017:板子一枚下は地獄
馬から降りたマリーナをジョアンは気にした様子だったが、彼に付けられた馬術指南役は厳しく、彼に休憩を認めなかった。
約束通り、マリーナの姿を義兄の視線の届く範囲に留めて、アルバートは草の上に敷物に座らせた。コンラッドは今ではすっかり優雅に馬を乗りこなしていた。
その二人をアルバートは目で追った。
「やはり海軍士官と私では身のこなしが違うかい?」
「ええ」
マリーナは簡単に、自分がなぜアルバートがコンラッドではないと見抜いたか、理由を語った。
「私も小さい頃は海軍に入隊したいと思っていた。従兄がそうだったのでね」
それがマリーナが念頭に浮かべた偽アシフォード伯爵を名乗れる候補者の一人。ニミル公爵の嫡男・ウィステリア伯爵ランスロット・フィッツウイリアム・アークライトだった。母親が現国王の姉であることから、王位継承権暫定四位を持つ。
エンブレア王国の国王は女性でも即位可能であったが、男子が優先される。よって、現在の王位継承権は、国王の嫡子・アルバートが第一位。国王の弟・ストークナー公爵フランシスが第二位。ストークナー公爵にはトーマスという子どもが生まれ、これが第三位であったが、年少の頃に死亡してしまい、国王の姉・ニミル公爵夫人オーガスタが第三位へと再び繰り上がった。そして第四位がその息子、ウィステリア伯爵ランスロット、第五位が娘であり、”花麗国”に嫁ぎ王妃となったヴァイオレットという順となっていた。
「けれども、母が反対した。海軍なんて危ない、と」
エンブレア王国では高位貴族は”高貴なるものの義務”で軍務を経験するものが多かった。しかし、わざわざ王位継承権第一位の人間を海に出すことはないだろう。そうでなくても、現在のエンブレア王国はさる事情から王位継承権を持つ”若者”が少なかった。いたとしても、現在の王統から大分、離れてしまったり、他の国の国王であったり、即位した場合の正統性や、統治に問題が起きてくることが恐れられていた。アルバートの身の安全は国家の安泰に直結しているといっても過言ではない情勢であった。
「だが、こう見えても軍人ではあるのだ。陸軍に所属しているんだぞ」
不思議と、王太子アルバートと名乗った後では、偽アシフォード伯爵にあった自信満々な様子が薄れている。
「まぁ、軍務と言っても、大したことはしていないがな。
この島国では敵は海からやってくる。そして、我が有能な海軍がそれらを全て防いでくれる……」
「はい。キール艦長が申しておりました。
陸に上がられたら、たとえ勝っても民やその財産に被害が出る。だからこそ、我々が必ず海で叩かなければならないのだ、と」
「立派な方だなぁ。キール艦長は」
アルバートは立ち上がり、馬を走らせるジョアンを見る。
「私も君の尊敬するウォーナー艦長が羨ましい。
あんな風に、自分一人の力で、皆から頼られ、尊敬を受けている。アシフォード卿もいずれそうなるだろう。それから我が従兄殿、ウィステリア卿は、すでに君の父上に匹敵する海の英雄だ……」
ああ、アルバート殿下は羨ましいのだ。だから嘘でもアシフォード伯爵になった時、彼になったような気分に浸ってしまったのだ。
マリーナもまた、立ち上がってアルバートの隣に立った。噂のコンラッドが手を振る。それは、「どんな調子?」という二人の仲を伺うようなものでもあった。それに応えて「そこそこ大丈夫」と、軽く手を振り返す。
「気持ちは分かりますけど……御身はお大事になさった方がいいですよ」
「だが、海軍の連中は自分たちが身を呈して国を守っていると、陸軍を見下す傾向にあるね」
「それは……そうかもしれませんが……」
陸軍と海軍は同じ国を守る組織ではあったが、ライバル関係でもあった。
おまけにここ最近、その関係はライバルを越え、敵対関係とまで言えるほどの軋轢となっていた。
もっとも、それには大きな要因があった。
「ジョンは賢いから知っているだろう。
この国を蝕む二つの大きな派閥がある」
「……えっと、はい、殿下。コルセット派とコルセット無し派ですね。キール男爵家はコルセットは緩く派です」
アルバートはマリーナを見下ろし、それから笑い出した。「ああ、そうだね。その通りだ」
本当は知っている。王妃派と反王妃派だ。けれども、王妃はアルバートの母親なのだ。彼の前では言えない。
だが、コルセット派とコルセット無し派は、ほとんど同じ意味を持っていた。
コルセット派は反王妃派であり、コルセット無し派が王妃派なのだ。また、青色は反王妃派、赤色が王妃派、などと、あらゆる面で、二つの派閥は対立し合っている。それに当てはめれば、海軍が反王妃派であり、陸軍が王妃派であった。
「賢いだけでなく優しいジョン。
王妃派と反王妃派は宮中での諍いを越え、軍や政治にまで悪影響を与えている。
我が愚かな母上のせいでね」
はっきりと、嫌悪の感情が現れていた。それも母親に対してだ。
「私の正体は知らないフリをして、どうかアシフォード伯爵として接して欲しい。
私が海軍閥の長であるチェレグド公爵の所有する城に滞在していると知られるのはまずい」
「そうまでして、なぜここに?」
「話が繋がったね。
私はマリーナ・キール嬢と結婚する。彼女はただの男爵令嬢ではない。海の英雄、キール艦長の娘。海の鷹と恐れられるウォーナー艦長の義理の妹。
それに何よりも――」
「何よりも?」
ふっと視線を外された。
ようやく休憩に入った二人の海軍士官がこちらにやって来る。
「君は知っているのか?」
「何をですか?」
「いいや、なんでもない」
それっきり、その日、アルバートはマリーナに彼女のことを聞くことはなかった。
乗馬の練習はそこそこで切り上げられ、お茶の時間になり、そのまま『夕凪邸』に帰ることになった。
「よければ、明日も来るといいよ。ジョン。
君はここで出来た私の友人だ。歓迎しよう」
大層、蠱惑的な微笑と声音で決定された。反論など、出来ようはずもない。
「あ、ありがたき幸せです。でん……伯爵」
キール男爵家のみなさんにと、またもやたくさんの食べ物に、おまけに絹地が一疋、マリーナへと贈られた。それは”薄紫色”に染められた絹だった。




