011:馬には乗ってみよ人には添うてみよ
『暁城』は『夕凪邸』から『東の森』を越えた東側にあった。
とすると、『暁城』にとって『東の森』は『西の森』ということになるが、「ここには別に『西の森』がありましてね。地理的関係上、この森が『東の森』と呼ばれているんですよ」とジョアンが、ここを訪れるのは初めての様子のジョン・スミスに丁寧に説明していた。
二人の会話を上の空でマリーナは聞いていた。時折、自身のシャツの袖口や襟を触っては、ほくそ笑む。
「……さま? マリーナさま?」
「へっ? あ、はい。なんでしょう、ジョアン兄さま」
「その服……私のものを着て頂くことになって、誠に申し訳ない気持ちです」
「いいえ! いいえ、ジョアン兄さま……」
「ジョアン兄さまのお古を着られて嬉しいです」とマリーナは言わなかった。
「新しく仕立てたばかりなので、一度も袖は通してはいませんが、サイズが合ってないか気がかりです」
マリーナの気分は萎んだ。――変なこと、言わなくて良かった……。
「昨夜、マリー姉さまとナタリーが手直してして下さったので、平気です。
おかしくないですか?」
「とても良く似合いますよ、マリーナ嬢……って言ってもいいのかな?」
ジョン・スミスが笑う。
「構いません」
アシフォード伯爵に会うのに、平素の粗末な服ではいけないと言うことになり、急遽、ジョアンの服をマリーナ用に直すことになったのだ。裁縫が得意なローズマリーとナタリーが、徹夜で切ったり、ほどいたり、縫ったりして、なんとか間に合わせた。ちなみに、ミリアムはごく初期の内に、ジョアンの一張羅のズボンをズタズタにしてしまったので、早々に部屋から追い出された。
げっそりとはしているものの、割合と元気そうなローズマリーから手渡されたシャツとズボンを着て、キール夫人が大事に取っておいたジョアンの海軍士官候補生時代の上着を羽織ると、マリーナは”いい家の坊ちゃん”のような格好になっていた。
『良かったわ。この上着、ジョアンに着せようと思って注文していたのに、艦から降りてきたのはその一年後!
すっかり大きくなっていて、もう着られなくなっていたの。子どもの成長って、あんなに早いのねぇ』
ジョアン少年に着せることが出来なかった上着が役に立ったものの、キール夫人は首を捻った。アシフォード伯爵に会わせるのに、マリーナにはドレスで着飾せる予定ではなかったのかしら?
ともかく、母の困惑と、長姉の思惑、次姉の魅惑的な笑みに見送られ、マリーナは『夕凪邸』を出て、こうして歩いているのであった。
***
『暁城』で三人を待っていた偽アシフォード伯爵は、無邪気さと淫靡さという相反する雰囲気を醸し出しながら、マリーナが来たことを嬉しそうに迎えたた。
早速、案内されたのは馬小屋だった。雪白の他にも、何頭か馬がいて、いずれも見事な毛並みだ。その中でも、やはり雪白は際立って見えた。雪白もご主人以上に歓迎の意を、マリーナに見せた。そうなると、マリーナもすっかり嬉しくなって、偽アシフォード伯爵に対しての警戒心も薄まった。
「雪白が君のことを気に入ったみたいだね。
ジョンは馬に乗ったことがないと言っていたね。よい機会だ、練習してみると良い。
――艦長とミスター・スミスもどうぞ」
二人の海軍士官は嫌な顔をした。乗馬が苦手なのだ。
それを後目に、経験がない分、苦手意識は少ないマリーナが雪白に乗った。乗る時に、偽アシフォード伯爵が介添えしてくれたのだが、相手は彼女を男と思っていることもあって、無遠慮に腰に手を置き「よいしょ」と上に持ち上げるものだから、女だとバレないかヒヤリとした。
幸いにも偽アシフォード伯爵はマリーナの腰の細さを気にはしなかったようだ。少なくとも表面的は変った様子は見えなかったので、マリーナは安心して雪白の上に乗り、ゆっくりとした常歩に身を任せた。
手綱は偽アシフォード伯爵が握っていた。
後ろで嫌々ながら馬に乗っている二人の海軍士官を見た偽アシフォード伯爵は、「なるほど、海軍士官は艦を操るのは得手だが、馬はそうでもないらしい。 ……だが、だからと言って、すべての海軍士官がそうとは限らないよ」と言った。
