025:諦めは心の養生
ようやく鎮火した『夕凪邸』は、北半分は瓦解していたが、南半分はかろうじて形を留めていた。もっとも、白い壁はすべて煤で汚れ、中身はほぼ燃えていたし、残った部分も危ないからと、徐々に解体されていた。
その中で、まだ何か使えるものがあるかもしれないと、ナタリーとノラが中心になって焼け跡を片づけていた。ノラは賊に出くわして、怖い思いをしたが、多くの人に慰められたこともあって、すぐに元気を取り戻し、張り切ってお手伝いをしている。マリーナは微笑ましいのと、ある種の尊敬をもって、彼女を見た。
使えそうなものの山には、磁器の食器類が目立った。キール艦長が持ち帰り、大事にしまっていた東洋の磁器だ。状態が良ければ、高く売れるだろう。側にコーナー家の使用人が銃を片手に警備していた。
「そろそろ参りましょう」
杖をついたパーシーがマリーナを急かす。
「まだ来たばかりなのに?」
「ウォーナー艦長も、”ジョン・スミス”も『暁城』に行っています。また襲われたらどうするんですか?」
「……狙われているのは”マリーナ・キール”なのね?
あなたの傷はそのせいで出来たのね?」
「私の傷は、私の責任です。それにこの程度、怪我の内に入りません」
マリーナを安心させるように笑いつつも、これ以上、彼女に追及を許さない。
あれからジョアンは再び燃える『夕凪邸』の監視に向かい、それから賊の取り調べを行うとどこかに行き、また、村人たちとこれからのことを話し合い……とにかく、忙しく働いていた。でもそれは、やっぱりマリーナに真実を告げるのをためらっているせいでもあった。
「とにかく戻りましょう」
船乗りの性なのか、とかく声が大きいパーシーがそれを抑えていた。
そう言えば、炎に包まれた『夕凪邸』ではその大きな声で「ジョン」を連呼していた。騒音に負けまいと声を張っていたのかと思っていたが、あれはもしかして誰かに聞かせるためにしていたのではないだろうか。
マリーナの姿を見た村の人間の一人が「やぁ、パーシー。ジョンも元気か? あんまり落ち込むなよ」と疑うことなく挨拶したのを見て、彼女は思った。
逆にナタリーとノラは”ジョン”がマリーナだと知っている。いつ、彼女のことを「マリーナさま」と呼ぶか分からないのだ。
そうか……とマリーナは納得した。”マリーナ・キール”が狙われているのならば、彼女を”ジョン”だと思わせておく方が安全だ。それで彼女が男の子の恰好をするのを反対していたジョアンまでも、率先して”ジョン”でいることを勧めたのだろう。ならば、義兄の態度も納得出来る。自分の命を守る為に、苦渋の選択をしてくれたと思えば、嬉しい気持ちにもなれる。
「分かったわ。我儘を言ってごめんなさい。
でも、どうしても、見ておきたかったの……」
『夕凪邸』の最後を。
「存じておりますとも。だからこそ、こうして付き添ってきました」
「ありがとう」
コーナー家に戻ろうとすると、白馬に乗った王子さまがやって来た。文字通り、白馬に乗った王子さま。雪白に乗った本日も大変、麗しいアルバート王太子だ。
「ジョン……」
マリーナはあの時、王太子殿下に随分と無礼な真似をしたな、と思い出した。実家が火事で気が動転していたとは言え、許されるものだろうか。
だが、マリーナはどうでも良いと思った。
爵位を剥奪されても構わない。どうせもう、守るものなど無いのだ。爵位が無い方が、身軽になって良い。
「すまない。君の家を燃やしてしまった。マリーナ・キール嬢にもどうか謝って欲しい」
馬から降りて、彼は心からの謝罪をした。「許してはもらえないと思うけど――」
「いいえ、むしろさっぱりした気持です……と、マリーナ嬢も言っていました」
彼女はすっかり、”ジョン”に成りきる気でいた。
「え?」
アルバートも驚いたが、パーシーも同じようにマリーナを見た。この『夕凪邸』を守る為に、マリーナがどれだけ苦心していたのか、彼は知っていた。
「これまで、両親の思い出の残るこの『夕凪邸』を守らないと、とマリーナ嬢は思っていました」
母親が自分に昔話を語って聞かせたような口調のようだ、とマリーナは思った。自分のことを「マリーナ嬢」と称しているので、そうなるのであろう。
「でも、それは違ったんです」
「違った?」
