031:得手に帆を揚げる
女の身でありながら、王太子の小姓として仕えることになったマリーナは、新しいお仕着せ着て、アルバートの向かい側に座っていた。首には、父の形見の文箱の中に手紙と一緒に入っていた鯨の歯で出来た彫刻に紐を付けて吊るしていた。これを見つけたチェレグド公爵が「いいお守りになるから、肌身離さず身に着けておきなさい」と手渡したのだった。鞄には母の形見の本だ。それは馬車の後ろに置かれ、ガタガタと揺れていた。
アルバートは『暁城』にアシフォード伯爵として滞在していることになっているので、馬車にはその紋章が描かれている。その後ろに続くのは、チェレグド公爵の紋章がついた豪華な馬車だ。その中には、チェレグド公爵とキール男爵家のローズマリーとミリアムが乗っていた。彼女たち二人も、と言うか、二人が、マリーナの代わりにチェレグド公爵家に世話になることになったのだ。
そうなるまでには、一悶着があった。
まずはローズマリーの身である。彼女はマイケル・コーナーと結婚するはずだったのに、当の花婿を置いて王都に行くとは何事だろう。
愛するローズマリーの決断を、マイケルは戸惑いと疑惑をもって受け止めた。もしかして、自分への愛が薄れてしまったのだろうか。王都に行き、チェレグド公爵の伝手で、自分よりももっと条件の良い男と結婚しようと思っているのだろうか。
ローズマリーはマイケルの疑念に怒りを見せた。
自分の愛を疑うなんて、なんて情けない。自分はマイケルを愛している。結婚したい。
けれども――と、ローズマリーは言った。
キール艦長には恩がある。父を亡くし、母は子爵家の住み込みの家庭教師として働いていた。彼女たちは、その子爵邸の隅にあった湿気が多く、隙間風の酷い部屋を与えられた。身体が弱い自分はそこではきっと、長くはもたなかっただろう。今の自分があるのは、キール艦長が『夕凪邸』に呼んでくれ、温かい部屋と真心で、娘のように大事にしてくれたからだ。そして、彼の本当の娘であるマリーナも、自分を姉と慕い、髪の毛まで切って、薬代にしてくれた。
「血は繋がってないかもしれないけれども、マリーナは私の妹よ。私たちはみんな、家族なの。
家族が一大事の時は、一致団結して危機に立ち向かわないと」
寝ているだけの自分が役に立つことがある。マリーナの身代わりだ。
「だから変な心配はしなくても大丈夫よ。私は屋敷の中に引きこもって、誰にも会わないんだから。
危ないこともないわ。王都の真ん中にある、筆頭公爵家の屋敷を焼き打ちにしようなんて、さすがの”女狐”だって、躊躇するでしょう。
警備も『夕凪邸』とは比べ物にならない。”私は”安全よ」
男の恰好で、王妃の住む王宮に乗り込むマリーナの方がよほど無謀で危険だった。その危険性を少しでも低くするのが、”チェレグド公爵邸に住んでいるマリーナ”という存在なのだ。
「それにね……」
うふふ、とローズマリーは笑った。
その笑顔を見たミリアムは、姉はなんだかんだ言って、マリーナを名目に、自分の望みを叶えたいだけだと悟った。
「私、一度は王都に行ってみたかったの。
ううん。外に出て、華やかな生活をしたい訳ではないの。
新聞よ! 王都なら、その日のうちに、その日の新聞が読める。
さらに、中央政権のあれやこれの、まさに権謀術策の中に身を置ける……!」
マイケルは、まだ妹のミリアムほど、ローズマリーの性格を把握してはいなかったが、彼女の知識欲が刺激されたことを理解した。
駄目押しに、彼女は付け加えた。
「あと、チェレグド公爵閣下は、私がマリーナの身代わりになる危険と引き換えの代償をきちんと払ってくれるそうよ。
だから国内でも屈指の腕を持つ名医に、私を診せてくれるんですって。
