010:馬子にも衣装
偽アシフォード伯爵が持って来た水桶は、当然のように水がたっぷり入っていたので、マリーナは慎重にそれを運んだ。
おかげで、水は少ししかこぼれなかった。代わりにマリーナの愚痴がこぼれる。
「ナタリー。人を雇わないといけないの。
でも、当てがないわ」
するとナタリーから心得たとばかりの返答があった。
「私の姪がおります。まだ十二歳ですが、いないよりマシでしょう。その分、給金が安くて済みますよ。
それに元気な働き者です」
「……ありがたいわ。明日から来てもらえる?」
「今日からでも」
もともと考えて、話を通してあったのだろう。マリーナはやっぱり悔しくなったが、ナタリーには非がない所か、キール男爵家の為に安い給金で多くの仕事を受け持ってくれている恩人でもあった。
「よろしくね。それから私、ドレスを着ないと」
そう言うと、ナタリーは大いに喜んだ。
「ああ、マリーナさま! 嬉しいですわ。マリーナさまがドレスを着られるなんて……」
昨夜は結局、ドレスは着ていなかった。マリーナには懸念があったのだ。
「でもこの髪の毛じゃ、みっともないだけだと思うの」
二度目の心得た答えが返ってくる。
「それに関しては、ミリアムさまに考えがあるそうです。
さぁ、参りましょう」
ウキウキとしたナタリーに導かれるままに部屋に入ると、さらにワクワクした面持ちのミリアムが待っていた。手にはリボンと髪の毛の束があった。
「これで短い髪の毛を編み込もうと思うの。上手くやったら、纏め髪に見えなくもないわ。
マリー姉さまが髪の毛を梳いた時に櫛に残ったものを集めておいたのよ。
マリーナの髪の色とマリー姉さまの髪の毛の色はほとんど同じだから。
いっそ、マリー姉さまの髪の毛をバッサリ切って、かもじにしてもいいわね」
「ええ!」
そのローズマリーのために切った髪を補うのに、ローズマリーの髪の毛を切るなんて、本末転倒ではないか、とマリーナは言った。
「違うわよ。
マリー姉さまの薬代のために切ったのでしょう? 全然、別の話じゃない。
マリー姉さまはどうせ舞踏会にも行かないし、外にも出ないんだから、いっそ、自分の薬代のために、自分の髪の毛を切るべきだったのよ」
ミリアムは実の姉にはかなり乱暴な事を言う。
「マリー姉さまは、やはり舞踏会には出られないのですね」
「そうよ。私も」
「ええ!」
「だって、何か壊したらどうするの? ”お城”の食器は高そうだし、燭台とかもあるに違いないわ。倒して小火とか起こしたらと思うと、とても連れて行く気はないって……お母さまが。
マリーナは行くのよ」
「ええ!」
「もう! さっきからあなた、「ええ!」しか言ってないわよ」
マリーナを椅子に座らせ、髪の毛を梳かしながらミリアムは笑った。彼女は物を壊しまくることから不器用と思われがちだが、こと、美容に関してのみは、その呪いから免れているらしく、妹の髪の毛はこれ以上、無駄に減ることはなかった。
「一人でなんて無理です」
「一人じゃないわ。お母さまが付き添いよ。
ジョアン兄さまも行くし、道中はパーシーもついてくる。何も心配ないんだから、綺麗に着飾って……」
ミリアムはマリーナの耳元に口を寄せると言った。「頑張って噂のアシフォード伯爵の心を掴んで来てね」
「ええぇ……」
それから舞踏会に着て行くドレスを決める為に、髪型を工夫してみたり、似合う色を探ってみたり、マリーナにしてみれば、久々に女の子らしい時を過ごした。
こういうのも悪くないかもしれない。ジョアン兄さまが見たらなんて言うかしら? お母さまのように美しくなったと褒めて下さるだろうか?
鏡に映った自分を見ながら、そう思いかけたマリーナに、驚くべき招待状が舞い込んで来た。
***
「あ……アシフォード伯爵がお呼び?」
二人の姉が歓声を上げたが、兄は渋い顔だ。
ジョン・スミスがアシフォード伯爵の紋章入りの手紙を持ち言う。
「マリーナ・キール嬢ではなく、”おたくのジョンくん”にだそうだ」
「”おたくのジョンくん”?」
ローズマリーもミリアムも不思議顔だ。そこで、マリーナは事の次第を説明することにした。
「そうとは知らずにアシフォード伯爵を謀ってしまいました」
あちらも自分を偽っているが……と、マリーナは付け加えそうになって止めた。ジョアンとジョン・スミスの中では、あくまであの男がアシフォード伯爵なのだ。
「――でも、それ、使えるかも」
ローズマリーが熟考の末、そう呟いた。
「やぁ、ローズマリー嬢。あなたもそう思いますか?」
「とおっしゃると、ミスター・スミスも?」
策士顔の二人の視線が合った。
「アシフォード伯爵には”おたくのジョンくん”のことは、キール艦長の遠縁の子どもだと説明しておいた。マリーナ嬢が弟のように可愛がっている存在だとも」
「じゃあ、マリーナと顔が似ていても平気ね。親戚ですもの」
「それ、無理がありますよ!」
いずれ舞踏会で顔を合わせた時、そんな言い訳で相手が納得するとはマリーナには思えなかった。
「化粧してドレスを着るんだろう? 別人だよ」
舞踏会の予行練習で、すっかり着飾ったマリーナをジョン・スミスは眩しそうに見た。
髪の毛はミリアムのおかげで、それなりに様になっている。デコルテの開いたドレスは、普段隠しているマリーナの綺麗な鎖骨と、サラシから解放された胸の曲線を露わにしていた。腰は驚くほど細いし、化粧をほどこした顔には少年めいた雰囲気は残されておらず、花開く前の瑞々しい少女の清楚でありながら、醸し出される色香が感じられた。
つまりは、しっかり身支度すれば、隣に立っている薄化粧で普段着のミリアム程度の美人にまで変身できる。
「ねぇ、ジョンとしてアシフォード伯爵の信頼を得て、マリーナのこと、上手く吹き込んでよ。
ジョアン兄さまったら、マリーナは可哀想な扱いなんて受けてはいません。誤解ですって、アシフォード伯爵に言ってしまわれたのよ」
「――ローズマリー……流言飛語は慎みなさい。たとえそれが他愛の無いものでも、噂はどこでどう曲解されるか分からない。
たった一つの軽はずみな発言が、取り返しのつかないことになることもあるのだぞ」
妹に非難されたジョアンは難しい顔で窘めた。
この件に反対をしているようだが、なぜかそうとはっきりは言わない。マリーナは焦れた。
「ジョアン兄さまも間違っているとお思いですよね?」
「そうですね。人を騙すのは良くありません。戦闘中ならともなく……ですが……」
「ですが?」
「これもある意味、戦いなのかもしれません……」
こんなに歯切れの悪い義兄を見たのは初めてだった。
「そうよ! これは戦いなの!」
対して、こんなに活き活きとしている長姉は初めてだった。
「文字通り、生きるか死ぬか、なのよ」
「諦めなさい。マリー姉さまがこうなったら、誰にも止められないわ。
ジョアン兄さまですら……ね?」
ミリアムが片目を瞑ってみせた。
そこで、マリーナは”おたくのジョンくん”として、明くる日、ジョアンとジョン・スミスと共にアシフォード伯爵が滞在するルラローザ家の”お城”……『暁城』に向かうことになった。




