020:鳶が鷹を生む
ミリアムと同じように、マリーナも結婚というものを、もっと気楽に考えていた。
間違っても、国家存亡の是非にかかわるものではない。自分でなくても、もっと相応しい女性がいるはずだ。
マリーナの乗馬訓練は常歩から駆足になっていた。雪白が賢いせいもあったが、彼女は馬を走らせるのが面白くなってきた。もっと、遠くまで乗りたい。出来れば、あの『夕凪邸』が見下ろせる丘に行きたい。
その想いが通じたのと、自身の思惑もあって、アルバートはマリーナに囁いた。
「君の厳格な保護者に、君から頼んでくれないかな?
私と一緒に、遠乗りに行きたい、と」
少し迷ったものの、マリーナはそうすることにした。いずれにしろ、彼からはもっと詳しい話を聞かなければならない。
アルバートとは数日の付き合いで、匂い立つ色香には慣れそうにないが、元からの耐性のおかげか、二人っきりになっても間違いが起きそうにはない。それに、彼は無駄に色っぽいだけで、特にそっち方面に強い訳でもなさそうだ。むしろ、あまりに強い淫靡な雰囲気にすら負けない純真で無邪気な面があった。
マリーナがジョアンの元に、二人で馬を乗りまわして来る、と告げに行くと、義兄は渋ったが、コンラッドが口添えしてくれた。「二人っきりと言っても、護衛はついてくるんだ。何も危ないことはないだろう。”男同士”だし、問題はない」
そこでマリーナとアルバートは共に馬を走らせた。
これまで同じ所をグルグルと巡っていたマリーナにとって、それは新しい楽しみだった。雪白も気持ちが良さそうだ。それから、並走するアルバートも風を浴び、なんとも言えない嬉しそうな顔をしている。
ローズマリーは言っていた。王妃は自分に敵対する人間にはひどく邪悪だが、味方には甘い。特に自分が産んだ息子を溺愛し、常に側に置いて見守っているのだ、と。だから、一時期、『ランスロット(ウィステリア伯爵)は海の上で艦長に、アルバート(王太子)は母親のスカートの中で育てられている』と市井で嘲られたこともあったらしい。
けれども、マリーナの目には、アルバートはそこまで甘やかされた人間には見えない。確かに世間知らずで、やや強引な所もあるが、無知とか我儘というものではない。
彼自身も母親の束縛が窮屈で、スカートの中を抜け出し、アシフォード伯爵としてこの地に滞在して自由にふるまっていることが楽しくて仕方が無いといった様子だ。
風が彼の艶っぽさを幾分、払ったこともあって、爽やかさが際立っている。
思わず、マリーナは息を呑む。やっぱり、もったいない人。
丘に到着すると、二人は馬に乗ったまま『夕凪邸』を見下ろした。初めて来た時よりも、紅葉が進んでいた。
「今日は心置きなく、この景色を楽しめるだろう?」
「……はい」
「もう少しすると、ここは真っ赤な海のようになるらしいね。それも見てみたいな」
「私は……あまり」
「ジョンは紅葉は嫌いか?」
「真っ赤な海は縁起が悪い気がして」
『夕凪邸』の由来の一つ。紅葉で真っ赤に染まった森の中に立つ屋敷は、まるで血と火に染まった海の上に浮かぶ艦のようだ。
「なるほど。ジョンはなぜ海軍に入らなかったのだ?
