021:人の口に戸は立てられぬ
王太子はこの国に一人だけ。
そうではあるが、代わりがいない存在という訳でもなかった。王太子自体が国王に何かあった場合の代わりとして控えているのだ。その代わりだって、いなかったり、あやふやであれば、いざという時に混乱に繋がる。
よってエンブレア王国でも、王太子以下、継承順が定められ、危急の際には、その順番に”出来るだけ”則して、恙無く王位を継いでいくこと望まれていた。
「母はそれが気に入らなかった
トーマスが生まれた時……ああ、彼にも立派な爵位があるのだが、何分、九つの年にこの世からいなくなってしまってね、私の中ではいつまでもトーマスという少年なのだ。私は少し年上の彼とは仲が良かった。
しかし、母は違う。彼が生まれた時に『王太子殿下ご誕生、万歳!』との声が上がったことを、いつまでも恨みに思っていた。
トーマスは利発な子どもで、病気がちな私とは違い健康でもあった。おまけに、私は言葉を覚えるのも遅く、愚鈍な子どもだと思われていたのだ。
それは母の不安をより一層、深めた」
アルバートとトーマスの身体の強弱、言葉の覚え、立つ、歩く、といった差異は、後の成長からみれば、それほど大きなものではなかった。百人の赤ん坊がいれば、百通りの育ち方をする。アルバートの成長も、多くの子どもを見て来た者にすれば、そういう赤ん坊もいる。個性であり、心配しなくてもいい、といったものではあったが、初めての子を持つ母親は、ついつい他の子どもと比べてしまった。自分の子どもより早く生まれたのだから、成長が先んじていても当たり前なのに、王妃はトーマスがアルバートよりも数段、出来が良く見えたのだ。そして、他の人間もそう思っていると邪推した。
自分に敵対する人間が、我が子を殺し、トーマスを王太子に推すのではないか。王位継承権を持つ子どもはアルバートの国王即位を阻む敵でしかいない。
「その頃の母は、いつも不機嫌で、かと思えば突然、機嫌が良くなったり、そうかと思えば不安で泣き出すような状態だった。
ジョン? この話は少し長くなるから、お菓子でも食べているといい。ほら、これは君が好きなクルミがたくさん入った菓子だ」
そうお菓子を手渡されても、とても食べられる気分になるはずもなかった。なのに、アルバートは無理にマリーナの口に菓子を突っ込んだ。「食べていれば返事をしなくて済むだろう?」
ありがたい心遣いだったが、口の中の水分が全部、持っていかれそうだし、喉に詰まりそうだ。ぬるくなりかけた紅茶がありがたい。
「きっかけはヴァイオレット妃のご婚姻だった」
ニミル公爵家の長女、ヴァイオレットは海を隔てた隣国”花麗国”に嫁ぎ、王妃となっていたので、アルバートと雖も、改まった言い方になる。もっとも、最初の嫁ぎ先は”花麗国”ではない。
「彼女がわずか七歳でサイマイル王国に嫁ぐことは、母の差し金ではなかった。あくまで外交的な問題だ。
サイマイル王国の当時の国王は、三十歳の若い、とは言え、ヴァイオレット妃には父親のような男だった。しかも、かなりの放蕩もので、愛妾は二桁、子どももすでに公認しているだけで十人はいたという女好きで、幼いヴァイオレット妃には酷な縁談だった。
両親に連れられて、王宮に結婚の挨拶に来たヴァイオレット妃は、己が運命を知る由もないようなあどけなく可憐な少女だった」
マリーナは慌てて紅茶で菓子を流し込んだ。詰まるかと思った。胸がドキドキする。クルミ菓子で窒息死しそうになったせいだ、と思いたいが、そうでもないらしい。
アルバートはマリーナの空になったカップに紅茶を足すように命じた。今度はロバートではなく、彼らに追いついた本職の給仕人が茂みからやって来て、主人の命令を遂行する間、アルバートは黙って宙を見つめていた。過去に会った少女の姿を見つめているようだ。
「母であるニミル公爵夫人は泣いていた。可愛い我が子を遠く、国王と雖も、遊び人のような男に嫁がせるのだ。心中、察するにあまりまる。
――が、我が母上は違った」
「笑ったのだ」とアルバートは言った。
口元を扇子で隠し、王妃ははっきりと嘲った。『ざまぁみろ』と笑っていた。
「そ……それは殿下の見間違いではないですか?」
