037:亀の甲より年の功
ほとんど初めて触れるベルトカーン語と、初めて感じる妙な気持ちにマリーナが混乱している内に、アルバートはどこかに行ってしまった。
どこか……おそらく、王妃の元だとは分かっていた。
王宮に来て、なるべく早く王妃に会わせてくれると言っていたくせに、アルバートはなかなか、それを叶えてくれない。
朝と夕。
”孝行息子”は律儀にご挨拶伺いに行くが、戻ってくると、しばらくは固まっている。機嫌が悪いのか、憂鬱なのか、そのどちらかなのを、気づかれたくないのだと思われる。
その時点で、バレバレなような気がしないではないが、一応、アルバートの配慮なのだから、こちらも気が付かないふりをするのが礼儀であり、ロバート風に言わせれば、忠義なのだ。
「けど、また、留守番?」
思わず不満な声が出て、口を押さえた。
危ない、危ない。
こんなこと、ロバートに聞かれたらお説教される。
それに、今のマリーナには、初日のように寝台で居眠りなど許されない。やることはたくさんあった。
マリーナはかなり把握出来てきた王宮内を移動し、衣裳部屋に顔を出す。そこで、明日、王太子が着る予定の服一式を受け取るのだ。
アルバートは自分一人で服を着られるように努力しているが、その服がどのように用意されているかは、おそらく、知らない。
知らなくても良い。
これ以上、そんな些末なことに煩わされ、時間を費やし、他の予定に影響が出るのは勘弁して欲しい。先日も、朝の着替えに手間取ったせいで、王妃への朝の挨拶をすっ飛ばし、神聖イルタリア帝国の駐在大使との面会に臨んだせいで、王妃の機嫌が著しく悪くなり、それはそれは大変だったと聞き、マリーナはげんなりとした。
アルバートが気鬱の療養という名目で、王宮を離れることに、王妃以外の誰も疑問をもたなかったのも頷ける。そりゃあ、少しの間でも、母親のスカートの中から抜け出したいだろう。
彼はそうして『夕凪邸』の近くの『暁城』に滞在して、アシフォード伯爵として舞踏会を開き、マリーナと出会う予定だったのだ。結局、舞踏会は『夕凪邸』爆破焼失の影響で、有耶無耶になったが、その準備の為に集められた食料は近隣の農村に下げ渡され、村人たちは秋祭りも兼ねた盛大な宴会を催したようだ。そして、言わずもがな、マリーナは”ジョン”としてここにいる。
まだ一か月もしていないのに、随分、昔のことのようだ。アルバートの付き合いで身体を動かすことも多かったので、マリーナは思ったほど、王宮に閉塞感は抱かなかったが、それでも、『東の森』やコーナー家の農地といった自然が懐かしい。
「お待たせしました。こちらが明日の殿下のお召し物でございます」
明日は、大臣との会合、午後はお茶会……か。
組み合わせを間違えないように、アルバートに手渡さなければいけない。
もう、全然、一人で着替えてない! 早く気が付いて!
マリーナはにこやかに笑いながら受け取った。王宮では笑顔が大事らしい。おかげで、王宮内での評判は、田舎臭い少年から、純朴そうで誠実な”ジョン”に格上げされていた。小さなことからコツコツと。
「ありがとうございます」
若い衣装係の女官は頬を染めた。
自分の男っぷりも、なかなかじゃないか。マリーナは調子に乗った。
機嫌よく出て行こうとしたところに、部屋の隅で座っている老人に目が留まった。他の人達は忙しそうなのに、彼一人、何をする訳でもなく、悄然としている。
「あの方は?」
「ああ、ローレンス翁ですわ。
王太子殿下の着付け係ですの……でした、かしら」
ほら、もう、お見限りだから、と女官は憐れみと、どこか蔑むような視線を向けた。
その視線に気が付いたのか、ローレンスは俯いたまま、部屋を出て行ってしまった。
マリーナはその姿に、昔、父を訪ねてきた海の男たちを重ねた。
小さい頃から軍艦に乗ってきた彼らは、アルバートが思っているほどなんでも出来る存在ではない。キール艦長もそうであったように、海の上でこそ、生きる連中だった。しかし、何らかの理由で艦を降りた彼らは、陸の上で生活をしていかねばならない。実家に帰って、農地を耕したり、家業を手伝えるものは幸いである。多くの者たちが、軍艦に乗り、命をかけ、実際、手足を失っても守った国から見捨てられ、路頭に迷っていた。
キール艦長の元にも、そうした者たちが金を無心にやって来ていたのだ。艦長は元の部下を見捨てなかった。若い者には職を紹介した。とは言え、全ての人間が真面目に働くとも限らずに、その金を無為に使い、またやって来ることもあった。そういう人間も、三度までは許された。だが、四度目はなかった。キール艦長の援助は途絶え、恨み事と憎しみ、そして、暴力に訴えるものもいた。マリーナも随分と怖い思いをしたことがあった。それでもキール艦長は許さなかった。
