002:立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花
キール男爵家の館は大きい。
目的の部屋につくまで、いくつもの部屋を通りすぎるが、そのどれもが、家具に白い布をかけ、使われていないことを示していた。
かつて、この館も全ての部屋が使われ、夜ともなれば蝋燭の光がきらめく、不夜城と化したものだ。
森の中に浮かび上がるその様子、夕日を受けて映える白壁、秋になれば紅葉する周辺の森……それらのことから、キール男爵家の館は『夕凪邸』と呼ばれていた。
マリーナはその雅称を嫌っていた。
彼女の父親は海軍の艦長なのだ。風を受けて走る帆船を操るのに、『凪』だなんて不吉なことこの上ないではないか。
そのことを父親に言ったが、豪胆で知られるキール艦長は笑った。
『だからいいんだよ、マリーナ。
凪いだ海はここに置いていこう。
おかげで、私の艦には常に順風が吹くだろう――』
キール艦長は優れた軍人だった。
若くして海軍に入隊した彼は、まったくコネがないにもかかわらず、実力でもって艦長の地位を手に入れた。過酷で危険な任務は失敗すれば死であったが、達成すれば莫大な恩賞と名声を得ることが出来た。
彼は自分と部下たちのために、どんな難しい任務にも果敢に取り組み、結果、提督まで上り詰め、ついには『夕凪邸』がある領地と、男爵の爵位を得るまでとなったのだ。
王を頂点とした貴族制度の中では末端に位置するが、それでも平民だったキール艦長にとっては大出世である。
爵位も得た後、キール艦長はようやっと艦を降り、美しい妻と可愛い娘と共に、『夕凪邸』で絶頂の時を過ごした。マリーナの両親の仲は睦まじく、娘ですら入り込めない時があるほどあった。
マリーナの母・イヴァンジェリンは美しいだけでなく、賢く、そして何よりも優しかった。
イヴァンジェリンはよくマリーナに物語を語ってくれた。マリーナが一番好きな話は『意地悪な公爵令嬢』という話だった。
公爵令嬢は、自分よりずっと身分の低い男爵令嬢を虐めていたが、それを知った公爵令嬢の婚約者でもあった王さまが、その意地悪な心を憎み、嫌ったのだ。反対に、どんなに酷い目に合わされても笑顔を忘れなかった男爵令嬢に恋をした。そうして、公爵令嬢と婚約を破棄し、都から追放すると、男爵令嬢と結婚することを宣言したのだ。
自身も男爵令嬢であったマリーナは、その結末に喝采を送ったものだ。
イヴァンジェリンも話の最後に必ずこう締めくくった。『だからね、マリーナ。たとえどんな理由があろうとも、人を貶めてはいけないわ。誰かが誰かを貶めれば、他の人もそれを真似するでしょう。特にマリーナ。あなたはここでは立派な身分の娘なのだから、よくよく気を付けるのですよ』
しかし、『夕凪邸』の幸せな日々は、そんな優しいイヴァンジェリンの死によって終りを告げた。
最愛の妻を失った嘆きは果てしなく、キール艦長から若さと判断力、そして運を奪っていった。
何をやってもうまくいかない。
それまで順調にいっていた投資が焦げ付き始め、詐欺師まがいの高利貸しに目をつけられた。
膨らむ負債を横目に、それでも亡き妻との思い出溢れる『夕凪邸』を維持していくことに拘泥した。
借金は増えるが、収入は減るばかり。
そんな状況に、彼が頼ったのは、やはり海だった。もう一度、海に戻ることを決めたキール艦長の唯一の気がかりは、一人娘のマリーナだった。
幼い彼女を一人、『夕凪邸』に残すこと。
自分に万が一のことが起きた場合、天涯孤独の身の上になってしまうこと。
それら様々な懸念から、彼は、再婚を決めた。
相手は、自分の部下の母親。未亡人となっていたウォーナー夫人である。