「いいや、ジョン。私はスカートの中ではないものの、その近くで育った。彼女は前からの視線だけを気にして、下から見上げている視線があることを知らなかった。彼女にとって私という存在は他者ではなく、自分そのものという認識だったのだ。だから母は私の前では随分と無防備だったのだよ」
ニミル公爵夫人は王妃を嘲ったことはなかった。王姉であった公爵夫人は、娘であったことから王太后に可愛がられ、”花麗国”流の作法を身に着けた気品溢れる姫君で、性格もおっとりとして穏やかだったのだ。
それでも、それだからこそ、王妃はニミル公爵夫人が嫌いだった。さらに息子のランスロットはトーマスよりも賢いと言われていた。
海軍士官となっていたランスロットは、大人たちの配慮で妹を嫁ぎ先に運ぶ艦の乗員となる。
二人の子どもを乗せた艦に、ニミル公爵夫人はいつまでもいつまでも手を振って見送った。
王妃もまた、他国の国王に嫁ぐヴァイオレットを見送る為に、港にいた。幼いが、王妃となる以上、ロザリンドとヴァイオレットは同格となる。それは王妃にとっては甚だ面白くない出来事だったが、少女が嫁ぐのは色情魔の駄目国王。居並ぶいずれも美しく妖艶な愛妾たちの前では、相手にもされず、王宮の隅でお飾りの王妃として不遇を囲うだろうと思えば、清々した。そうすれば、ヴァイオレットの腹から、我が子を害する王位継承権を持つ子どもも産まれることはないだろう。
だけど、やっぱり王妃であることには変わりがない。ああ、いっそこのまま、艦が沈没して、目障りな兄のランスロットごと、海の藻屑となって消えてしまえばいいのに。
『そうだわ。そうすれば良かったんだわ』
母と常に行動を共にしていたアルバートは同じく港で幼い従妹の嫁入り行列に立ち会っていた。
来た時はうってかわり、上機嫌の母を彼は不快に思った。
「その後だ、トーマスが下町に出掛け、何者かに誘拐されて消息を絶ったのは……」
「それが王妃さまの仕業と?」
「証拠はないよ。だが、母はトーマスがいなくなったと聞いた時、それはそれは驚いて見せた」
「驚いたのなら、犯人ではないのでは?」
「母は本当に驚くと固まるんだよ。
サイマイル王国の国王が馬から落ちて亡くなった時も、ウィステリア卿が怪我をした時も、アシフォード卿が同じく怪我をした時もね。
はっ……! と息を飲んで、それから目を爛々と輝かせるんだ。『それから? それから、あの子どもたちは不幸になったの!?』 ってね」
しかし、トーマスの時は違った。
まるで分っていたかのように、大いに驚き嘆き悲しみ、意気揚々とニミル公爵家に「お悔みに行く」とアルバートに言った。
「まだトーマスの亡骸も見つかっていなかったのに……」
さすがにストークナー公爵邸では、「お悔み」は述べなかったらしい。ただ、「早く見つかるといわね」と慰めた。
帰って来た王妃は笑っていた。
『これで王位継承権第三位がいなくなった』
「誰も何も言わなかったのですか?」
「それこそ証拠がなかったからね。
もともと、トーマスは変装して下町に遊びに行くのが好きだったんだ。ストークナー公爵はそうと知っても、勉強になるからと止めなかった。
従者一人を連れて、たびたび忍んでは、平民の子どもたちと遊んでいたらしい。コンラッドも混ざっていたと聞く。
数週間後、トーマスの服を着た遺体が、運河から上がった。
ただ、ひどく損傷していて、それが本当にトーマスかどうかは父親でも分からなかったらしい。
ストークナー公爵は『私のせいだ』と言ったという」
『私のせい』
それはいろいろな意味を含んでいた。
下町に遊びに行く子どもを止めなかった自分の罪。警備をしっかりしていなかった自分の罪。そして、王妃が自分の子どもを狙っていたことを知らなかった罪。
王弟・ストークナー公爵は王妃を糾弾したくても、はっきりとした証拠がなかったため、出来なかった。事件の捜査は、いつの間にか、うやむやにされて終わった。
ストークナー公爵は、せめてもの想いでニミル公爵に忠告した。「ランスロットの身に気を付けなさい」
正しい忠告だったが、ニミル公爵にはどうしようも出来なかった。なぜならば、彼の息子はすでの海の上で仕事をしていたからだ。陸に呼び戻すか?
