034:旅は道連れ世は情け
チェレグド公爵一行の馬車はなかなか進まなかった。たびたび、休憩を挟んだからだ。
”アシフォード伯爵”の馬車から下りると、マリーナは深呼吸をした。彼女の心の港には、見送ったばかりの兄ジョアンやコンラッドといった海の男を乗せた守護艦がどっしりと錨を降ろして停泊していたが、それでもアルバートと同じ馬車という密室に閉じ込められるのは、精神衛生上良くなかった。
窓を開けられれば良いのだが、警備の関係上、それも出来ない。
「ジョン、疲れてはいないか?」
長旅に慣れていないマリーナをアルバートは気遣ってくれている。
「私は平気です」
王太子に心配を掛けるような小姓など不要だ、とマリーナは思い、毅然と答えた。
立派な心がけだが、アルバートは固まった。彼の中で、急ぎ、対応が協議され始めた。
そんなこととは露知らない、ある意味、気が効かない小姓はチェレグド公爵の馬車の方を見た。
「ですが、姉はそうではないでしょう。
殿下の旅程を狂わせてしまい、大変、恐縮ですが、このように休憩の時間を作って頂けること、有難く存じます」
「あ、そう?」
「はい」
凍結を解かれ、やや間抜けなアルバートの返事にマリーナは微笑んだ。
***
「チェレグド公!」
「はい、殿下。なんでございましょう」
宿屋の軒先に座って、茶休憩をしてるマリーナを置いて、アルバートが寄ってきたので、チェレグド公爵は『なんの用だよ』と思いながら対応した。
明らかに面倒臭そうな上機嫌さだ。
「ジョンが私に感謝している。礼を言ってくれた」
マリーナが自分に好意的な態度をとってくれたのが余程、嬉しいらしい。
「――そうですか。宜しゅうございましたね」
『なにか? 思春期男子の初恋ですか?』
恋愛嫌いの男が、それを撤回すると非常にうっとおしいことを、チェレグド公爵は知った。
「姉君たちは元気かな? ジョンが気にしている」
中を見られることを警戒して、チェレグド公爵の馬車の窓はカーテンが下ろされていた。
乗客はマリーナ・キールとミリアム・キールということになっているのだ。チェレグド公爵邸に辿りつくまで、ローズマリーの姿を見せる訳にはいかない。
身体が弱く、旅慣れていないローズマリーの心身への負担を考慮して、アルバート一行が馬で駆ければすぐの道程も、休憩と宿泊をたっぷり入れて、三日の行程となった。
その分、危険性が増す。
アルバートの呑気さが恨めしくもなるが、それはチェレグド公爵の都合なので、大きな声は言えない。小さな声でも言えない。
彼が一番警戒しているのが王妃一派ではなく、部下である艦長だなんて。
馬車に乗り、この道を行くと、彼は二十年も前のことを思い出す。彼がまだ、ミスター・エリックと呼ばれていた頃、妹と謀って、自分の馬車を”山賊”に襲わせた時のことを。
”山賊”の正体は、エリザベス・イヴァンジェリンを愛するキール艦長とその一味だった。そして、恋人同士は結ばれた。
それと同じことが起きるのを、チェレグド公爵は恐れているのだ。彼は港に使いを遣り、ジョアンとコンラッドが艦に乗り込んだことを確認させた。しかし、艦はまだ、出港してはいない。乗員や食糧・水などの準備もあるからだ。陸の官吏は安く艦を走らせようとし、商人たちは高く粗末な物品を納入しようとする。それらを防ぎ、適切な品質と量の艦載品を手に入れ、艦を動かすのに必要で、経験豊かで有能な乗組員を確保するために、艦長や副長、主計長たちは奔走しなければならなかった。
その隙をついて、ジョアンが舞い戻ってマリーナを攫い、出港準備を整えた艦で海の向こうに逃げてしまう可能性が全くないと否定出来るか?
