015:一を聞いて十を知る
「あの人、常識がないんですもの」とマリーナが口に出すと、キール夫人が「とんでもない」と諭した。
「マリーナが初めて会った時の事を言っているの?
それならば仕方がありませんよ。
アシフォード伯爵なんですよ。ただの伯爵さまじゃないのよ。公爵さまのご嫡子さまなのよ。
庶民の常識を知らなくても当然でしょう。
その代わり、上流社会の常識はしっかりと身についていますよ。
私も家庭教師として子爵家に仕えていましたが、あんなに身のこなしが優雅な方、そうはいません。
勿論、公爵家のお子さまですものね、子爵家なんかとは比べ物になりませんよ」
「強引だし……」
「そう思うかもしれませんが、貴族の子弟なんてそんなものなのよ。
実際、お偉い方ですもの」
ジョン・スミスが「ふんっ」と声を出した。
「何か?」
彼はニッコリ笑うと首を振り、キール夫人に続きを促す。
「とにかく、マリーナ。
あんないい方、いらっしゃらないわ。
それが男の姿の”ジョン”であれ、どうも気にかけてくれているようだもの。それにマリーナのこともよ!
今朝も『ジョンに宜しく。それに、マリーナ・キール嬢も早く良くなりますように。お会いできるのを楽しみにしています』と言って下さったの。
この機会を逸するなんて……ねぇ?」
二人の娘に同意を求めたキール夫人には、思った通りの反応が戻ってこなかった。ローズマリーとミリアムは二人、顔を見合わせた。
代わりに息子が母親の意見を引き継いだ。
「話とはそのことなんです。マリーナさま。
ご不自由かと思いますが、しばらくの間……『暁城』で行われる舞踏会の日まで、男の姿、ジョンという少年として過ごしてくれませんか?」
「ええ!?」
義兄の願いなら、どんなことでも叶えてあげたいが、こればかりは即答できなかった。
「なぜですか?」
今度はマリーナが理由を問う。
「母が申した通り、アシフォード伯爵はマリーナさまをジョンという少年だと思っています。
そして、マリーナさまはご病気で伏せっているとも」
「ええ!」
ノラが「お嬢さまが倒れた」と言い、ミリアムが「ええ!? マリーナが!」と答えたせいだった。
「その誤解を利用すれば、”マリーナさま”はアシフォード伯爵と顔を合わせずに済みます。
そして、アシフォード伯爵が今朝や先日のように突然、来ても、慌てないように、普段からずっとジョンで居て下さい。お誘いがあればその姿で『暁城』に行きましょう」
マリーナは悲しくなって「なぜ?」とも聞けなくなっていた。
「なんでそんなに嫌なの? だってマリーナ嬢は初めて会った時に言いましたよね?
この恰好は趣味ですって。だったら、楽しんだらいいじゃないか」
ジョン・スミスの言葉に、マリーナははっとした。
彼の言う通り、彼女は普段から男の姿を率先してしていた。母や姉たちが見とがめても、言い訳しては続けていた。ついには髪まで切った。
それなのに、ジョアンに「男装してくれ」と言われて拒むなんて、おかしいと思ったのだ。
「マリーナさまはアシフォード伯爵がそれほどお好きではないのですね。
しかし、まだ会って間もない。ジョンというなんのしがらみのない存在で、彼に接してみて下さい。
そうすれば、彼の本性が分かるはずです。
それでも、どうしても好きになれないと言うのならば……」
「言うのならば?」
「――考えましょう。
私はマリーナさまのことを頼む、とキール艦長とイヴァンジェリンさまに頼まれました。私はあなたの幸せを望んでいます」
ならば、もっと簡単ですぐに実現できる方法があるのに。
「分かりました」
マリーナが承諾すると、ジョアンは「すみません」と謝った。
***
話が終わると、ジョアンとジョン・スミスは居間からいなくなった。マリーナも自室に戻りたかったが、身体は痛いし、ローズマリーとミリアムが何か話したそうだったので留まることにする。
キール夫人がナタリーに呼ばれ、今日の夕食の献立について相談するためにいなくなったのを見計らったローズマリーは、ずばりと聞いてきた。
「今朝来たアシフォード伯爵は偽物? あなたが会ったのも偽物なの? だから嫌いなの?」
「マリー姉さま……!」
姉は賢かった。会わずに今、『暁城』に滞在しているアシフォード伯爵が偽物だと気付いたのだ。