話し合った結果、ランスロットは海軍士官のままで軍務を続けることになった。海の上の方が、王妃も手が出せないからだ。海軍は反王妃派だったので、ランスロットに危険な任務を与え、殺そうとする策略からも防げた。王妃は運を天に任せ、いや、悪運を悪魔に祈り、ランスロットが海戦か海の事故で死ぬのを待っていた。王妃にはそうなる可能性の方が高く感じられたので、余計な危険を侵してまで謀殺するようなことはしなかった。
「ウィステリア卿はある程度、大人になって、自らの判断と力で身を守れるようになるまでは、ほぼ自国の港に上陸することはなかったらしい。
危ないからね。
父親であるニミル公爵は、海上で落ち合ったり、娘の嫁ぎ先の国の港まで行って、そこで息子にも会ったらしいが、公爵夫人にそれは出来なかった。
久しぶりに息子に会ったニミル公爵夫人は、『あらまぁ、あなたいつの間に、そんなにおっさんになっちゃったの?』とビックリしたそうだ」
「おっさん……!」
キール夫人も一年ぶりに会ったジョアン少年の成長ぶりに驚いたが、ニミル公爵夫人はもっとだったであろう。それにしても「おっさん」は酷い。ウィステリア伯爵ランスロットはエンブレア王家の血を引く、大層な美形と聞く。それにまだ「おっさん」ではない。ジョアンと同じくらいの年齢だ。
重苦しい話にもかかわらず、マリーナは喉の奥で笑った。呑気な性質のニミル公爵夫人は、アルバートにとっても救いだろう。表情が緩んだ。ふんわりと色香が匂う。
「そうこうしている内に、ウィステリア卿はなんとも立派な艦長となった。私のような箱入りの生白い男ではなく、ジョンが憧れる、海風と日に焼けた、強い海の男にだ。国民の信頼も人気も絶大だ」
「ええ」
それを王妃は面白く思ってはいないだろう。
マリーナにも分かった。分からなかったのは、アルバートがここまで明け透けに真実を語ったことだ。
「私がみんなに吹聴したらどうするんですか?」
「君が!?」
アルバートはせせら笑う。それはワザとらしかった。これから話すことをマリーナに納得させるために必要な態度なのだ。
「王妃がストークナー公爵の息子を殺したことなんて、みんな知ってることだ。何も目新しい、驚くような真実じゃない。反王妃派という大袈裟なものではなく、下町に行けば、君のような少年までもが口にする”戯言”だそうだよ。『王妃がさらったトーマスは、妖精の国、貝殻の船、今頃、海で大冒険〜』と歌いながら遊ぶのが流行っていると聞いた。王妃といっても、当代と言わず、いかにも妖精の取り替え子のように装っているが、明らかに、我が母と従兄の話だ。
しかし、君はただの子どもだが、キール男爵家と縁近い身、すなわち海軍閥の子ども。君がこんな噂を流したら、その裏にウォーナー艦長がいると思われるよ。
彼は罰せられるかもしれないね。艦を取り上げられるかも。
海軍はウォーナー艦長を守ってはくれない。守りたいだろうが、出来ない。王妃派につけいる隙を与えてしまうからだ。王はもはや政治に無関心になっているが、王妃派の勢力はまだ衰えてはいない。
ウォーナー艦長はトカゲのしっぽ切りのように、切り捨てられるだろう。
だから、この話を余所でしようとは思わないことだ。ただ、マリーナ・キール嬢の耳には入れてもいいよ。その為に、君に話しているんだから。
マリーナ・キール嬢も分かっているだろう。この話は『夕凪邸』から持ち出してはいけないことを」
「はい」と、頷くしかなかった。