別れの際に、マリーナは義兄に抱きついた。その時のジョアンは、守ると誓ったはずのマリーナを危険の中に置くことへの葛藤が溢れていた。
今なら艦ごと敵対するベルトカーン王国に持ち込めば、それなりの地位と報奨が確約されるだろうが、言い換えれば、そうまでしなければジョアン個人では、マリーナをこの混乱から引き離せないということだ。ただし、そこまでする覚悟を見せたのならば、チェレグト公爵にも考えがあった。勿論、大人しく海に出てくれるのが一番いい。
「ああ、紅茶がきたようだ」
アルバートは宿から運ばれてきた紅茶の盆を受け取ろうとしていた。
「気が付かずに申し訳ありません」
まさか王太子に持たせる訳にはいかない。チェレグド公爵が受け取ろうとすると、何を思ったか、アルバートは馬車から出て来た赤毛の女性を見つけ、そちらに声を掛けた。
しかし、それはいけない。一番、まずい人選だ。
おまけに、なぜ、ミリアム・キールはそれを受け取ろうとしているのだ。どうせ落とす癖に。
「で……いや……私が……あ! ちょうど良かった、そこの者、その茶をマリー……ナに」
「はい! 閣下!」
まだまだ幼さの残る少女……ノラが慌ててやって来た。
彼女もすっかり、ミリアムに割れ物を任せてはいけないことを把握していた。今まさに、ミリアムに手渡されそうとする紅茶の載った盆をひったくるように取り上げた。
ポットからアルバートの方に熱い紅茶が噴出してしまったので、チェレグド公爵とノラが恐縮するが、アルバートは気にした素振りを見せなかった。この場に王妃はいなくても、自分が危険な目にあったと思われるような振る舞いを見せてはいけないことが身に染みているのだ。
「君は旅の疲れもなく、元気そうだね。
その調子でマリーナ・キール嬢を頼んだよ」
「はい……アシフォード伯爵?」
腹芸とは無縁のノラは王太子と知る相手に、しどろもどろで答えた。
こんな立派な人に求婚されるマリーナさまはすごい人だと、軒下で美味しそうに茶を啜っている”ジョン”に目がいく。
「ノラ……冷める前に、それを馬車の中に持って行って、マリーナに渡してくれないか?」
その危なっかしい視線をチェレグド公爵は巧みに逸らす。
「は……はい!」
「冷めた方がいいわよ。私は熱い紅茶は苦手なの。舌を火傷しちゃうから」
そう言いつつ、ノラの持つ盆から大きなティーポットを持ち上げカップに注いだミリアムは、それを近くに控えているパーシーに持っていき、頭からぶちまけかけた。予めその動きを予測して回避行動を取っていたパーシーでなかったら、大惨事だ。
「きゃー、ごめんなさい」
「ミリアムさま。お気遣いはありがたいのですが、どうかご自身のことだけをしっかり、確実に、間違いなくこなして下さい」
パーシーに説教をされ、うなだれるミリアムを遠目に見て、つい本音に近い台詞がチェレグド公爵の口から出る。「何をやっているんだ? あれは」
アルバートは悠長にも「あちらの姉君は元気そうだね」と言うと、急いでマリーナの元に戻って行った。ミリアムにかかっては、本当に火傷してしまいそうだからなのかもしれない。
『そうそう、おたくが紅茶を被ると、王妃があの娘の顔を熱した火箸で焼きかねないんですよ。君子危うきに近寄らずってね』
「閣下」
自身も紅茶を貰い、立ちながら飲んでいるチェレグド公爵の元に、地味な男がひっそりと近づく。
「なんだ?」
「ウォーナー艦長、ご子息・コンラッドさま”ヴィヴィアン号”に乗り込み、無事に出港いたしました」
ジョアンの艦は”明星号”から新造の”ヴィヴィアン号”に変わっていた。新しい上に、大きく、砲門数も多い。乗員も出来るだけ有能な人物を乗せるように配置してある。ベルトカーン王国の動きが活発化し、”花麗国”の内情は荒れている。エンブレア王国の周辺海域は風雲急を告げていた。ウォーナー艦長は、新造艦でもって、いざという時に対応する役目を期待されていた。
「間違いないか?」
「はい。この目で確かめました。甲板にお二人の姿がありました」
「そうか。ありがとう」
チェレグド公爵の労いに、男は小さく頭を下げ、来た時と同じように去って行った。
これで、彼の気がかりは一つ減った。ただし、一粒種の息子の身を案じる父親の心配が新たに加わるのは、避けられないことであった。




