雪の消えた日
白い綿がふわり、ふわり。
上空から降り積もる。
止むことを知らない。
そして、汚れを知らないそれは、見る者の目に、どう映るのだろうか。
幸せな雪。
冷たいはずなのに、何故だか温かい。
それは、愛する人がいるから?
愛する人の、温もりがあるから?
だから、ねぇ
雪は綺麗に映るの?
雪は、確かに綺麗よ。
でも、私にとっては、それが切ない……。
「もしかして彼氏?」
母は言った。
「違うよ」
私は笑い、言った。
「友達」
「そう」
母は微笑み、
「帰って来たら、ケーキにろうそくをつけて皆で食べましょう」
「うん」
私も微笑み、それから窓外を見て。
相変わらず、雪は同じ雪量のまま、ふわり、ふわりと降り積もる。
立ち上がり、ニット素材の大判ストールを被る。
柔らかな黄色、そして白い糸で編み込まれている。
母が、私によく似合うと言ってくれた。
私はあまり好きではない、トーンでベタ塗りしたような黒髪。
そして、コンプレックスでもある癖っ毛。
前髪はストレートをかけたものの、2、3ヶ月も経つと取れてきて、今では前髪がくるくる踊っている。
前髪以外はお金がかかるからと、母に言われ、かけさせてもらえないため、三つ編みでごまかしている。
髪を少し残した、触覚の部分がやたらと長い。
わざとやっているつもりはないけど、髪を当分切りに行っていないので、触覚もそのままの長さという訳で。
顔は、印象が薄い、地味、だけど何処か落ち着いている。
私は、三つ編みを揺らし、雪降る外の街へと駆け出した。
本当は、友達と出かけるなんて嘘。
私には、友達と呼べる友達がいない。
“出来ない”訳ではない、“作らない”のだ。
友達がいらない訳でもない、だけどいつの間にか、自分から抜けている。
気付くと、自分はいつも独りぼっち……。
私は、そういう人間だって、分かりきった上での事。
高校3年生の割に、大学生と思われる事もしばしば。
“老けている”とは、出来れば思いたくない。
“落ち着いている”くらいにしてもらいたい。
見た目が大人っぽい訳ではないと思う。
顔は、年齢相当の顔だし……
身長も、152cmと割と低め。
ただ、わーって喜んだり、表情をころころ変えたりしない。
微笑むのが精一杯で、それが落ち着いていると思われるのかもしれない。
あとは、服装……基本的に、落ち着いた服装を好む。
ニットとか、ひらひらした薄い生地とか……そんな、暖かみがあったり、軽はずみな爽やかさがあるものが大好き。
そんな私は、考えている事も普通の高校生とずれているのか……
今もこうして、本を読むために、わざわざカフェに向かおうとしているのだから。
級友は皆、遊園地でデートだったり、友達同士でクリスマスパーティ……
そんな中、カフェで一人、本を読みに出かける少女。
自信がない私は、カフェに入っても、あまり人の顔をジロジロ見ないよう……
(見たら、自分も見られてしまうから)
適当に、空いた席に座る。
「メニューがお決まりになりましたら、こちらでお呼び下さい」
店員がメニュー表を持ってきて、テーブルの上に載せる。
よかった、直接声をかけなくていいんだ。
呼び出しチャイムで店員を呼ぶそのシステムに、人見知りな私は安堵する。
あ、お手洗いに行って来よう。
私は、席を立った。
またしても、人の顔を見ないよう……。
……え?