彼女は前のキール夫人イヴァンジェリンが生きていた頃から、すでに『夕凪邸』に来ていた。一人息子のジョアン・ウォーナーが、海軍に入隊した時、最初に乗った艦の艦長がキール艦長だったことが、縁であった。
ジョアンの聡明さと俊敏さは、キール艦長の印象に良く、そして、その印象の通り、少年は優れた部下の一人となった。
ジョアン少年は帰る家がなかったので、休暇の度によく『夕凪邸』に招待していた。
その内、ウォーナー夫人が二人の娘を連れて、ある子爵家に家庭教師として住み込んでいるものの、ひどい待遇を受けていることを知り、それならばマリーナの為に、と好待遇で引き抜いてあげたのだった。
キール夫人とウォーナー夫人、マリーナと二人の娘は、とても仲が良かったので、キール艦長としても、安心して自分の娘を任せられると思っても不思議ではなかった。
マリーナにしてみれば、相手がいくら親しくしてきた家庭教師の先生であっても、大切な母親を亡くして少しもしないうちに、父親が再婚することには葛藤があった。
だが、父が娘のマリーナの為に決め、ウォーナー夫人もまた二人の娘と、そして息子の海軍生活の便宜の為にと選択した、いわば、互いの都合と家族愛による婚姻であることも承知していた。その上、キール艦長は爵位と名誉はあっても、財産と言えば、維持に金を食うだけの『夕凪邸』と借金しか残されていない。息子が成功しかかっているウォーナー夫人にとっては、徒に手間と金のかかる娘が増えるだけである。けっして、有利な再婚ではなかった。
それでも、ウォーナー夫人はマリーナを不憫に思い、決断したのだ。
それなのに『シンデレラと意地悪な継母と義理の姉』と噂されるなんて。世の中の人はどうして、そう物事を斜に構えて見るのだろうか。
マリーナは憤慨しながら、声の主がいるであろう、部屋を開けた。
「お母さま! どうかなさいましたか?
またマリー姉さまが倒れたのですか?
それとも、ミリー姉さまが何かを壊したとか?」
「そのどちらもよ!」
見れば、窓際の長椅子に栗色の髪の毛の女性が一人、横たわっていた。
顔は青白いが、賢そうで清楚な女性である。その隣には、見事な赤毛の女性が、お茶が入ったカップを手に申し訳なさそうに立っていた。
「ごめんなさい、マリーナ。
マリー姉さまが気分を悪くしたから、お茶でも差し上げようと思ったら……」
視線の先には粉々に割れたソーサーがあった。
マリーナは喉の奥でため息と笑いを押し殺した。
ミリアム・キールは”呪い”に掛かっている。三歩、歩けば、必ず何か破壊せずにはいられないという呪いだ。
もう『夕凪邸』でまともなティーセットは残っていなかった。ピンクの花柄のソーサーの上に、青い波柄のカップが乗っているなど当たり前だ。柄が異なっても、組み合わさるものがあるだけマシなのだ。しかし、今回のことで、一つのカップはソーサーを失った。
どうして、こうも物を壊せるのかしら? ある意味、才能である。
まぁ、お客さんが来る訳でもなし。ソーサーがなくてもカップが無事ならお茶は飲める。
その内、すぐにまた新しいカップを失ったソーサーが出来るだろう。
マリーナはすぐに気を取り直した。いちいち落ち込んでいる暇などない。
「お茶がこぼれなくて良かったです。
マリー姉さま、ご気分はいかがですか? お医者さまを呼びましょうか?」
ローズマリー・キールには”呪い”が掛かっている。三歩、歩けば、すぐに倒れてしまうほど病弱という呪いだ。
マリーナの髪は彼女の薬代になった。それでも、こうして命があるだけ幸いだ。髪の毛はまた伸ばせばいい。
「平気。お兄さまからお手紙が来て、驚いてしまって……」
「ジョアン兄さまから!? まさか……そんな……」
今度はマリーナが二人の呪いを一気に引き受けたように、そこにあった本の山を崩し、青ざめた。