032:乗りかかった船
ジョアンとコンラッドであるが、こちらは、すでに王都へ出立していていた。今頃は港にいるはずだ。
彼らは海軍士官であり、艦を任された艦長と、その副長であった。
休暇は終わり、新たな任務が与えられた。
海軍大臣はチェレグド公爵であるから、猶予期間を作ってくれて、二人が側についてくれると思っていたマリーナは心細く思ったが、すぐに諦めた。
休暇が終わった海軍士官は海に帰るものだ。
見送る日、マリーナは姉二人と同じように、ジョアンと抱擁を交わして別れの挨拶をした。ジョアンはマリーナを力強く抱きしめ返してくれた。
『お気をつけて』
『――マリーナさまも……どうぞ御身、お大事に――』
最初から、こうしておけば良かったんだわ。温かい”兄”の身体を感じ、マリーナは思った。
それから、コンラッドには手を差し出す。彼は驚いた様子で王太子のように固まっていたが、強引に手を取り、握った。公爵家の嫡子の伯爵であっても、艦の索具を扱う船乗りの手だった。
『ジョアン兄さまのこと、お願いしますね』
『ええ、マリーナ嬢。ウォーナー艦長が無謀なことをなされないように、しっかりと見張っておきますからね』
コンラッドはマリーナに無理やり握手されたことに苦笑しつつも、お茶目に片目を瞑って見せた。
「悪いね、マリーナ。
海軍の艦には限りがある。多くの艦長が、自分の艦を持てずにいる。
その中で、ウォーナー艦長は自分の艦を得ている。その幸運を持続させるには、乗り続けねばならないのだ。
それに海軍はウォーナー艦長の手腕を必要としている」
「エリック伯父さん、分かっています。
ジョアン兄さまは王宮なんかの陰険な陰謀よりも、海の方がずっと性に合っているはずですもの」
マリーナはその説明に納得したが、チェレグド公爵の方が心中、複雑な気持ちだった。マリーナこそ、その王宮の陰険な陰謀のただ中に飛び込むのだから。
***
アルバートは”ジョン”を女の子だと気付いていたし、その女の子がマリーナだということも分かっていた。
初めて会った時に、少年だと思ったのは確かだった。
なにしろ髪の毛があんなに短くて、ズボンを履いた女の子を見たのは初めてだったからだ。
もっとも、『暁城』に帰って思い直す。
王宮の貴婦人たちは長い髪を結い上げ、裾の長いドレスを着ているが、田舎の娘の服装は違うのかもしれない。確かに、水を運ぶのには、ドレスよりもズボンの方が楽だ。
アルバートは世間知らずだったが、そのせいで、常識に囚われない面もあった。
おかげで、男の恰好をしているけど、やはり自分が会ったのは女の子ではないか、という疑惑が湧きおこり、次の日、泉の水を口実に改めて会いに行ってみれば……女の子かなぁ? というくらいには見えた。
それから付き合う内に、どうやら”ジョン”は本当は女の子で、マリーナ・キール嬢であろうという目星をつけた。
自分が当の本人に結婚するつもりだと言ってしまったのは失敗したかと思ったが、よく考えてみれば、隠しても仕方がないことだ。それよりも、マリーナが”ジョン”の恰好で王太子を知ろうとしたのと同じように、アルバートも”ジョン”を通じてマリーナを知りたいと思ったのだ。
チェレグド公爵にそのことを確認した彼は、一度、取り下げた求婚話を、再び持ち出した。
ただし、今度は政略ではなく、本心からのものだった。
彼はローズマリーをマリーナと誤認した。”ジョン”はやはり男の子だったのだと、茫然とした。
その誤解が解けた時、アルバートは心から嬉しくなったのだ。その心の奇妙な変化を、彼は恋心だと認めるまでに時間がかかり、尚且つ、自分の迂闊な行動で彼女の住む所を奪い、家族の身を危険にさらしたことを改めて悔いた。
「愚かだった」
「そうですね。殿下にしては珍しいほど勇み足でした。
