036:すまじきものは宮仕え
マリーナの王宮生活は、割合、平穏無事に過ぎていた。
王太子殿下は何に感化されたのか、「これからはなるべく自分一人でなんでも出来るようになりたい。勿論、着替えもだ」とのたまい、ロバートとマリーナだけを残し、もたもたと服を着るようになった。最初はちょっと恥ずかしかったマリーナだったが、考えてみれば、初めて会った時から上半身は裸で、着替えを手伝った。これも運命か。
とは言え……。
「殿下、ボタンが……」
掛け違えたボタンをロバートが直そうとするが、無骨な彼の大きな手では、繊細で小さな王太子のそれを直すのに時間がかかる。下手をすると服ごと、引きちぎりそうだ。図体のでかい男が、やたら色気のある男の服を破くなんて、朝っぱらから見たいものではない。いや、昼でも、夜でもお断りだ。
そこでマリーナが、嫌がらせのように小さくて数がやたらと多いボタンを直してあげるのだが、その度に「お前のような小僧が、王太子殿下の身に触れるなど、本来ならば、あってはならないことだぞ」とロバートが口うるさく言ってくる。
ロバートはアルバートの乳兄弟らしい。多くの女官たちを折檻してきた王妃から、ただの一度も手を上げられたことのない貴重な存在である乳母が母親だった。彼女は実の息子よりも、王太子に乳も愛情も多く与えたが、それを僻むことなく、ロバートのアルバートに対する忠誠は深かった。同じ乳で育ったのに、自分の方が身長が高く、健康で、頑丈なことに恐縮するほどに。
そんなロバートは本来ならばこのような雑用をする立場ではない。しかし、アルバートが彼とマリーナ以外の侍従を下がらせてしまったのだから仕方が無い。
だが、彼自身、人に仕えられる身分であったのと、器用ではないこともあって、役目を上手くこなせないのをもどかしく思っている。それでさらに、ボタンは嵌らず、紐は絡まっていく。
だから”ジョン”の存在を、有難いとは思っているようだが、大事な王太子に無礼があってはいけないと、小姑の様にやかましいのだ。
「心得ております」
そう言いつつ、マリーナは手早くアルバートの服を直した。『夕凪邸』でミリアムの着替えを手伝っていたことが役に立っていた。アルバートに尊敬の眼差しで見られると、嬉しい気分と、こんな簡単なことを一人でやらせてもらえなかったなんて、王太子も大変だな、という気持ちになる。
ただし、代わりに彼は、マリーナには出来ないことを平然とこなせる。
王宮でのしきたりも、公式の行事も、剣術も。王の代理として政務にもあたっていた。”花麗国”とベルトカーン王国の間の緊張状態、友好国であるサイマイル王国と神聖イルタリア帝国とのつきあい。海の向こうの国々との貿易。
マリーナにはさっぱり分からないことばかりだ。服くらい着られない方が、お茶目に思えてくる。
アルバートはマリーナを常に側に置き、様々なことに誘った。
『ジョン、食事が済んだら、今日は雪白に乗ろう。
予定は空いているな? ロバート』
『今から剣術の稽古だから見学するといい。
え? ジョンもやりたい?』
『今日はベルトカーン王国の言葉を学ぶ。
私はサイマイル王国と神聖イルタリア帝国、”花麗国”の言葉は得意なのだが、ベルトカーン語はまだ不得手でね。
この言葉は、きっとこれから必要になるはずだ。
ちょうど良いから、ジョンも一緒に学ぶが良い』
何がちょうど良いのだろう!
ある日、アルバートから語学の勉強を共にするように言われたマリーナは、叫びそうになった。
彼女は新旧キール夫人によって、一応、淑女に必要な素養は学んでいた。ピアノ、ハープ、歌、詩作、刺繍、家政などである。それに加え、父親によって数学と天文学、水泳を教えられていた。これは女性にしてはちょっと珍しいことで、その点に関しては他の男たちにも負けない自信があった。
パーシーには無理を言い、剣術も習った。もっとも、王宮で学ぶような端正なものではなく、揺れる艦の上で、もしくは狭い艦内で振るう、極めて実戦的なものだった為、アルバートの剣術の師匠に一から素振りの練習をするようにと言われ、矯正中だった。
それには多少不満はあったが、パーシーよりも熱心に教えてくれる師匠には感謝していた。
乗馬も、勿論、楽しい。
だが、外国語は駄目だ。さっぱり分からない。
不得手と言いながらも、アルバートの授業は進んでおり、側にいるだけでも、頭が揺れそうになり、ロバートの目を盗んで腿を抓る有様だ。そういうロバートもよく、身体がビクッとなっているのは、寝落ちしているからに違いない。
「ベルトカーン語よりも”花麗国”語の方が……」
まだ馴染みがある。
ミリアムが勉強していたからだ。彼女は小さい頃から”花麗国”に憧れ、マリーナの母親からその言葉を習っていた。家庭教師の娘が、雇い主の夫人から言葉を学ぶなんておかしいことだが、”イヴァンジェリンさま”は気にしなかった。母親がなぜ”花麗国”の言葉をあんなにも流暢に操っているかすら、深く考えたこともなかった。今、思えば、”イヴァンジェリンさま”は公爵家のご令嬢だったという訳だ。王族や高位貴族にとって、”花麗国”語は必修なのはマリーナも知っていた。
が、いつも「マリーナも一緒にどうかしら?」と母親に誘われたのを、「パーシーと剣術の練習をした方が楽しい!」という理由で、断ったのが悔やまれる。
”花麗国”語を勉強したかったのではない。母親から習ったものは、形見であり、その時間は思い出となったはずだ。あんなに早く、お別れするとは思ってなかった――。
「ジョン? どうしたの? 気分が悪い?」
「ええ――っと、難しいかなぁ、と」
”花麗国”語は発音が難しく、ミリアムも今ではすっかり”読む”専門だ。田舎では”花麗国”の人間に会うことはまずないし、彼女はお洒落の情報を雑誌で読むだけなので、”話す”ことも”書く”ことも必要なくなっていった。
「ベルトカーン語は”花麗国”語よりは簡単だと言われているよ。
文法も発音も似ているから、という理由でね。
私は逆で、似ているのに、ちょっと違う方が苦手なんだけどね」
「そうですか……」
一人で服が着られなくても、アルバートは語学に卓越した才能があるようだ。
サイマイル語にイルタリア語、それに”花麗国”語を流暢に操れるなんて……。
「あ……」
「何か?」
「い……いいえ!」
マリーナは慌てて頭を振った。
嫌なことに気が付いてしまった。
エンブレア王国で、もっとも重要で、まず習得すべきとされているのは、先にも述べたように、海を隔てた隣国”花麗国”の言葉だった。周辺国でもそうなっており、謂わば、国際公用語の位置づけだった。
どの言葉を話せるか聞かれた時には、”花麗国”語から申告するし、一般的に、学習もそこから始めるものだ。
なのにアルバートは、サイマイル語から順に並べて行き、イルタリア語、”花麗国”語と述べていった。それすなわち、従妹であるヴァオレットの嫁ぎ先であり、その順番ではなかろうか。
それとなく聞けば、やはり最初に学んだ外国語は”花麗国”語だと言う。
やはりアルバートはヴァイオレットを常に意識している。
そう思うと、マリーナは知らずに気分が重くなった。