「そうなんです! あの人、初めから偽物なんです」
「やっぱりね。
コンラッド・アーサー・ルラローザは今でこそ公爵の嫡子、アシフォード伯爵だけど、海軍に入隊した頃は、ただのコンラッド・アーサー・ルラローザだったはずだもの。
なのにお母さまの話では、まるで生まれついての公爵家の息子みたいだった」
「そうなんです!」
現海軍大臣チェレグド公爵が後に友となるキール艦長と出会った時、彼はまだ公爵家の次男坊エリオット・グレン・ルラローザだった。この国では爵位は嫡子にのみ譲られ、それはエリオットの兄である前アシフォード伯爵のものだった。次男だったエリオットは海軍で自ら身を立てることを望んだ。公爵は息子の一人を海軍に差し出すことで、”高貴なるものの義務”を果たせると、その選択を歓迎した。それから二十年近く、エリオットは船の上で海軍士官として過ごす間に、子爵家の三女という、これまた財産は少ないが、心根の優しい娘と結婚し、子をもうける。市井に家を構え、慎ましく暮らし、息子もまた十二歳で海軍に入隊させた。その息子がコンラッドである。
その後、チェレグド公爵を継いでいた兄が、子をなさずに若くして病気で亡くなった。若きチェレグド公爵を襲った病は、その年、国内で流行し多くの人を連れ去っていた。艦に乗っていた為に、奇禍を免れた勅任艦長エリオット・グレン・ルラローザが、あれよあれよとチェレグド公爵となり、コンラッド・アーサー・ルラローザ海尉はアシフォード伯爵となったのだ。
「つまり、アシフォード伯爵は軍艦に乗るまでは、近所の平民と遊び、艦に乗ってからは荒くれ者の船乗りたちと親しみ……まぁ、それなりの教育はされていたとは思うけど、どうもお母さまがおっしゃるアシフォード伯爵とは違う気がするのよね。
ジョアン兄さまの手紙からも、もっと気さくな感じを受けるし。それは伯爵になって、礼儀作法を学び、そういう振る舞いをするように心がけているのだと思わなくもないけど……水の件。最初、聞いた時は、そうでもなかったけど、よく考えると変よね。海軍の人間が綺麗な水を大事にしないなんて」
「はぁ……マリー姉さまって、本当に、どこからそんな情報仕入れてくるの?」
ミリアムは嘆息したが、彼女も彼女なりの判断基準を持っていた。
「お母さまはアシフォード伯爵のこと、さらさらの金髪で、大理石のような白い肌をしているって言ってた。
十二歳の頃から艦に乗って、十年近くも海風と日射しに晒されてきて、それはないわ。
よっぽどお手入れが行き届いているのか、特異体質か……海に出た事がないか……」
すべてマリーナが言いたかったことだった。
「そうなんです! なのにミスター・スミスも、ジョアン兄さまも、あの人が本物だって言うんです!
でも、本物のアシフォード伯爵はジョン・スミスです! ジョン・スミスには左肩に偽物にはない古い刀傷がありました。あれは父が指揮した”オリオン号”の戦闘でついた傷に違いありません! 友達の息子に大怪我をさせてしまったと、父は悔やんでいました」
あまりのことにマリーナは泣きそうになった。興奮して先ほどミリアムが床に落とした本に躓き蹴飛ばし、新聞を破き、ついでに気が遠くなった。
「落ち着いて、マリーナ」
ミリアムが彼女を椅子に座らせ直した。引っ張られたせいで、袖が破けた。後で縫わないと……。
「怪しい……」
「そうなんです!」
マリーナが声を振り絞って訴えた。が、ローズマリーの疑問はまた別の所にあった。
「ジョアン兄さまも、ジョン・スミスも……そして、『暁城』の使用人たちも、よね?」
「ええ……みんな……」
「それが怪しいのよ」
「どういうこと? え……と言うか、あのジョン・スミスがアシフォード伯爵なの!?」
マリーナがめちゃくちゃにした姉の本や新聞を拾おうとして、さらに破壊行為を働いていたミリアムが顔を上げた。その目に飛び込んできたのは、件の人物、ジョン・スミスだった。ローズマリーは今日はもう、新聞を読むことを諦めた。
「バレているとは思ったけど、本当にバレていたとはね」
昨日、わざわざ『暁城』に取りに戻った”チェレグド公爵家特製”の酸っぱい飲み薬を煎じて来た彼は、偽物の存在がマリーナだけではなく、姉二人にも知られ、尚且つ、自分の正体までばらされたことに、それなりの衝撃を受けた。