パーシーに言わせれば『艦長にたかろうなんて奴は、最初から真面目に働くような奴らじゃないんだよ』ということなのだが、援助を元手に、生活を立て直し、金を返しにくるものもいた。
対して、老齢の者には制限をつけず優しかった。時には、無償で金を渡し、面倒を見た。『夕凪邸』の借金は、そうして出来たものも多い。
『若い者はやり直しがきく。海で敵に向かって行った気概があれば、軍艦で我慢出来たのならば、新しい生活にだって立ち向かえるはずだ。
だが、年を取ったものはそれが難しい。決して憐れんでいる訳ではない。尊敬しているのだよ。彼らは長く努力と辛抱を重ねて、一つの生き方を得た。
それを変えるのには、時間も気持ちも、ついていかないのは、どうしようもないことなのだよ』
『夕凪邸』にもパーシーの他に何人か、キール艦長の元部下が居た。彼らは十歳前後で軍艦に乗り、白髪になるまで乗り続けたものばかりだった。幾度の死闘も乗り越え、劣悪な環境と粗末な食事、蔓延する病気にも打ち勝ち、生きて陸に上がったことは奇跡のようなものだった。しかし、陸での彼らは、海ほど必要とされなかった。身寄りがなかったので、キール艦長の元を頼ったのだ。
身体は老いてはいたものの、真摯にキール艦長に努め、粗野ではあったが、マリーナには優しく親切で、いろいろな面白い話をしてくれた。
ナッシュは初め、商船に乗っていたらしく、東の果てにあるという奇妙な髪型の国の話や、見たこともないような生き物の話をしてくれた。
リードは手先が器用で、クジラの骨や歯を彫った小物をくれたり、木っ端で帆船模型を作ってくれた。
シンプソンは繕いものが得意で、ビルは大砲の撃ち方を見せてくれた。
彼らの話は与太話ばかりだ、とパーシーは笑ったが、とにかく楽しくて、わくわくした。マリーナにとって、彼らは必要な存在で、大事な人たちだった。そして、小さな女の子に必要とされた老人たちは、そこに生きがいを見出した。
ローレンスは、時が連れ去っていった『夕凪邸』の老僕たちに似ているような気がした。
マリーナは服の上から、鯨の歯の彫刻を握った。これはリードが作ったものかもしれない。とても細かい細工で、何を表わしているか分からないけど、見事な物だった。
「あの……」
「何かな? お嬢さん」
「――私は男です」
話しかけると、ローレンスは胡乱な目でマリーナを見た。晒の奥で心臓が高鳴った。
自分ではすっかり男のような気分になっていたことに、冷や水を掛けられた。が、ローレンスが見抜いたとは言いきれない。ロバートにもよく「女みたいに細いな。もっと食え。そら食え。もっと食え」とからかわれているからだ。
「――そうか、最近の若い者は分からないねぇ。服からはボタンがなくなり、女が男の恰好をするようになるなんて。嘆かわしい」
そのようだ。
ミリアムに王太子のボタンの話を手紙に書いたら、『”花麗国”の最新流行は、コルセット無しの、ボタンが少ない、身体にそった服なんですって』と返って来た。『けれども、その場合、体型にごまかしがきかないから、かなり高度なお洒落よね』とも。
「王太子殿下の服は、まだボタンが多いですよ」
ギロリと睨まれた。痩せこけているせいか、目ばかりが目立つ男だ。
「殿下は上手にボタンが留められているかねぇ」
赤ん坊に語りかけるようだ。実際、ローレンスにとっては、”お小さい頃からお世話をした王太子殿下”なのだ。
「あまり……」
答えると、「はぁ」とため息が返ってくる。
「だが、儂よりは上手になさるだろう」
ローレンスは震える手を持ち上げた。
「ここ最近は、手が思うように動かなくてね。それで殿下は儂を役立たずと思ったに違いない」
「違います!」
大きな声が出た。『東の森』ならともかく、王宮でははしたない。ローレンスも咎めるような目で見てくる。
「殿下は……えーっと、ちょっと興味を持っただけです。
あの方は、好奇心が旺盛だから? そうですよね?」
「――そうだな。お小さい頃から、賢い方だった」
「そうですよ。もう少ししたら、ボタンの構造も分かって、納得するでしょう。
それまで、ミスター・ローレンスはお休みになれば宜しいのです。
殿下だって、この間まで、休暇を取られたのですから」
「殿下と儂では、背負っているものが違うのだ。儂に休暇はいらん。
若い頃に王宮に上がり、衣装係となって幾星霜……昔は、私が殿下の父君、今の陛下の服を選び、仕立てを命じ、着せて差し上げたものだ。
それが段々と、儂の選ぶ服は古臭いと言われ、どんどんと若い者に仕事を奪われ、それでも殿下のお役に立つことだけを考え、最期に残された仕事だけでも全うしたかったのに。
儂はやはり役立たずの、時代遅れのいらない人間なのだ……」
ローレンスはもうマリーナを見てはいなかった。そのまま、トボトボとどこかに行ってしまう。
マリーナはアルバートの服を持ったまま、憤然とした。