どうやらそれで自分を『偽物』と判断するのは早計だ、と訴えたいらしい。
「アシフォード伯爵ともなれば、乗馬の素養はあって当然と?」
偽物は、再び後ろを見やると苦笑した。
「そういうことだ」
それから軽やかな身のこなしで、雪白の背に乗った。つまりはマリーナの後ろに乗ったのだ。
「え! ちょっ……」
「雪白……行け」
言葉だけで、それまで大人しく歩いていて雪白は、駆歩になった。
「お待ちください!」
ジョアンの叫び声があっと言う間に遠くなった。偽アシフォード伯爵が背に密着し、マリーナを抱え込む形で手綱を操る。
ほぼ初めての乗馬の上に、風を切るような走りでは、逃げ出すことは出来なかった。それどころか、落馬しないようにしがみつくしかない。
こうなる恐れがったからこそ、『東の森』では不用意に馬に乗ることは断ったと言うのに。マリーナは雪白が懐いているご主人さまだからという理由で、男を信頼した自分を呪った。
男はあらかじめそうと企んでいたのだろう。マリーナのお目付け役の二人は乗馬が不得手であり、仮にある程度、乗れたとしても、雪白以上の駿馬は『暁城』の馬場にはいなかった。マリーナを攫う男に追いつくのは至難の業だ。
どこまで連れて行かれるのだろうか不安になったマリーナだったが、案外、早く、馬は止まった。
「ジョン、見てご覧」
顔を上げたマリーナの眼下に『東の森』が広がっていた。秋の気配が迫り、もうしばらくすれば、赤と黄色の海になる森である。その中に浮かぶのは……。
「『夕凪邸』!」
『暁城』には来たことのなかったマリーナは、『夕凪邸』をその角度で見たことがなかったので、つい、感嘆の声を上げてしまった。
「綺麗だろう?」
得意気なような、嬉しそうな、そんな声が頭上から聞こえる。マリーナはすぐに我に返り怒った。
「綺麗ですけど……」
「ですけど?」
喜んだと思ったら、すぐに機嫌を損ねたマリーナに偽アシフォード伯爵は理由を尋ねた。
「だったら、『これこれこういう風景があって、見せたい』と目的をおっしゃって下さらないと困ります。
そして、ジョアン……ウォーナー艦長と一緒に行くべきです。
景色は綺麗ですけど、ウォーナー艦長が私のことを心配しているかと思うと、とても心から楽しむなんて出来ません」
「なるほど。それを聞くと、納得出来る。ジョンが怒るのも当然だ。悪かった。
……だが、ここは私の土地だ。我が地にいる人間に危険が及ぶことなどない。ウォーナー艦長が君について心配に思ったり、不安を感じることなどないのだ」
「――」
自信満々なような言葉でありながら、どこか遠い目で偽アシフォード伯爵は言った。
確かにここはアシフォード伯爵領だ。だが、男は偽物なのだから、自信満々とは言えないのだろう、とマリーナは自分を納得させた。が、偽アシフォード伯爵がマリーナのことを聞かせてくれとせがんでくるのには困った。
「私は何も知らないのだ。髪の毛が栗色だということと、瞳が若葉のような緑色だとしか。それは間違いないの?」
「はい」
「ジョンと同じだね」
まるでジョンを通してマリーナを見るように見つめられて気恥ずかしい。
いくら彼女が偽アシフォード伯爵の見た目がそれほど好みではないとしても、それを上回る綺麗な顔立ちだし、色気はだだ漏れだし、なのに言動はやけに素直なところがあるし……本当に対応に困る人物だ。
「おーい!」
丘の向こうからジョン・スミスが馬を操って駆けてきた。彼には素養があったようだ。ようやくコツを思いだしたのか、暴風の中で帆船を操るように馬を制御していた。
続いてジョアンが走ってくる。
「存外、早かったな。
ウォーナー艦長は馬を捨てたか。確かに走った方が早いな。あれでは……」
やや嘲笑を含んだその言い様に、マリーナははっきりと不快感を示した。
「自分の義務を果たすべく、必死になっている人間をそんな風に言うのですか? あなたは?」
言い訳はなかった。
男は恥じた様にマリーナを見てから、自ら置いてきた二人を迎えに行った。




