013:良薬は口に苦し
『暁城』を辞した三人は『夕凪邸』へと歩を進めていた。
ジョン・スミスは偽アシフォード伯爵から持たされた菓子と、それから、これまたお土産にと貰った果物まで抱えている。一人、楽しそうだ。残る二人は言葉少なかった。機嫌が悪いのではなく、慣れない乗馬の練習ですっかり疲れ果てていたのだ。
「早く帰ってお茶にしましょう」
マリーナがそう提案する。汗をかいている上に、気温も下がって来たので、肌寒い。今日だけは贅沢に暖炉に火を入れて、温かい紅茶を飲みたい。
ジョアンも頷いた。
「いいですね。熱い紅茶に、砂糖とラム酒を入れたいです」
「ライムも絞りますか?」
ジョン・スミスがちょうど良いとばかりに『暁城』から持って来た籠の中からライムを取り出すと、ジョアンが顔を顰めた。
「今は陸の上だ。あえてライムを摂る必要はないだろう」
長期の航海をする船乗りたちは、さまざまな病気になった。その中の一つを防ぐのに有益とされたのがライムやレモンだった。そこで、海軍省は軍艦にライムを支給することになる。海軍の人間が「ライミー(ライム野郎)」と呼ばれるようになった所以である。
「ジョアン兄さまはライムが好きではないのですか?」
マリーナが聞くと、仕方が無いとばかりに白状した。
「ここだけの話ですよ。艦長としては、みんなの健康を守るために、無理矢理飲ませているんですからね。
私が嫌いでは、示しがつきません」
「ちゃんと飲んでいるのですよね?」
義兄が病気になったら大変だと、マリーナは不安になった。
「勿論ですよ。酸っぱいですけど……我慢して飲んでいます」
いかにもな顔つきに、残る二人は思わず笑ってしまった。
「私は好きですよ。紅茶に入れても美味しいんです」
「え? ライムを紅茶に!?」
ジョン・スミスの言葉に、今度はマリーナが顔を顰める。
「美味しいですってば! 試してみましょう」
「ええ? 嫌だ」とか「私の紅茶には入れるなよ」などと、先ほどまでの重苦しい空気は薄れ、和気あいあいとした雰囲気で、彼らは『夕凪邸』に帰って来た。
しかし、そこで彼らを待ち受けていたのは、真っ青な顔のミリアムだった。
***
「ミリアム、また何を壊したんだ?」
妹に対し、口調は優しかったが、内容は割と酷い。だが、ミリアムは真面目に答えた。
「私は何も壊してないわ! パーシーが勝手に壊れて帰って来たんだもの!」
気が動転しているとは言え、兄と同じく、こちらも内容が酷い。
「パーシーが!? パーシーがどうしたの!?」
マリーナが叫ぶと、腕を押さえたパーシーが顔を出した。
「何事ですか? マリーナさまに何かあったんですか!?」
「そんな腕から血を流している人に心配されるようなことはありません!」
「それは良かった」
「良くありません! 酷い怪我を……! すぐに手当しないと」
そう言う間も、パーシーの右腕からは血がどくどくと流れ落ち、地面を濡らした。
「マリーナさまは先に屋敷の中に入って下さい。ミリアムを連れて!」
「そんな……」
抵抗されそうなのを見てとって、ジョアンはマリーナに願った。
「どうかミリアムを遠くに連れて行って下さい。下手をすると、パーシーの傷が深くなったり、増えたり、とにかく変なことになりかねません。
それから、清潔な布を用意してもらえませんか? あと、ナタリーに頼んでお湯も」
「分かりました。行きましょう、ミリー姉さま!」
一転、マリーナはミリアムをすぐさまパーシーから引き離す。
それから、屋敷中の清潔な布を探し、ナタリーと一緒にお湯を沸かした。
用意したものを届けようと、その姿を探すと、パーシーは恐縮した様子で『夕凪邸』の居間の暖炉の前という、一等いい場所に座っていた。その周りには二人の海軍士官が立っていたが、暖炉に明々と炎が燃えているにもかかわらず、その顔は青ざめて見えた。
「マリーナさま、使い立てしてしまって、申し訳ありません」
「そんなことよりもパーシーは大丈夫なんですか?」
「止血はしましたので」
そう言うと、ジョアンはマリーナから布とお湯を受け取ると、傷口を洗い、手早くその傷に布を巻いた。
「平気ですか?」
ジョアン越しにパーシーに声を掛ける。
「ご心配をお掛けします。俺としたことが、農作業の最中に、ちょっと手を滑らせてしまって。お恥ずかしいことです。
ですが、大した傷ではありませんよ。
ラム酒でも飲んで寝れば、すぐに治ります」
「まぁ! 駄目よ。お酒なんて……傷に効く薬を……買ってきます」
やっとローズマリーの薬代を払い終わったばかりのような気がしたが、それでも出て行こうとするマリーナをジョン・スミスが止めた。
「薬ならありますよ」
「傷薬が?」
「ええ。こういう商売をしているとね、生傷が絶えませんから。
うちの家に伝わる、よく効く飲み薬があるのです。持ってきましょう」
「うぇ」といううめき声がしたので、マリーナは「パーシー、痛むの?」と聞いた。
「痛い方がマシです。
あの薬ですよね? 強烈に酸っぱい奴! あれ飲むなら、痛い方が我慢出来そうな気分になりますよ」
歴戦の戦士が、なんとも情けない声を上げた。
「あれは……酸っぱいからな……」
しみじみとジョアンも同意した。
「苦いのは我慢出来るけど、酸っぱいのはなぁ……なんで酸っぱいんだろう? 普通は苦いものだよな?」
「仕方が無いじゃないですか! そういう薬なんですから! 効き目は間違いないでしょう?」
「ああ、それはお墨付きだ」
艦長の同意を得て、ジョン・スミスは自室に薬を取りに行くと、部屋を出た。
パーシーが気分良く過ごせるように、アルコールの入っていない紅茶や、『暁城』から貰ってきた菓子や果物を勧めたり、ひざ掛けを用意したり、細々と世話をしつつ謝る怪我人を宥めるのに忙しくなったマリーナは、ジョン・スミスが戻ってくるのが、いやに遅いことを、気に留めなかった。
戻ってきたジョン・スミスを見て、随分、遅かったのね、とようやく気づいたものの、自分にも鼻をつくほどの酸味を放つ真っ赤な液体を差し出され、それどころではなくなった。
「マリーナ嬢もどうぞ。あ、艦長もですよ」
「ええ!」
なぜ自分が? と困惑するマリーナにジョン・スミスは「マリーナ嬢も飲んでおいた方がいいですよ」とニヤリと笑った。
その意味を、マリーナは翌朝、身を持って、知ることとなる。




