003:捕らぬ狸の皮算用
ジョアン・ウォーナーは実の父に従い海軍に奉職し、その才気と勇気と運、そして義理の父親の引き立てもあって艦長となっていた。ジョアンは家族に向けてマメに手紙を書いた。『夕凪邸』の面々はその手紙や、あるいは新聞で彼の名や、乗る艦の名前を見つけてはその身を案じ、航海の無事を祈っていた。
その兄からの手紙を読み、いつになく家族が動揺しているのを見て、マリーナは良くない知らせではないかと恐れたのだ。
しかし、幸いにも、その手紙は良い知らせだった。キール夫人は嬉々として言った。
「聞いて! ジョアンが帰ってくるわ!」
「それは嬉しい知らせですね!」
「ええ、しかも密輸船を捕まえたそうよ」
ジョアンが見事に任務を遂行し、帰ってくることに、マリーナも喜んだ。
いつもは切りつめている家計も、今回ばかりは大放出しても構わない。近所の肉屋に新鮮な牛肉を注文しよう。艦の上では塩漬けの豚肉ばかり食べていたはずだ。それから新鮮な野菜も……。
「それでね! 部下の人を連れて帰ってくるそうよ!
名前は書いてないけど、きっと副長さんに違いないわ! ほら、例のチェレグド公爵家の嫡子であらせられる、アシフォード伯爵よ」
マリーナの緩みかけた財布の紐が一気に締った。客が、それも公爵の息子が来るならば、それ相応のもてなしの準備をしなければならないだろう。ここぞという時に備えて、決してミリアムの前には出したことのない磁器と、同じくとっておきの銀の食器のセットはあるものの、それを危険に晒した上に、その他の持ち出しも相当なものになるだろう。
まず、臨時の人を雇わなければならないし、食材やリネン類も上等なものを用意する必要がある。ジョアン一人を歓待する比ではない。
そんなマリーナの不安を感じ取ったローズマリーがやんわりと母親に言う。
「アシフォード伯爵はご自分のお城にご滞在するのでしょうね。
あちらの方も人が出入りしているそうですわ」
「あら、ローズマリー、そうなの?」
キール夫人は、ウォーナー夫人だった頃、娘のことを「マリー」と愛称で呼んでいたが、キール男爵家に家庭教師に来た際、雇い主の娘であり自身の教え子が「マリーナ」であることから、混同を恐れて、「ローズマリー」と正式な名前を使うように心がけ、再婚して後も、そうしていた。もっとも、そんな母親の些細な配慮を、娘たちはあまり気にしていなかった。
「マリー姉さまって、毎日、出歩いているマリーナよりも世情に詳しいわよね。
王都の流行から、異国の情勢、おまけに、田舎の村の噂話まで。
コーナー家の納屋で生まれた子猫の毛色まで知ってるのよ」
「たまたまよ。
近隣の村々の店だけではなく、農家にもお城に食材や酒を届けるように注文が舞い込んでいるそうなの。それで、明日から卵を届けられないかもしれませんって、マイケル・コーナーがわざわざお詫びとお知らせに来てくれたの」
「それは困るわ! マイケルに言ってマリー姉さまの分の牛乳と卵だけでもなんとか融通してもらわないと」
その情報だけで、アシフォード伯爵が彼の城に滞在することが分かった。伯爵が一人で来るはずがない。大勢の使用人を引き連れてくるのだ。その分の食糧やら何やらの用意で、近隣の村々は忙しいものの、大いに潤う予感がしているのだろう。
「どうりで、村が騒がしいと思った」
マリーナは朝、村の郵便局にローズマリーが読むための一昨日の新聞を取りに行った時のことを思い出した。そこで『可哀想なシンデレラ』の噂を聞いたのだ。
「食材をごっそりお城に持っていかれたら、こちらの料理の用意が出来るかしら?
アシフォード伯爵とジョアン兄さまは部下と艦長の間柄とはいえ、艦から降りたら立派な公爵家の跡取りと一介の海軍士官に過ぎません。
親しく付き合っていいものかも分かりませんが、それでもお隣同士でもあるし、こちらからご挨拶に伺って、それから、一回でもお食事に招待をしなければ示しがつかないと思います」
「その通りよ、マリーナ。是が非でも、アシフォード伯爵には我が『夕凪邸』に来ていただかなくてはいけません」
ローズマリーがマリーナに目を向けた。
「そして、マリーナ、あなたに出会って、恋をして貰わないと」
「え?」
上の姉の思わせぶりな視線は、母親と、下の姉のものと合流した。
「ええ?」
三人は力強く頷く。
「マリーナ、今こそ、あの計画を実現する日が来たのよ」
「まったく、長かったわ。
私が『夕凪邸』を破壊する方が先かと不安になってきたくらいよ」
「ああ、マリーナ。あなたのお母さまについに良い報告が出来る日が来たのね」
「ええ?」
いきなりの展開に戸惑うマリーナの手を、代表してミリアムが握る。力加減というものを知らないので、かなり痛い。マリーナは自分が壊れ物でなくて良かったと思った。
「これは絶好の玉の輿の機会なのよ! マリーナ! 私たちが全面的に協力する!
アシフォード伯爵をあなたに恋させるの! そして結婚して、あなたは目出度くアシフォード伯爵夫人。ひいてはチェレグド公爵夫人となるのよ!」
「えええええ!!」
「名付けて、『シンデレラ計画』ですわ」
ソファーに横たわったまま、ローズマリーが言う。
シンデレラ?
ここでも聞こえたその単語に、マリーナは目の前が真っ暗になる思いだった。