030:可愛い子には旅をさせよ
「それは……」
自分の身をどうすべきか、まだ決めかねている。だが――「キール男爵家の有る所が、私の居るべき場所です」
「そうだね……出来れば手助けをしてあげたいけれども、私がやっては逆効果だ」
王妃は息子がエリザベス・イヴァンジェリンの娘に構うのを許すことはない。
アルバートがあまりに沈痛そうなので、マリーナは勤めて明るく言った。
「いっそ海に出てみたいです
そこなら安全でしょう。少なくとも王妃さまの手からは……」
この身が女でなければ。
マリーナは軽く頭を振った。
「海軍はよい人材ばかり手に入れる。
ウィステリア卿にアシフォード卿、ウォーナー艦長に、そして今度は君と言う訳だ」
「ありがとうございます」
有能と名高き海軍士官と並べられた。王太子なりの気遣いなのだろうと、マリーナは礼を言った。
対してアルバートは真摯な口調で続けた。
「いいや、私は本当に君のことをかっているよ。
君は優しく賢くて、はしっこい。観察力もあって、よく気が付く」
「あ、ありがとうございます」
「それにジョンは私にいろいろなことを教えてくれた。私の非も指摘してくれた」
「そ……それは……」
相手の正体を知らない時と、家が爆発炎上した時、という非常時だからだ。
アルバートは自分を買いかぶりすぎていると、マリーナは思った。
「素晴らしい人間だと思う」
「身に余る光栄です、殿下」
手放しで褒められたので、少し可笑しくなったマリーナの笑い顔に、アルバートは寂しげな眼差しを返した。
「できればこれからも側に居て欲しい――」
「ええ?」
マリーナが驚くと、アルバートはすぐに自身の言葉を補足した。
「本心だけど、冗談だと思ってくれ。
これは命令じゃない。
でもね、もしも君のような人間が私の側にいてくれたら、心強いと思ったのは事実だよ。
私には信頼できる人間がまだ多くはいないのだ。
とは言え、君を王宮に連れて行くことは不可能なのも知っている」
――少なくとも今はね。
アルバートの声なき声が漏れた。
マリーナも本気にはしないはず――だった。
だが、ふと、しかし、強烈に、マリーナは王妃に会ってみたくなった。
どんな顔で、どんな声の人間が『夕凪邸』を焼き討ちにするように命じたのか知りたい。
自分の母親である公爵令嬢に虐げられ、策略に嵌められ、王妃となってしまった後の後までも苦しめられた男爵令嬢の姿を見たい。
おとぎ話の後日談は母親視点では知ったが、王妃視点のそれはまだだ。
「あの……私、王宮に行ってみたいです」
思い付きが声になって出てしまった。
アルバートは固まった。
「あの、殿下、ずうずうしいお願いとは分かっておりますが、私を王宮に連れて行ってはくれませんか?
小間使いとしてでも……水汲みでもなんでもしますので」
「君は……何を言っているのか理解している?」
「半分くらいは……」
女の身でありながら男の姿となって宮中に上がるなど、道理に反している。
けれども、マリーナ・キールの姿では”真実の王妃”には近づけない。
勿論、見つかったらどんな目に合わされるのか、分からないのも確かだ。
「危険だよ」
「『危険の中にこそ、得られるものがある』と、キール艦長が申しておりました」
「そうまでして、何をしに王宮に行くの?
王妃に復讐をするため?」
「復讐!?」
その物騒な単語にマリーナは驚いてから、そう思われても仕方がないことを悟った。
王妃は”ジョン”の住む家を奪い、”マリーナ・キール嬢”の命を狙った仇なのだ。
もっとも、そうしたのは王妃ではあるが、そうさせたのはエリザベス・イヴァンジェリンであることを、マリーナは知ってしまった。
「そんな気持ちはありません。
でもそうですね……王妃さまとは何らかの決着をつけなければならないと思います。気持ち的なものです。
それには、まずは、会ってみないことには始まりません。
私は王妃さまを知りたいのです」
『夕凪邸』の仇討ちをするにも、許すにしても、全てはそれからではないか?
