にじいろ
小高い丘の上にある家からまっすぐに伸びる階段を降りると、塩の香りと少し顔をしかめてしまうような匂いが風に運ばれてくる。
女は、毎日、朝日が昇るか昇らないかのぎりぎりの時間に、砂浜を歩くことを自分の中での決まり事としていた。
そこは苔や小さな貝、海藻がついて元の形がなんだったのかわからないゴミや、流れてきた木などで、汚らしい。
あまりにもな汚さで、数年前から見て見ぬ振りをしているのか、砂浜の手入れは誰もすることがなくなってしまった。
諦めの砂浜。
最近では、汚いことをいいことに粗大ごみなども捨てられてしまっている。
そんな状態の砂浜を好き好んで歩く人はほとんどいない。
しかし、その汚さや、手入れのしないさまが女にとって、いつまでも晴れない自分の心を表しているようで、ほっと安心する。またゴミが朝日を受けて時々美しく見えるときもあり、沈んだ心が少しだけ和らぐことができるから。
だから歩く。
今日も目の前の景色は変わらない。
変わらないように見えた。
砂浜と海水の区切りがどこかわからないところに、きらきらと輝く何かを見つけたのだ。女はゆっくりと近づいた。
「え?」
驚きの声をあげた。
全体的にぐったりしているものの、残りの力を振り絞るように口をパクパクさせて助けを求める魚がいた。それは、虹色に輝く鱗を持っていた。
「綺麗」
気分転換に、と夫が買ってくれた魚より、とても綺麗で美しいと女は思った。あぁ……夫が大事にしていたあの魚たちはどこへ行ってしまったのだろう。打ち上げられたというのに、必死で生きようとしている虹色の魚を見つめながら思った。
そして魚を触ることが怖いというのに、指を震わせながら鱗を指先で突っついてみた。
刺激を受けて尾がパタパタと動いた。
「わ、わっ」
ビチビチと動かなかったが、魚の反応に驚きすぎて尻もちをついた。
「海に戻してあげたほうがいいのかな?」
女の視線の先にはゴミの山。下手すると、流れ着いている網に引っ掛かって身動きができないかもしれない、と思い、周りに何か入れ物がないか見渡した。ちょうどよく、小汚い風呂桶があった。苔とヘドロでもとの色がほとんどわからない。ただ、隙間のところどころから黄色のような色が見えるので、女はぬめりと苔の妙な柔らかさを含んだ桶を出来る限り洗い落とした。
生の魚が苦手にも関わらず、こわごわと両手で包み込み、少し汚れが落ちた風呂桶に入れて海水がこぼれないよう家へ持ち帰った。
ここに移り住んだ時、夫が海水魚を育てていたこともあり、そっくり用具が揃っている。
昔の記憶を頼りに、埃や汚れを洗い落とし、なんとか使えるようにし、優しく水の中に滑らせた。
弱っていた虹色の魚は、一瞬動きを止めたが、すぐに体をしならせて泳ぎ出した。
「気持ちいい?」
魚が頷くことなんてありえないのに、女には頷いたように思えた。心のどこかがほんのり温かくなるのを感じつつ。
ひと段落して家にある図鑑でこの魚のことを調べるも、これ、というものに当たらなかった。仕方ないので、海水魚全般が好むエサを与えたが、あまり食べなかった。
「ねぇ、食べないと弱っちゃうよ?」
困った顔で語りかける。女の気持ちを知ってか知らずか、ゆったり悠々と水槽を泳ぎ回る。
「大丈夫かなぁ?」
ほとんど食べないで生きることができる魚なんているのだろうか? と不安に思いながら。
しかし、弱るどころか、日に日に少しずつ大きくなり、気持ちよく泳ぎ回る魚の姿を見ると、女は心から安心した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「なぁ、雪子。最近体調がいいみたいだね?」
久しぶりに上機嫌に話してくる自分の夫の声に女は驚いた。
「えぇ」
夫から話しかけられて女は心なしか嬉しくて、笑顔が浮かぶ。
「この虹色の魚のおかげかな?」
水槽に顔を近づけながら女に話し続ける。
「そう……、そうかもしれないわね。その子が来てから、私変わったかしら?」
「あぁ変わったよ」