まず、私は驚いた。
先程私が座っていたはずの席に、見知らぬ男の人が座っていたからだ。
グレーの雪柄のニットを着た男性。
チェックのマフラーを首に巻いている。
私はまず、動揺した。
動揺しながらも、何度もそれが自分の席である事を確かめる。
どうしよう、自信がない……。
それが、私の席であるという、絶対的な自信がない。
私は、周りのお客の顔をよく見ていない為、隣の人により席を断定することができない。
本当に、適当に選んで座った席だった為、位置も曖昧な程度でしか覚えていない。
鞄を置いていった訳でもないし……。
ただ、左隣、右隣の人はどちらも机上にデザートやら紅茶やらが置いてあるのに、その男の人の前には何も置かれていない。
メニュー表が置かれたまま。
それが、唯一何となく私の席だという証拠になるのだが……
声を掛けよう。
「それ、私がさっき座ってた席」と……
私は、喉まで込み上げた言葉を飲み込み、そして、首を振った。
もし、間違ってたら……その人の席だというのが正しかったら……
指摘しといて、自分が間違ってる程、恥ずかしい事はない。
うん、声を掛けるのは辞めよう。
半ば諦め、他の空いた席を探そうとしていた時だった。
目の前の男の人が、顔を上げ、こちらを見たのだ。
黒よりも茶色がかった瞳が、こちらを見つめている。
目が合い、思わず、私は苦笑いした。
あまりにも、その人がこちらを見つめるもので……。
「あのー……」
彼は、小さく首を傾げた。
それは、本当に些細なリアクションだった。
「この席、私が先に取っていた席だったはずなんですが……」
気を悪くしないよう、精一杯の微笑みで言った。
この時、私は物凄い心拍数だったと思う。
緊張のしすぎで、少し胸が痛かった。
「そうなの?」
彼は小さな驚きを漏らし、
「ごめんね」
困ったように笑うと、さっと立ち上がった。
「あっ……」
何故、声を発してしまったんだろう。
自分でも、よく分からない。
彼は、もちろん首を傾げる。
彼の茶色に近い黒髪……繊細な髪が綺麗に揺れた。
襟足まで続くその髪は、滑らかな指通りを思わせる……男性には珍しいしなやかさがあった。
「いいですよ。そんな……」
私は、目を泳がせながら言った。
「わざわざ、席を立たなくても」
顔が熱くなるのを感じた。
顔だけじゃなくて、体中が熱くなって、少しばかりの汗も掻いて恥ずかしかった。
男性は特に気にしていないようで、
「そう? ありがとう」
ゆっくりと腰を下ろすと、私の向かいに座った。
「……」
しばらく、二人は無言だった。
彼もまた、無言だった。
私は、手持ち無沙汰もどうかと、本を出してはページを捲り始めた。
それは、“フリ”でしかなかった。
まともに読める訳がない。
目の前に見知らぬ男の人がいて、しかも、一言二言と言葉を交わした関係で……。
そんな状況で、言葉が頭の中に入ってくるはずなどない。
「お待たせしました。ご注文のカフェラテアートでございます」
店員の登場により、いくらか気まずさから抜け出る事が出来た。
私がお手洗いに行っている間に頼んだのか……
男性の前に、コトンと音を立てて、カフェラテが置かれた。
……可愛い。
カフェラテの上の方に浮かんだ泡を使い、クマの顔をアートした作品のようなカフェラテ。
こういうのは、若い女性は大好きなものだ。
注文した女性客は大体、携帯を取り出し写真を撮る。
そして、「可愛い~」の声が飛び交う。
彼は勿体ない、といったようにしばらくそのカフェラテを見続ける。
こちらから見ると伏し目がちに見える目は、長いまつげに隠れていた。
彼は意を決したように、小さなスプーンでそれを掬い、一口、二口と口にした。
カッコイイ訳でもなく、可愛い訳でもない。
綺麗と言うのが一番しっくりきそう。
その顔立ちは、人間的な綺麗さとは違う、何処か無機質な綺麗さだった。
白い肌、綺麗な鼻筋と高さのある鼻、穏やかな目尻……
思わず、しばらくの間見つめていたようで。
再び、彼が首を傾げたのであった。
「あ、えっと……」
何と言えばいいのか、とにかく、慌てる私。
厚みの少ない、薄めの唇が微かに動いた。
「これ、可愛いよね。クマが描かれたカフェラテ」
落ち着いた声は若干の低音である。
彼の声が耳を通るだけで、心地良い気分になれた。
「そうですね」と私は言って、微笑む。
彼は、私以上に何倍も素敵で、穏やかな微笑みを返してくれた。
それは、このクリスマスにとびきりのプレゼントを貰ったと言っていいくらいの。
「そちらは、何か頼まないのかな?」
「あ、そうでした」
私は慌て、メニュー表を必死に選ぶ振りをする。
「うーん」と喉の中で響かせながら、迷っている間の空白を誤魔化す。
ふふっ、と彼は笑って、
「君、おもしろいね」
「え? そうですか?」
おもしろい……??
