038:餅は餅屋
マリーナは廊下の途中でアルバートに会った。
「ただいま。どこに行っていたの?」
「……殿下の服を……持ってまいりました」
これを言ったら、服選びも自分で、とか考え始めそうで、怖かった。
「そう……」
やはり何か考え始めたアルバートを見て、ロバートが咎めるような視線を送ってくる。
そんな目で見られても困る!
しかし、ローレンスと話をしていないで、早く王太子の居室に戻り、それとなく、服を置いておくべきだったのだ。明らかにマリーナの失態である。
「ロバート」
「はい」
「母上から菓子を貰った。
私はたくさんだから、君にあげよう」
ロバートの手には、銀の盆に乗ったそれがあった。
菓子はクルミがたっぷりと入ったエンブレア王国伝統の焼きっぱなしの素朴なものだった。”花麗国”の繊細で華やかな細工を施された菓子も良いが、マリーナにはそちらの方が馴染があり、はっきり言って好物だった。
王宮で出る菓子は”花麗国”風ばかりだったので、途端に懐かしくなる。
欲しい、と言えば、一個くらいくれるかもしれないが、それは図々しいような気がして止めた。それに何よりも、アルバートから菓子を貰ったロバートが感動のあまりひれ伏さんばかりなのを見て、一個だとしても、彼からその菓子を取り上げたら、恨まれそうだと思った。
「ありがたき、幸せです」
押し抱くように銀の盆を持ち直したロバートに、アルバートはしばらく下がっているように命じた。そして、マリーナを連れて行く。
普段ならば、不機嫌になるはずのロバートだったが、菓子の方に気を取られている。
珍しい。
「ロバートは甘い物が好きなんだ」
「――そう……なのでしょうか?」
アルバートはそう言ったが、マリーナは普段のロバートからはそんな印象を受けない。
「ジョンも甘い物は好きだろう?
用意させるよ、お茶にしよう」
「あ……あの!」
「何?」
「お話が……」
恐る恐る申し出ると、唇を人差し指で封じられた。
「ここではいけない。部屋の中で聞こう」
アルバートの甘くて、どこか艶っぽい声音に、マリーナは心の守護艦の点呼を始めた。ローレンスのおかげで、新たな乗員が増えていた。かつて『夕凪邸』に来た海の男たちが満載だ。有難い。鯨の歯の彫刻も握る。
そうでなかったら、唇に触れたアルバートの指先から全身が溶けていきそうになる。
***
お茶はマリーナが淹れた。その様子をじっと見つめられた。アルバートはこちらにも関心がありそうだ。
「殿下、殿下はお茶など淹れる必要はありませんよ」
先に釘を刺してみると、案の定、不満そうな顔をされた。
「あの、僭越かと存じますが」
「ジョンは私に、何か意見があるようだね。
それは構わないよ。私はジョンにそれを求めて、ここに来て貰ったのだから。
でもね、外や人目のあるところではいけない。
君が私の寵愛を笠に着て、よからぬことを吹き込んだり、願い事をしたりすると思われてしまうからね」
「ちょ……!」
先ほどの制止の意味は分かったが、『寵愛』という単語に反応してしまう。
もう一回、点呼をすると、パーシーが言う所の『ろくでなし共』は逃げ去ってしまっていた。それでも、まだ、精鋭たちは残って、彼女の心を守ってくれる。
「それで? 何かな?」
素直な瞳が輝いた。駄目だしを喜ぶなんて、変わった人だ。
「ジョンは私の何に気が付いた?
服は上手に着られるようになったと思うが」
「それですよ!」
マリーナはローレンスの話をした。
「殿下は彼の仕事ぶりがご不満で?」
「いいや。ローレンスはよくやっている。だが、私も一人で服を着られるようになってもいいだろう?」
「なんの為にですか?」
「え?」
アルバートは固まった。「その方が……頼りがいがあるように見えないかな? 海軍士官はみんな自分で服が着られるのだろう?」
しかし、艦長ともなれば、従者が付いて世話をする。それはなぜだろうか?