しかし、私もこの計画を知りながらも、防ぐことは出来ませんでした。同罪です」
ジョアンが拿捕してきた密輸船関係の処理で忙殺されている内に、若い連中が暴走したのを止められなかった。
『畜生。勝手に動くな、馬鹿どもめ』
チェレグド公爵は、若い頃に培ったがらっぱちな性格の上に、公爵という身分に相応しいような立ち居振る舞いをうっすらと乗せているような人物だった。なので、心の中で毒舌突っ込みながら、王宮や海軍省の荒波を渡っていた。
「だがこの国の現状を、このままにしておくことは出来ないと思ったのだ」
「はい」
その件に関しては大いに同感である。
先代チェレグド公爵であった兄は、王妃とことごとく対立していた。もっともそれは、政治的だろうがお洒落の流行だろうが、多分に感情的で、国を良くしようとか、民の暮らしを楽にしようとか、そんな観点は一切ない、ただの自尊心と自尊心のぶつかり合いの非生産的な争いだった。
その先代からチェレグド公爵家を継いだ弟の考えは別だった。けれども、王妃の方は彼を先代と同じように見、同じように敵意を向けた。
陸に上がったエリック艦長はまず、チェレグド公爵としての地歩を固める必要があった。海軍閥も陸軍閥に対しては協調しても、内部にはまた別な派閥がある。それらをとにかくまとめあげ、貴族間での調整にも時間が掛かった。その間に、親友であったキール艦長を失ってしまう。王妃を刺激させない為に、残されたマリーナに表立っての援助も出来なかった。
王妃は、かつての恋敵の忘れ形見は、父親も失い、義理の母親と姉と生活していると聞き、ならばきっと、ひどく虐げられ、灰でも被っているに違いないという自分基準の思い込みによってマリーナまで手を伸ばすことはなかった。
田舎の小娘などに構っている暇はない。王宮には彼女を苛む敵が数多いるのだ。
その最たるものと王妃が信じて疑わないチェレグド公爵は”その期待に応えて”、今、ようやっと対王妃へと動き出す所だった。
それはアルバートも同じだった。
王室の慣例により、十五歳で独立した経済と家臣団を手にした。王妃からの過干渉からもようやく抜け出せ、自分の病気や怪我で女官たちが罰せられることも防ぐことが出来るようになった。
と、同時に王より政務の一部を任された。一部というか、ほぼ丸投げだ。
王妃派と反王妃派の間で、アルバートは悩まされた。王妃の息子だから王妃派であろうという大方の見方とは違い、彼はあくまで中立の立場を貫き、両派の意見のすり合わせに苦心することになった。
それが二年続き、アルバートは実際、気鬱気味になっていた。気持ちを奮い立たせるためにも、エンブレア王国では成人とされる十八歳を目安にして、王太子として王妃を抑え込み、国政を正常な状態に戻そうと決意した所に、想いを同じくするアシフォード伯爵コンラッドをはじめとする青年貴族たちが集まったこともあって、今回の件を企てたのだ。
若さ故の勢いは、若さ故の拙速さとなって現れた。そして王妃に完全に裏をかかれる。
『あの王妃一人の考えじゃねぇな。王妃には裏で操っている人間がいるし、王太子の近くには裏切り者がいる。それにしても、くそっ! マリーナを巻き込むことになるなんて、艦長と妹に申し訳がたたん』
「私はマリーナ・キール嬢を使って王妃に対抗しようと思った。
しかし、今は違う。
マリーナ・キール嬢の為に、王妃に対抗したいと思う」
「はっ……」
頭を下げるチェレグド公爵に、アルバートは慎重に尋ねた。
「どうか私を支えてはくれないか?
そなたの目には至らぬところも多かろうが、耐えて、指導して欲しいのだ。
必ずや、皆の期待に添える王になるように、努力と研鑽を怠らぬことを誓おう」
チェレグド公爵の脳裏で素早く計算が行われた。