初めて言われた言葉に、私はその意味を考えた。
「うん。僕が思っている以上に、君は……実は、おもしろい人だと思うな」
「あははっ。初めて言われました」
私は微笑んだつもりだったが、その微笑みは苦笑いでしかなかったように思う。
「これ、オススメ」
彼は、私の前に広げられたメニュー表の中の、メープルラテを指差した。
「迷ってたみたいだから……苦手だったりするかな? ごめんね。押し付けがましくて」
「そ、そんなことないです!! 私、優柔不断で……助かりました!! ありがとうございます!!」
「そう、よかった」と彼はまた、穏やかな笑みを浮かべた。
いやぁ、最高だなぁ。
こんな素敵な男性とクリスマスを過ごせるなんて……!!
と、思う同時に、彼との別れが寂しくなってきた。
カフェを出たと同時に、彼とも別れなければいけない、彼とは今日限りの付き合いなのだから……。
なるべく、長居することにしよう。
だって、誰と約束している訳でもないし、どうせ独り身だし……時間はいくらでもあるのだから。
「初対面なのに、こんな事聞いたら気を悪くするかな」
インターホンを押して、店員に注文を告げ、カフェラテが来るのを待っている間だった。
「君は何歳なの?」
彼は言った。
どうして見ず知らずの他人の年齢など気になるのだろう、まず、私は思った。
そんな事聞かれたら……私に気があるのかと、勘違いしちゃうじゃん!!
「そんな事ないです!!」私は首を振り、
「17歳、高校3年生です」
「年齢の割に落ち着いてるんだね」
私は笑い、言った。
「そうみたいですね。よく言われます」
「実はね、高校生か大学生かで迷っていたところなんだ。高校生に見えなくもないし、大学生にも見えるような……高校生にしては、妙に落ち着いてるなって思って」
この人は何歳なんだろう……。
私よりは歳上に見えるけど、若い感じもするし……
大学生かな、と思う。
彼はあっ、と思い出したように言って、
「僕は25歳」
「えっ」
私が小さな驚きを漏らすと、彼もまた、何故驚いたのか不思議そうにこちらを見た。
「ご、ごめんなさい……!! 歳上だとは思ってたんですけど、大学生くらいかなって思ってて……実際、思ってたよりも歳上で、びっくりしました」
「あはは」と彼は大らかに笑い、
「大丈夫。自分でも、そんな風に見えるのかなって、何となく分かってるよ」
彼は心の広い人だ。
そして、私の思う通り、素敵な人なんだと思う。
「名前は“ゆき”。女っぽい名前なんだろうけど、僕は割と気に入ってたりするんだよね」
「ゆき……」
私は呟くように言い、彼をじっと見つめる。
名前の通り、彼は雪のような人だ。
雪柄のニット、華奢な体型、細く、綺麗な顎の曲線……白く透き通る肌、雪に溶け込みそうな優しいブラウンの瞳……彼の全てが美しい。
ゆきさん、あなたは本当に……雪のように白い世界、限りなく美しいです。
「ふふっ」
彼は笑い、私は首を傾げる。
「何でそんなに見てるの?」
「あ、ご……ごめんなさい!!」
私は顔を赤らめ、そして俯いた。
「で、君の名前は?」
私の名前は――
口を開きかけたその時、丁度、注文していたメープルラテが運ばれた。
店員がいなくなると、私は一口、メープルラテを口にする。
その感想を言うのも忘れ、私は咄嗟に名前を名乗った。
「雨音です!!」
ふふっ
彼はまた、穏やかな笑顔を浮かべ、
「いい名前」
一言、そう呟いたのだ。
この時、私は、この人と何だかいろいろ合うような気がしていた。
この人とは、歯車が合うんじゃないかと……そう思ったのだ。
それから、「初対面で、普通ここまで話すか!?」的な、プライベートな話までたくさん話した。
カフェでの滞在時間は5時間にも及んだ。
ゆきさん、彼の知らない事が多すぎて、もっともっと知りたいと、私はついつい、質問しまくってしまった。
「じゃあ」
彼が立ち上がった。
170cmの長身を、私は椅子に腰掛けたまま見上げた。
行かないで
そう、引き止めたかった。
だけど、私にはそれが出来なかった。
できるはずない――
できたとすれば、どんなに嬉しいことか……。
ゆきさんが寂しそうな顔をしたので、私はさらに寂しくなった。
嫌だよ……行かないで。
私は、その手を今にも掴みたくて、そっと動き出した手を、一生懸命自己抑制するのであった。
「またね」
え……?