「ええ。『夕凪邸』が無くなっても、両親の思い出が消えて無くなる訳ではないことが分かりました。
マリーナ嬢はこの『夕凪邸』に囚われていた。その心はまるで凪の海に浮かぶ艦のようでした」
ミリアムが心配したほど、マリーナはショックでどうにかした訳ではなかった。
彼女は『夕凪邸』がなくなって、確かに悲しかったし、途方に暮れた。しかし、同時にずっしりと重く圧し掛かっていた『夕凪邸』という存在から解放された気分になったのも事実だった。喪失感はあった。全てを失ってしまったと思った。
だが、父の顔も母の声も、家が燃えたからといって、彼女の心の中から失われることはなかった。
義理の家族は無事だった。両親のことを話せるパーシーも側にいる。
『夕凪邸』は重荷だったが、彼らはそうではない。一緒に暮らす家族であり、背負うものではなく、共に支え合う存在だということも、改めて分かった。自分一人で頑張らなくても良かったのだ。
「肩の荷が下りました」
「そうか……では、また新しい重荷を背負うのは嫌だろうね」
それは普段、五人しかいない『館』よりも、ずっと多くの人間を抱える『国』だ。
「――マリーナ・キール嬢に伝えて欲しい。と言うか、この話は、彼女に伝わっているのかな?
私は彼女と結婚するのは止めにした」
「ええ!?」
かなり強引に迫って来たはずなのに、突然、断念するなんて。マリーナは望んだことのはずなのに、驚いた。
「私のせいで大事な屋敷を燃やしてしまった。それに、彼女には本当に好きな男性がいたようだ。
どうか彼と幸せに――」
青い眼が潤み、艶っぽい唇が震えていた。
マリーナは自分が彼に、ひどい仕打ちをしたような気になった。
アルバートは淫魔と見まごうほどに色気過多なのを抜かせば、そう悪い人間ではない。見た目のフワフワきらきら感と違い、頭は固いが、それでも面と向かって罵倒した少年を許せるし、王太子の求婚を嫌がった娘の幸せを祈る懐の深さもあった。
何か声を掛けてあげたいが、どういう立場でどんな言葉が相応しいのか分からない。
迷っている内に、アルバートは焼け跡の方に歩いて行った。どうやら、片付けを手伝いたいらしい。ついてきたロバートと「もう火は消えている」「手は汚れるが、怪我とは違う」と押し問答の末、一人で作業を始めた。
パーシーは困った顔をしたものの、「もう行きましょう」とマリーナを『夕凪邸』とアルバートの後ろ姿から引き離した。
***
アルバートは焼け跡の中に、半分、燃えてしまった本を見つけた。表題は『意地悪な公爵令嬢』。実話なら似たような話を知っているが、聞いたことのない話だ。なんとなくページを捲ると、それは美しい女の筆跡で書かれたものを装丁した、手作りのものだった。ならば、初めて読む話なのも当たり前だ。そもそも、この手のお伽噺の類とは縁が無い子ども時代だった。
単純な話は、あっという間に、意地悪な公爵令嬢を元・婚約者である国王が王都から追放して終わった。
――が、続きがあった。
それを読んだ王子さまは、その昔話が誰によって書かれ、何を意味しているのか正確に把握した。そして、その事実に小さく失望と感謝のため息を漏らす。
「これは?」
アルバートは『夕凪邸』の使用人と思しき女に声を掛ける。
「い……イヴァンジェリンさまの御本です」
ナタリーはいつものはきはきした口調はどこへやら、やっとのことでそう言った。
アシフォード伯爵と名乗った青年に、失礼があってはならない。
「そう。では、これはマリーナ・キール嬢へ渡して下さい」
かるく煤を払って、彼は本を渡した。
イヴァンジェリンという名前だけで、その人物がマリーナの母だと知っていることに、ナタリーは疑問に思わなかった。
なにしろ、それどろこではないのだ。
震える手で、本を受け取ろうとする。僅かに指が触れると、まるでミリアムの呪いが移ったかのように、その本を落としてしまった。
「も、申し訳ありません」
「気を付けて下さい。大事な本なので」
やや強めに言われたせいで、ナタリーは正気に戻った。
「『夕凪邸』の方ですか?」
「はい。左様でございます」
出来るだけ恭しく見えるようにナタリーは気を付けた。
「この度は、大変なことに……」
この女性にとっても、この屋敷は思い出深く、愛着のあるものだったのだろう。
アルバートの声が沈痛さを帯びた。
「――!
