、マリーナは口ごもった。
アルバートの誘いに食いつき、男装で王宮に来た理由。
「それは……見てみたかったんです」
「何を?」
「本当のこと」
王妃とは一体、何者なのか。母が残したものの正体を。
それから……王太子殿下のことも。
マリーナは素直に認めた。近くで彼を見て、知りたい。
「殿下は、私が女だということを知りません。言わないで下さい」
マリーナはアルバートが正体に気が付いていることを知らなかった。
そして、知られたら、失望されると思っていた。男の恰好をしている女なんて、道理に反しているし、なによりも、嘘吐きだ。あのアルバートは、誠実ではない者を嫌うだろう。
「儂は言わんぞ」
ローレンスは見なくても、アルバートがマリーナの正体を知っていることに気が付いていた。彼の大事な王太子殿下は、馬鹿ではない。賢い子なのだ。
それでも側に置いているということは、何か理由があるのだろう。その理由を詮索する必要はない。ローレンスがすべきことは、その秘密を守るのみだ。
「さて、シャツを着るのだ。ああ、そうではない。男には、男の着方といものがある」
何が違うのか、マリーナには分からないが、ローレンスは有無を言わさず、着付けていく。
「あの……」
「なんだ?」
「ミスター・ローレンスは王妃さまの着付けをなさったことが?」
「いいや。儂は基本、男性王族を任されている。
今は少ないがな。
……お主、殿下のお子さまを産んでみんか?
身分はともかく、良い子どもを産みそうな身体だ」
ベストを着せられながら、意味ありげに見られる。
「嫌ですよ」と言おうとしたが、止めた。嫌……ではない……ような気がしてくる。
今朝も心の中の守護艦の点呼がはかどる。しかし、如何せん、ジョアンやコンラッドという若い衆が居なくなり、最年少はパーシーという構成員になっているのを認めざるを得ない。
”ジョン”の姿をしている以上、おかしな気分になって、それを悟られるのはまずい。本人にもだが、周りにも、だ。
伯父であるチェレグド公爵にも「男として王宮に上がることをもう止めたりはしないが、決して正体を知られてはいけいない」とよくよく言い聞かされた。その時は、もっと単純なことを考えていたが、傍から見れば、自分は『寵愛を受けている』とか『愛妾として囲われている』と思われても仕方が無い状況下にあることを認識させられた。これは危うい事態なのだ。気を引き締めていかねばならない。
ましてや、王妃に王太子が側に置いている少年が、実はエリザベス・イヴァンジェリンの娘だと知れたら大ごとだ。大体、男装し続けているのも、王妃の魔手から身を守るためだったはず。
「そんなことになったら、王妃さまが発狂しませんかね?」
無理やり話を運ぶと、ローレンスがそちらにあっさりと乗った。
子ども云々は冗談だったのか、それとも、王妃憎しの気持ちが勝ったのか……ローレンスは反王妃派のようだった。いいや、ボタンが大好き派かもしれない。
「それは見てみたいものだ」
「王妃さまは”花麗国”風の服装を好んでいると聞きました」
コルセットはつけず、ボタンの少ない、身体に沿ったドレスだ。
「そのようだな」
「なぜでしょう?」
マリーナの中であやふやな質問をそのまま出した。すると、ローレンスはある答えを持っており、それを彼女に差し出したのだ。
「王妃は”花麗国”風の服が好きな訳ではない。
エンブレア王国の長い歴史と伝統が培った格式高い服が苦手なのだ。着こなしの不備で、随分と、嘲られたようだからな。
だが、”花麗国”の最新流行という名目があれば、多少の逸脱は目を瞑ってもらえる。それどころか、その抜けたところが、お洒落として言い繕える。
儂には理解出来ないことだが、一部の軽薄な若い者の間で流行の先導者になれる。
それだけの理由だ――」
王太后は、”花麗国”風と雖も、コルセットのある、昔の形のドレスを愛用しているという。
「なるほど……でも、それだと、お付の人、することがなくて困ってはいませんか?」
アルバートの独立宣言のせいで、手持無沙汰になったローレンスのような存在が、王妃側にも出ているかもしれない。
噂に聞く王妃は、人手を掛けさせるのが好きそうなのに。
その疑問に、ローレンスはにべもなく答えた。
「女性はいくら手があっても、足りないようだ。
王妃の自慢の肌や髪の毛の維持に、女官や侍女が大量に必要だそうだ。何をしているのかは、分からんが」
「そうでしたか……」
同じ女性だったが、マリーナにもよく分かってはいない。薔薇水とか香油とか、そういうものだろうか?
話に聞く『乙女の生血を啜る貴婦人』とかだったら嫌だな、と思った。
ちなみに、淫魔といい、キール男爵家の蔵書に怪しげなものが混じっているのは、ローズマリーの趣味が大きかった。
「今日のお茶会は、ニミル公爵夫人やストークナー公爵夫人といった、それこそ、美しい貴婦人たちが集まるぞ。
そこで真の着こなしというものを見てくるがよい」
「それ、王妃さまもご出席されますか?」
ローレンスは頷いた。
今日こそ、王妃の顔を見られるかもしれない。
「適度に緩く、適度に強く巻いてみたが、気分は悪くないか?
コルセットをしている貴婦人たちは、血の道が止まって、卒倒しやすいと聞くが?」
「ちょうど良いです……とても」
言ってみて、マリーナは改めて感心した。とてもすっきり着こなせている気がするのに、苦しくない。
「ミスター・ローレンス! ありがとうございます!」
「礼には及ばん。こちらこそ、ありがとう」
どうやら、ローレンスは自身の復帰の陰にマリーナの存在を知り、その恩返しに来てくれたようだ。
「ところで、お嬢さん」
お嬢さんじゃないって!
マリーナは折角、男らしい恰好になったのに、ローレンスにそう言われてガッカリした。
「お主のことをなんと呼べばよい?」
「あ……」
自己紹介を忘れていたようだ。
「私は――」
「ジョン!」
「そうです、ジョン……って? 殿下!」
隣室から、寝起きの顔も妖艶な、王太子殿下が顔を覗かせたまま、固まっている。それから、我に返って、詰問した。
「何をしているんだ? なぜローレンスがそこにいる!?」
「おはようございます。殿下。ご機嫌、麗しゅう」
顔は極上に麗しいものの、機嫌は地獄の底の番人のようなアルバートに対し、ローレンスは顔色一つ変えず、挨拶をした。