たった3文字のその言葉は、一瞬、私の脳に違和感を与え、それから、胸へと伝っていった。
「また」なの?「さよなら」じゃなくて?
「また」がある限り、永遠の別れじゃないって事だよね?
信じていいんだよね?
また、あなたと会えることを……
嬉しい……嬉しいよ……
胸に伝わったそれは、じわじわと温かい。
こんな寒いクリスマスの夜は、この温かい気持ちのまま持って帰りたい。
私は、その気持ちを抱き締めるように……誰にもバレないように、密かに笑ったのであった。
ゆきさん、25歳。
彼は写真を仕事にしている人だ。
でも、彼の写真は様々なものを選ばない。
人を撮さない、花も撮さない、建物も動物も……
彼が写すのは、空に限っての事なのだ。
彼は、天文学に凄く詳しい。
つまり、空に見えるもののほとんどに詳しいのだ。
彼は、冬空の下を散歩しながら、天文学について熱く語ってくれた。
「写真家って、冬は出番がないように思えるけど、実際、冬こそが写真家にとって絶好の時期なんだ」
「冬……」
私は空を見上げた。
見ようとすれば、雪が降るばかりで、目を開けてじっと見る事もできない。
「雪……」
呟いた後、ゆきさんの名前を呼び捨てしたみたいな気になって、少々顔を赤らめたり。
「そう。雪の結晶とかね」
「雪の結晶……写真や映像でしか見たことない」
「そうなの? 掌にのけてこうして、目を凝らすだけでも見えるものだよ」
私は、真っ白な空に向けて、掌をかざしてみた。
一瞬の、微かな冷たさがあり、雪が掌に触れる感触があった。
目を凝らすと、確かに雪の結晶が見えるような気がした。
お店に、ジュエリーと一緒に並べられたような……透き通ったクリアの結晶……眺めているうちに、すぐに溶けてなくなってしまった。
「僕の結晶を見て」
ゆきさんが差し出した掌上を見る。
「あれ……」
「私の結晶と形が違う?」
そう、私の結晶はもっとシンプルでシャープな感じの結晶だった。
それに対し、ゆきさんの結晶は六角形の結晶で、可愛らしい感じがする。
「全く同じ形の結晶は、一つとしてないんだよ。何万通りもの形の結晶があるんだ」
「へぇ。おもしろいですね!! 何気なく雪を見ていても、そんな事、考えた事もありませんでした」
「うん。だから天文学は興味深いんだよね」
ゆきさんは降り積もる雪……空を見上げていた。
ゆきさんの真っ白な肌に、真っ白な雪が溶けてゆく……まるで、彼の一部になるように。
彼は、雪が顔に当たろうと気にする事なく、興味深そうに空を見つめていた。
彼がどれだけ天文学……空を愛しているかが窺えた。
こんな風に、自分の好きなものを、熱く語れるような人って素敵だなぁ。
私は思った。
そしてまた、私も、ゆきさんのように、自分の“好き”を貫き続ける人でありたいと……。
「そうだ」
何か閃いたような物言いに、私は何かを期待した。
「迷惑じゃなければ……今度、僕の写真を見てもらいたい。いや、雨音さんにプレゼントしたいんだ」
どう?と、ゆきさんは顔を傾けて言った。
彼の繊細な髪の、綺麗な動きを感じた。
「プレゼント?」
「そう。丁度今ね、今まで撮ってきた写真を整理してるとこなんだ。それを一枚のアルバムにまとめて、雨音さんにプレゼントがしたい」
「本当? 雪の結晶の写真も見れますか?」
私は、目を輝かせ、期待を込めるように言った。
「もちろん。珍しい結晶の形も、たくさんの結晶の写真があるよ」
「わぁ」と私は呟き、
「嬉しい!! 凄く楽しみです!!」
思わず、顔が歪んで笑みが溢れた。
きっと、どんなプレゼントよりも嬉しい、最高のプレゼントかもしれない。
ゆきさんが見てきた世界が見れるなんて、最高ではないか。
「雨音さんは……」
ゆきさんは、思い出したように言う。
私の顔を、まじまじと見つめながら。
「小説を書く人だったね」
「はい。そうです」
カフェで会って以来、二度目に会ったのは雪の降る、白い公園。
それから、何度か公園で会うようになり、こうして今も、一緒に雪道を歩いている。