そうしたら、帰ってくる頃には、あなたのお嫁さんとして相応しい健康を手に入れられるかも」
もしかすると、それが最大の理由かもしれない。
一転して、マイケルとミリアムはローズマリーがついでのように話したことが、彼女の本心だと感じた。
『東の森』の水も薬草も、彼女の体質を本質的には改善出来なかった。ならば、もっと新しい方法を試してみたい。
コーナー家は農家だ。身分が高い嫁よりも、働き者で、元気な方が好まれる。
「うちは兄弟も多いし、母はそんなこと、気にしないよ」と言いつつも、マイケルも王都の医者に期待を持った。
「僕の愛するマリー。少し寂しいけど、君の家族は僕の家族でもあるよ。
だから、僕も精一杯協力する」
こうして、ローズマリーはマリーナのフリをして、チェレグド公爵家の馬車に乗り、その屋敷へと向かうことになった。
妹、ミリアムの話はもっと単純だ。
おしゃれが大好きな彼女は、王都に憧れていた。それこそ、情報も流行も王都に近いほど、早い。
「最近、”花麗国”からたくさんの人たちがエンブレア王国に来ているんですって!」
”花麗国”は美食と服飾の国として有名だった。ミリアムの憧れはいや増した。
もっとも、彼女はなぜ今、”花麗国”から多くの人々が、故郷を捨て、海を渡って来ているかについての考察が抜けていた。
ともあれ、ミリアムはマリーナの姉として、チェレグド公爵家の馬車に乗り、その屋敷へと向かうことになった。
三人の母親であるキール夫人は、今の場所に残ることに決めた。
「私がいなくては、誰がキール艦長とイヴァンジェリンさまのお墓を守るの?」
マリーナの代わりにキール夫人が狙われ、危害を加えられる恐れがあったが、ここにきて例の『シンデレラ計画』が功を奏した。
継母と意地悪な姉・その一は、シンデレラであるマリーナを虐めていた。意地悪な姉・その二は元から少しだけシンデレラに同情的だった。
で、あるから、意地悪な姉・その二は、マリーナと共に王都に上がり、残りの二人は置き去りにされたという寸法だ。
「継母と意地悪な姉・その一が襲われたら、きっとマリーナ嬢が喜ぶ、と王妃は考えるだろうね」
コンラッドは皮肉っぽく言った。
マリーナ自身は、たとえ本当に二人に苛められていても、そんな風になったら、喜んだりはしない。
「肝心なのは、マリーナ嬢が現実としてどういう行動を取るか、ではなく、王妃がどう思っているかだからね。
この場合、自分がどう思っているかじゃない。人がどう思うか、人にどう信じさせるかが大事だ」
悪い噂のせいで居心地は悪いだろうが、キール夫人は”病に臥せっているローズマリー”を看病するという理由で、あまり外を出歩かないと誓ったので、直接的な害悪はないだろう。
「ごめんなさい。お母さま」
「いいのよ、マリーナ。コーナー家のみなさまは、私に親切にしてくれますし、悪い噂でも、襲われて、あなたたちに迷惑をかけたり、自分が怪我をするよりはよほどいいわ」
そういう訳で、キール夫人は、ローズマリーの不在を隠すのに協力してくれるナタリーと共に、コーナー家に残ることになった。
ノラは二人の姉娘に随伴することになった。
「わ、私が王都へ!?」
男爵家で少し働いて箔を付けてから、どこかの金持ちの家に雇われようという魂胆だった少女は、まさかの公爵家の”養女”付の侍女になった。
「その代わり、難しい勤めよ。まず、秘密を守ってもらわないといけないわ」
その為に、叔母よりも口が軽く、幼いノラを連れて行くのだ。
「勿論です! お任せください!」
不安もあったが、マリーナに扮したローズマリー付きにすれば、同じくチェレグド公爵邸内の、さらに奥深くからほぼ出ることはないだろう。
パーシーは当然のような顔で、チェレグド公爵家の一行に加わっていた。