にっこり微笑んでかがんでいた体を起こして男は妻を見つめた。
「雪子おいで」
優しく低い声に導かれるように、食器を拭いていた手を止め、夫のほうへ向かった。
水槽の青白い光だけが二人と虹色の魚の世界を作り出そうとしていた。
女の雪のように白い肌は、夫に触れられる指先でほんのりと赤く染められていく。
互いのぬくもりを感じるなか、
"パシャン"
と、魚が飛び上がる音を二人とも聞き、心に華が咲いたように温かな気持ちになった。
冷たさを感じる電気の色だというのに、温かくて優しい時間がゆったりと流れ始めた。
それはこのあたりの海沿いでは、ほとんど降らないはずの雪のちらつく日のこと――――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ねぇ、太朗さん。虹色の魚、覚えてます?」
「あぁ」
少し前の出来事を思い返すように目を男は細めた。
「不思議だったけれど……」
目尻を下げて妻に優しく包まれている我が子を見つめた。
「この子を贈ってくれたんでしょうか?」
「あぁ。そうだね。多分」
数年前。雪子の中に新しい命が宿り、私たちは嬉しかったし、浮かれていたのかもしれない。同世代の親子が授からないなか、どこか誇らしかったのは覚えている。鼻が高いというのだろうか。周りの気持ちに私達は気づくことができなかった。あまりにも鈍感だった。
こどもが欲しくても難しい夫婦がいるという現実に気付かぬフリをしていた。
だから、なのか、それとももっと違う原因があったのかわからないが、雪子に宿った新しい命はこの世に生まれてくることが叶わなかった。
その結果が、周りからまるで私達をせせら笑っているようで。
それからというもの、彼女は塞ぎこみ、ほとんど外にも出ず、会話という会話もなかった。
どうやって慰めていいかわからなかった。なにか言ったところで、全てを傷つけてしまいそうで。
なんともできない自分の力を惨めに思った。ただただ雪子の傷が癒えるまで、そっと見守るしかなかった。
しかし、ある日どこから見つけてきたのか私が帰ると、虹色の魚が水槽にいた。魚に触るのも嫌な雪子が準備できたことにも驚いた。そして久しぶりに雪子の笑顔を見た。
雪子に笑顔を戻してくれたこの虹色の魚が死んでしまわないよう、心を込めて育てた。
あまり食欲がないようだが、エサを与える時間を考えたり、水槽を洗う日を決めたり、と虹色の魚を中心として会話がまたできるようになっていったのだ。
少しずつ、少しづつではあったけれど、心の奥底にあった深い悲しみも癒えていくように感じたあの日。
雪子に新しい命が宿ったのだ。
それと入れ替わるように水槽の中には、なにもいなかったようにひっそりとしてしまった。
鱗一つでもあれば、私達のところで生きていた、と強く思えるのに。
跡形もない。
互いに顔を見合わせたが、哀しみはもうそこになかった。
ただただ、産まれてこようとしている小さな命を大切にしていこうと想い合った。軽はずみな行動、言い方を控えながら。穏やかに。穏やかに。ゆったりと。
図鑑にも載っていなかったあの虹色の魚は、お互いになんの言葉もかけれなかった私たちに希望を与えてくれた。
今思い返せば、本当にいたのか、幻だったのか、と思うところもあるけれど、今こうして新しい命が懸命に生きようとしている現実がある。
この世に産まれることができなかった名前のないあの子の分も大切に慈しんで育てようと、僕と雪子は決めた。
力強く私達の指を握ってくれた我が子に。
そして私達は少しづつだけれども、汚い砂浜を綺麗にしようとゴミを拾い集めている。どのくらいかかるかわからない。
でも、ここが綺麗に片付いたとき、もしかするとあの虹色の魚がまた現れるかもしれない、と淡い希望を持ちながら。
どこからやってきたのか、風にのって舞ってきた桜の花びらに私達は手を伸ばし、温かい日差しに目を細めた。
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