ウォーナー艦長にジョンを艦に乗せてやれ、と言ったら、もう士官候補生として艦に乗るには年を取りすぎていると言われた」
いない訳ではないが、多くの士官候補生たちは十歳ちょっとで艦に乗る。パーシーは火薬運搬係として七歳の頃から艦に乗っていたらしい。幼い内から、操船技術を仕込まれ、戦闘に参加する。厳しい世界だった。
「母親に反対されたか?」
自虐的にアルバートは笑った。
「殿下は王妃さまがお嫌いなのですか?」
「ずばりと聞くね。『そうだ』とも言えるし、『そうではない』とも言いたい。
何しろ母親だからね。少し休もうか?」
アルバートが馬を降り、手を挙げると、やはりどこからか人が湧いてきた。コンラッドの言っていた護衛だ。護衛であって、給仕ではない。
いつもよりも大柄な人間が、やや不慣れな手つきでお茶の用意をした。
「ありがとう。ロバート。悪いね」
「いいえ」
ロバートと呼ばれた臨時の給仕は、「殿下」と呼びかけたものか、「アシフォード伯爵」と呼びかけたものか、悩んだ末に、それだけ言った。そして、姿が見えない所まで下がって行った。
二人で座ると、おもむろにアルバートがこう言った。
「傷のことを聞いたよ」
「え?」
「私とアシフォード卿の見分け方の一つ」
マリーナは二人の青年の上半身裸の姿を見たことは言及したくなかったので、そのことは話していなかった。
教えたのはコンラッドだろう。彼は『夕凪邸』に滞在しているが、『暁城』を行き来していた。彼にしてみれば、自分の城に王太子を招いている形になるのだ。まめに連絡と打ち合わせと、ご機嫌伺いが必要と思われる。
「まさかあそこでキール男爵家所縁の人間と会うはずではなかったので、うかつだった」
「殿下の身体には傷一つ、ありませんでしたから」
マリーナとしては何気なく、ただの事実を述べただけだった。が、アルバートの表情が沈む。
「そうだろうとも。何しろ私に傷がつくと、誰かの首が飛ぶ」
「はい!?」
さらりと恐ろしいことを言う。
「聞いたとは思うが、我が母上殿は、大事な息子に傷がついたり、病気になると、近くの人間のせいにしてね。
それはそれは大変なんだ。
小さい頃は病弱だったせいで、しょっちゅう女官が罰せられていた」
「可哀想にね」、ポツリとつぶやいたその一言に、アルバートの心根の優しさが滲んでいた。そして、「私が熱を出したせいで、女官の誰かがぶたれたり、責任を取って辞めさせられるのだ」との言葉に、王妃の専横さが表れていた。
「これでは海軍など夢のまた夢だろう?
知っているか? ウィステリア卿の脇腹にも大きな傷があるのだ」
マリーナはウィステリア伯爵ランスロットの怪我の原因となった海戦を、勿論、知っていた。あれはベルトカーン王国との小競り合いだった。大きな戦争にはならなかったものの、野心的な王を抱く彼の国とは事あるごとに、いざこざ起きていた。
「さすがジョンは詳しいね」とアルバートは笑い、それから真剣な顔になった。
「私があんな目にあったら、母上は艦長を吊るし首にしかねない」
「そんなに……」
「ああ、母上は私に傷をつけることを絶対に許さない。自分は他の家の子どもたちを傷つけるのにね」
女官たちも誰かの大事な娘たちだ。マリーナはそう取った。そして感心した。
アルバートは自分が傷ついたり病気なると、そのせいで人が傷つくことに対し、申し訳ない気持ちを持っている。当たり前のようだが、彼は王妃の元で、彼女の価値観の下で育てられたのだ。それでこの性格に育つのは、相当のものではないだろうか。見事、母親を反面教師にしたのだ。ただ、残念なことに、過度な私利私欲の裏返しは、過度な清廉潔白だった。
「母上は国の妃となるということが分かっていない。
王妃は自分の私利私欲で動いてはならない。国の為に、その身も心も捧げなければならない」
「えぇ……」
同意出来なかった。その王妃に次ぐ、王太子妃になれと言われているマリーナには厳しい物言いだ。
それ、結婚生活? 王妃に一瞬、同情しかけたが、続くアルバートの言葉にそれも吹っ飛ぶ。
「それなのに、母上は自分の子ども可愛さに、国の保険とも言える王位継承者を抹殺しようとしている」
「ええ……!」
「ジョン。君に教えておこうと思うんだけど……」
「結構です」と喉まで出かかった。「なぜ自分なんですか!」とまでも。
アルバートは強引に、彼女に語り始めた。
「母はストークナー公爵の嫡男・トーマスを謀略の末、殺したのだ――」