マリーナはもう、『夕凪邸』には囚われたくはなかったが、このまま事態を野放しにしておけば、自分の将来はいずれ凪ぐことも分かってしまった。
一歩進むためには、そうしなければいけない気がした。
「王妃との決着は私がつけるよ。
頼りないかもしれないが、信じて欲しい」
「いいえ、そういう意味ではなく。
私は本当のことを知りたいのです。噂でもなく、他者の視点でもなく、自分の目で確かめたいのです。
殿下が決着をつけると仰せならば、その結末を見せて下さい」
「知ってもいいことなんてないと思うよ。
王妃も……王宮も……君には合わない」
そう言ってから、アルバートは固まった。何か考え込んでいるようだ。
しばらくしてからようやく口を開く。
「本当に私と一緒にくるつもりかい?」
「殿下がお許し下さるのならば」
「私が……と言うか、チェレグド公爵の許可がいるだろう。
君は……君も彼の被後見人になったと聞く」
キール家全体が、チェレグド公爵家に世話になることになったのだから、そうなるのだ。
それを考えると、きっと”エリック伯父さん”には反対されそうな気がしたが、マリーナは請け負った。
「チェレグド公爵にはお許しを頂きます。きっと――」
アルバートはマリーナの所までわざわざやって来た。
「私は今日、君に別れの挨拶をしようと思ったんだ。
てっきり君にも、マリーナ・キール嬢にも嫌われてしまったとばかり」
「殿下こそ、マリーナ・キール嬢を憎くはないのですか?」
マリーナは意を決して聞いてみた。
「殿下もあの本をお読みになったのですよね?
ならば『意地悪な公爵令嬢』が王妃さまに何をしたかご存知のはずです……と、マリーナ・キール嬢が」
「読んだ。知っている。
しかし、母親がやったことでその子どもまで憎く思うのは違う気がする。
子どもは関係ないだろう。まして、その頃、まだマリーナ・キール嬢は生まれてもいなかった」
「……では、王妃さまのやったことで殿下を恨むのは筋違いでしょう」
アルバートが一歩、距離を詰めたので、マリーナは本能的に一歩下がったのに、さらに一歩、進まれた。そして彼は彼女の手を取った。一度たりとて艦の索具など扱ったことのない掌ではあったが、本人が言ったように、陸軍に所属している彼は、剣は握っているようだ。それなりに堅く、しっかりとした感触がある。
「ありがとう。私と母を違う存在として見てくれて」
それはマリーナも同じだ。
「いいえ……こちら……こそ?」
「本当に君は私と一緒に来てくれるの?」
確認するようでいて、どこか懇願するような視線と口調で、アルバートが言った。
「ジョン?」
マリーナは別にここにきて躊躇している訳ではなく、単に握られた手の意外な無骨さに戸惑っているだけだった。
「――! あ、失礼を!」
我に返ったマリーナはすぐさま、その手を離した。
「私でよろしければ、お供させていただきたく――その……お願いします」
もう一度、手を取られた。
「本当に? 本当に君を連れて行っても構わない?
嫌なものを見るよ。
その覚悟がある?」
「はい……」
マリーナは自らついて行くと言ったくせに、なんだかまるで、攫われていくような気分に陥った。
どうやら『夕凪邸』から自分を攫って行くのは、義兄ではないようだ。
***
『暁城』を辞したマリーナは、王都に行くとを決めたことを家族に告げた。
それもマリーナ・キールとしてチェレグド公爵邸に、ではなく、ジョン・グリーンとして王宮に。
身分は小姓だ。
グリーンという姓はアルバートが付けた。
「君はジョン・キールという名前なのかな? それだといろいろと面倒だ。
ジョン・スミスでもいいけど、アシフォード卿の偽名と被るな。
別に被ってもいいけど……では、グリーンはどうだい?
ジョンの瞳は……とても綺麗な緑色だから」
そう微笑んで、”とても綺麗な青色”の瞳で彼女を見つめる王太子に、マリーナは「では、そのようにいたします」と直視出来ない気持ちで答えたものだ。