も……もったいないお言葉ですわ。アシフォード伯爵さまにも是非、『夕凪邸』でおもてなし出来ればよかったのに、とても残念です。
キール男爵家がどのようになるか分かりませんが、出来るだけお世話をしたいとは思っております。
小さな家に移ることになるでしょうが、ローズマリーさまがコーナー家のご子息と結婚することになれば、家族の人数が減りますので、それほど窮屈ではないでしょう」
「……ローズマリーさま? 結婚?」
「そうなんです!」
側にいたノラが少女らしい憧れの籠った声を上げた。この美しい男性の気をひけるのも嬉しい。
「ご結婚ですって。ああ、なんて素敵なのかしら!」
「ちょっと待ってくれ。マイケル・コーナーと結婚するのは、そのローズマリーさまの方なのか?」
アルバートがぴょんぴょん跳ねるノラを手で制しながら、ナタリーに聞く。
「そうです。アシフォード伯爵さま。
あの火事の中、マイケルさまがローズマリーさまを助け出したのです。
私どもも驚いております。そりゃあ、ローズマリーさまもお美しい方ですが、お美しさで言ったら、何と言っても、ミリアムさま。
コーナー家のマイケルさまには、ミリアムさまが良いのではないかと思っていました……まぁ、男女の仲なんて分からないものですわ」
ナタリーはついつい口数が多くなってしまった。
「本当に……分からないものだね」
そう呟いた後、彼はローズマリーのことを髪の色を尋ねた。
「髪の毛?
マリーナさまは栗色です……そ、それはご存知でしたか?
ミリアムさまは見事な赤毛でいらっしゃますよ。ウォーナー艦長と同じです。
それはそれは美しいお嬢さま方ですよ」
ローズマリーは結婚がほぼ決まっている。ならば売り込むのは妹たちの方だ。第一候補はマリーナだが、ミリアムだって、その美貌だけならどんな貴族の令嬢にだって負けない。キール夫人が子爵家で住み込みの家庭教師をしていた頃、そのせいで、随分、苦労したと聞いていた。
そんなナタリーの判断はある意味、正しいが、アルバートは焦れた。
「今、私が知りたいのは、”ローズマリーさま”の髪の毛の色なのです」
なんだってそんなにローズマリーさまの髪の毛の色を知りたいのだろうと疑問に思いながら、ナタリーは答えた。
「えっと、ローズマリーさまの髪の毛は栗色ですわ。マリーナさまとほぼ同じ色合いです」
「そう……」
ナタリーの目の前の男は固まった。
この母ありて、この息子あり。王妃の息子の王太子も、本当に驚くと、固まる癖があった。
外交の際に支障が起きるので、気を付けて下さい、と散々、注意され、そういう場所に出向くときには、ある程度、制御できるようになったものの、相変わらず、不意打ちに弱い。
「あの……」
なにか自分がとんでもない失礼な真似をしたのかと、ナタリーは怯えた。
「すまない……少し待ってくれ。考えを……まとめたい」
「はぁ」
アルバートはそのまま、馬に乗って、『暁城』へと帰って行った。正確に言うと、雪白がご主人さまを乗せて、無事に『暁城』へと運んだ。




