雪の夜の夢
今年初めての雪をかぶった原っぱは、仕立てたばかりの絹のドレスのように光り輝いていた。その上に染みのように点々と続く自分の足跡を振り返り、アンネは満足そうにうなずいた。屋敷は丘の向こう――夜が明けて私がいなくなったことに気づく頃には、とうに海の上だ。
靴もコートも、そして旅立つための勇気も、フリオが与えてくれた。彼とは、宝石商である父の買い付けにくっついて港を訪れた時に出会った。前日の嵐の影響で、約束の船の到着が遅れているとの連絡を受け、父は早めの昼食をとるために、御者に港町を大回りして、行きつけのレストランへ向かうように指示した。揺れる石畳はお尻が痛くなる。父の膝に乗りたいのを我慢しながら、アンネは小窓から海を眺めていた。時化た海を避けて停泊する船が無数に広がり、色とりどりのマストが揺れながら乱立する様は、森を背負った山の神様が強風に撫でられてくすぐったがっているようだ。マストの先端で強風にはためく旗は、彼女に挨拶しているようにも、別れを告げているようにも見える。そんな中に彼がいた。居並ぶ船の中でも一際巨大な船から、縁を金で装飾した大きな長櫃を二人で担いで現れたのだ。彼の頭上には三枚の翼と交差する槍――この旗印は、豪商バアモンデのものだ。数多ある悪評の全てを、豪胆な戦略と辺境から持ち帰った宝物の数々でねじ伏せる力の男。フリオはその乗組員だった。薄汚れた上着には洒落た金糸の刺繍、潮風に弄ばれた癖毛は猫のように気まぐれで、赤銅色の肌と力強い腕、その上に少年のような笑顔が輝く。海風に流れる雲が重苦しく垂れこめているにもかかわらず、そこだけ光が射しているように見えた。
突然、馬車に殴られたような衝撃が走った。馬が声高にいななき、御者の必死の命令が飛ぶ。横向きの力に車輪が軋み、お尻の下で何かが折れるような音がした。車から飛び出した父親の怒鳴り声が通りに響く。アンネもまた馬車を飛び降りて彼の前に飛び出した。少女ゆえの、世間知らずゆえの大胆さが、彼女にためらう隙を与えなかった。
バアモンデの商船は取引のために一ヶ月間停泊する。その後は、本格化するロッテルダムの冬から逃げるように南へ、熱帯の楽園へと向かうらしい。フリオの舌足らずなオランダ語は、彼を無垢に見せた。自分より年上であろうフリオに対して、アンネの母性が動いた。それから、週に一度の買い付けが、アンネの気持ちを少しずつ高ぶらせていった。フリオと会えるのは、父が商談をしている一時間だけ。港から少し離れた所にある本屋――詩集の棚の前が二人の逢引の場所になった。三度目に、二人は互いに手紙を送った。アンネはフリオへの思いを、辞書を片手に綴ったスペイン語の韻文に込めた。フリオは、アンネのいない港町の暗欝さと、二人の未来に横たわる、巨大な葉の生い茂る楽園での夢のような毎日を、美しいオランダ語で綴った。誰かに代筆してもらったようだったが、それは二人の愛を応援してくれている天使の手になるものだとアンネは決めつけた。
父はそんなアンネの浮ついた様子に気づくことはなかった。この冬、生まれて初めて目にした黒真珠の艶やかな輝きに目がくらんでいたからだ。母親も二人の姉もまた、アンネの瞳に宿った光には気づかなかった。唯一、侍女のエマだけがアンネの放ついびつな輝きに目を留めた。アンネの歳の三倍の年数を召使として生きてきたエマは、自分の得た情報がどれだけの価値を持つのか正確に勘定することも、主人が手元の宝石のどれに意識を向けていないか的確に見抜くことも、たやすく行えた。だから、同じ情報を使って、アンネが持ってきたのとは別の宝石を、主人の手を介して奪う算段も決して難しいことではなかった。
その夜、空を渡る風すらも息をひそめる中、アンネはフリオが用意してくれたコートを纏った。寒い夜だから、しっかり腰紐を縛ってくるんだ。流れるような手紙の文字がフリオの掠れた声と重なった。袖と裾には蔦の絡まり合うようなアラベスク文様が織り込まれている。鞄に無理やり詰め込んでいたせいで皺が寄ってしまっているが、アンネの高揚感にはそれすらも精緻な装飾に感じられた。召使達を避けて正面から抜け出すアンネを二階から見下ろしていたエマは、エプロンのポケットの中の戦利品の冷たい手触りを確かめると、耳を澄ました。屋敷の裏で主人が二頭を小屋から出す音が聞こえる。唸り声、金具の音、獣の四足が雪を摑む音まで聞こえるようだ。主人の指示が二頭を駆り立てる。階段を下りたエマは、正面玄関の扉を開けた。雪の夜はエマの足跡も綺麗に消してくれるだろう。
雪に足を取られながらも丘を下り終えたアンネは、木立の向こうにフリオの影を見つけた。相変わらず髪は波打ち、締まった体を糸杉にもたせかけている。背伸びして手を振る。コートが似合っていればいいけど。アンネに気づいたフリオが手を振り返す。その長い腕はマストに掲げられた旗のように、アンネを未来へ導く。雲の切れ間から射し込んだ月明かりが足跡一つない街道を輝かせた。
足跡が、ない……。
アンネがその不自然さに気づく前に、背後からハスキーの遠吠えが聞こえた。声を聞けばわかる、オーリガとキリルだ。父の乗る犬橇が雪原を引き裂くのが見えるようだ。このままではフリオが見つかってしまう。しかし、フリオは構わず手招きする。そうだ、ロッテルダムにどれだけの船が停まっていると思っているのだ。船に乗り込んでしまえば、父に私を探し出す術はなくなる。陽が昇れば出港だ。彼に触れることができれば、心配することはなくなるのだ。
振り返るまでもなく、犬橇が丘を越えたのが分かる。フリオの用意してくれた靴は少し大きくて、走る時にバランスを取りにくい。膝を高めに上げようとするが、ドレスが邪魔でうまくいかない。フリオはなおも手招きする。通りの家並みには灯りもなく、オーリガとキリルの吠え声と、自分の呼吸だけが旅立ちの祝福を邪魔している。フリオの呼吸を感じたい。笑顔がはっきり見える。両手を広げて抱きしめる姿勢。バランスを崩してもいい。フリオの胸に飛び込む。足元で雪がはじけて、膝が冷たい。
「ごめん」
それはスペイン語で発せられた。アンネの視界は急に暗くなり、足元を持ち上げられた。足首を紐で縛られれば体をひねることしかできず、両手を縛る紐は腰紐にも通され、身じろぎするのも容易ではない。勉強したてのスペイン語の響きが、麻の袋越しに聞こえてくる。意味は分からなくても、どんなことを言っているのかは想像がついた。アンネは暴れる気力を失った。
誰もいなくなった街道に立ち尽くした父は、唇を噛んだ。身代金を工面するだけで済むだろうか。バアモンデの黒い噂を聞き流していた自分の愚かさが恨めしい。人払いされた街道の向こう、裏通りはいつにもない活気に満ちていることだろう。喧嘩か金か、人の流れはいつでもたやすい。湯気を立てる二頭のハスキーの背中を撫でながら、父は雲に隠れた月を仰いだ。
内藤丈草の俳句「狼の声そろふなり雪のくれ」をモチーフにしていたのですが、大分遠い所に来てしまったようです。