「ですが、殿下は海軍士官ではなく、王太子殿下です。
自分で服を着る必要も、お茶を淹れることもありません」
「何もしなくともいいと?」
「殿下はそうお思いですか? 私は、殿下は非常にお忙しく、様々なことをしていると思っております。
毎日、忙しく予定をこなしています。大局を見て、動かす立場にあります。
服とか、お茶とか、そういう些末なことは、我々にお任せを。
上に立つ者が、その能力を如何なく発揮できるようにするのが、仕事なんですから」
「だが……世間のことを知らず、民の為の政治が出来るか?」
つい、マリーナは頷きそうになる。海軍艦長と王太子の違う所と言ったら、下積みが無い所だ。チェレグド公爵のように市井にあったものが、高位貴族になった訳でもない。アルバートは生まれながらの王太子であった。事実、相当の世間知らずだ。
「それはそうです。
殿下はそれをお知りなりました。お気づきになりました。
それで十分です。これからも、知る努力はしていただきたいです。世の中には貧困や病気に喘いでいる人々が多くいます。
その者から見れば、殿下は恵まれているでしょう。
ですが、実際、出来るかどうか、同じ立場になるかどうかは、また別の話です。
船乗りだって、帆を操る者も居れば、大砲を撃つ者もおります。
海図を見て航路を決める者、料理を作る者、病気や怪我のものを診る者。
様々な役割を担ったものが乗っています。それらが、各々の力を合わせ、一つの艦を動かしているのです。それをまとめあげる役割なのが、艦長なのです。
殿下は王太子なんですよ。王太子には王太子の役割があります」
「王太子でなくなったら?」
弱音を吐いていると思いきや、その顔は面白そうだ。彼はなんだかんだ言って、王太子の役目を全うすることに、何ら疑問も葛藤もないのだ。でなければ、国の為に王妃に逆らい、マリーナ・キールと結婚しようとは思わなかっただろう。
「その時は――その時です。その時こそ……」
「その時こそ?」
「ボタンの少ない服を着れば良いのです。最新流行だそうですよ。
ただし、身体の線が如実に現れるので、鍛えておかないといけないそうです」
アルバートは笑った。「我が母上も、菓子を控えているそうだ」
それでアルバートに菓子が回ってきて、さらにロバートに下賜されたようだ。要はあの菓子は、王妃と王太子に邪魔にされ、たらい回しにされたものだったのだが、忠義に厚いロバートとっては褒美に等しいものだった。
王太子に対する忠義こそロバートの生き甲斐であり、報われている。
「ローレンスには生き甲斐が必要だな。彼には世話になったと言うのに、すぐに役目を取り上げるのは、さすがに悪かった。
彼が役目を果たせる間は、任せよう。
ただし……このような仕事は徐々に廃止していく方向が良いと思う。
王宮の人件費も、税金から出ているからね。
服にボタンはそんなに多くなくても構わないことが分かったし。少なければ手間も衣装代も減らせる――」
「はい。そのように……殿下?」
マリーナは嬉しくなり、アルバートにお礼を言おうとしたが、肝心の彼が固まっているので、戸惑った。
「殿下?」
呼びかけてみたものの、アルバートは動かなかった。突然、機嫌が悪くなった訳ではないようだ。おそらく深く考え込んでいる。
邪魔をしないように、マリーナは静かに側に控えることにした。テーブルの上には色とりどりの”花麗国”のお菓子。あの『暁城』のピクニックを思い出す。
王太子の祖母が、”花麗国”出身のせいか、王宮の食卓はそちら側に偏っていた。ただし、服の流行はすぐには追いついてこないようだ。
あれ?
マリーナはお菓子を凝視した。
王妃の服装は”花麗国”の最新流行のはずなのに、お菓子はそうではなかった。それとも、さらに流行の最先端すぎて、マリーナの知識では把握できないのだろうか。あとで、ミリアムに相談しようと思っている内に、固まっていたアルバートが戻ってきたようだ。
「なんだジョン。そんなに菓子が食べたかったのなら、遠慮せずに食べれば良かったのに」
そうして、”ジョン”の好きなクルミ入りの菓子を勧めてきた。
「ち……違います」と、王太子の言葉を否定しつつ、マリーナは熱いお茶を淹れ直した。ふんわりとお茶が香った。
そう言えば、”花麗国”出身で、嫁ぎ先のエンブレア王国を見下している王太后と、その国の下位貴族出身の王妃の仲は良くなかったはずなのに、王妃は”花麗国”の流行を追っている。
確かに、ミリアムを初めとして”花麗国”は女子憧れの国だ。さほどおかしいことではないのに、マリーナはどうしようもない違和感を抱いた。