その間に私が小説を書いていると、ぽつり、どうでもいい挿話のように話したのであった。
「代わりに、雨音さんの小説を僕に読ませてくれないかな」
「えっ」
小さな驚きから、大きな驚きへと変わってゆく……
徐々に電線してゆく驚き……
私の、こんな地味な女の子の小説を読みたいなんて言ってくれる人がいるんだ。
私の何処を見て、読みたいと思ったのだろう。
天文学って、理数系だよね……
理数系の人って、私の中では、感情的に動くよりも、物理的に動くイメージが強い。
物事の全てには、決まりが用意されてあって、真実があるのが当たり前だ、みたいな……
しかし、小説では事実だけを言おうとはしない。
物語に結末があったとしても、読んだ人がその先の、また新たな主人公の未来を想像する……
そんな事も可能、小説はどんな夢物語だって自由自在に操れる。
「魔法なんて実在しない」、「幽霊なんて信じない」そう確固として言い張る物理学者のイメージが強いために、私はゆきさんの言った言葉が意外だった。
「なんだっていいんだ。雨音さんの想い、形の残ったものが見れるなら」
私は思った。
ゆきさんは、私が思うよりも感情的な人なのかもしれない……。
無機質なその美しさからは、想像も出来ない、温かい感情が……その胸の中にあるのかな。
「全然、完成度も低いし、本当、趣味程度のものですけど……」
私は、何だか嬉しくて。
そして、何だか気恥ずかしかった。
「いいよ」
それでも、ゆきさんは笑顔でそう言ってくれた。
「私も、小説を自分なりに冊子にまとめたいと思います。それで、ゆきさんにプレゼントしたいです」
「それは嬉しいな」
ゆきさんは言った。
「楽しみだよ」
12月最後の日。
ゆきさんと、初めて手を繋ぎました。
ゆきさんの手は、彼の肌が白いように、彼の手もまた、冷たかった。
だけど、その冷たさは、何故だか嫌な気がしなかった。
私の体温の方が勝っていて、彼の冷えた手を温めていった。
「ゆきさん」
照れ臭そうに微笑んで、私は、いつもの場所に顔を出した。
新しい年を迎えた冬の公園に。
ゆきさんは、一瞬、動きを止め、じっ、と私の顔を見た。
彼は、5秒程間を空けて、その口を開いた。
「あまね……さん?」
「はいっ」
私は、笑顔で言う。
「すごく……」
ゆきさんは、私の全身を見回しながら、
「雰囲気、変わったね」
そう、私は髪を切りました。
ずっと伸ばしっぱなしで三つ編みにしていた髪を、三つ編みも難しい肩ギリギリの長さまで。
そしたら、尚更癖が目立った訳だけど……お母さんも、皆に好評の髪型なのでした。
ゆきさんは一歩、二歩と近付いて。
ドキン、私の心臓が高鳴った。
彼の顔がすぐ目の前にあったから。
彼は、そっと手を伸ばす。
私の髪に、優しく触れた。
ドキン、再び、私の鼓動が高鳴った。
「雨音さんだ」
「え?」
顔を上げると、ゆきさんの微笑みがすぐ真上にあって……焦って、目線を下げた。
「ふふっ。雨音さん、髪が雫まみれになってるよ」
「えっ?……」
鞄から鏡を取り出し、咄嗟に頭を確認する。
「ほんとだ……」
「途中、ぼーっとしながら歩いてたら、道を間違えて……そこが、割と草が茂っている場所だったからかな。草についた雫が頭に落ちたのかもしれない」
手で雫を払おうとする私を止めるかのように、ゆきさんは言った。
ふふっと笑って、
「そのままで……」
「え?」
「雨音さんの癖っ毛に、クリアの宝石が散りばめられているみたいで……とっても綺麗。それに、雨音さんの髪、艶のある黒髪だから……尚更、クリアな透明感が目立つんだよね」
私は、もう一度、鏡に映る自分に目を向けた。
ゆきさんにそう言われると、本当に宝石のように見えて、綺麗で素敵な気持ちになった。
「あ……」
掌に当たったその冷たい感触は、雪ではない。
雪が、雨に変わったのであった。
ゆきさんは、ビニール傘をそっと開いて、
「雨音さんの、綺麗な雫が消えないように……」
「風邪を引いたらごめんね」
「いいですよ」
私は笑った。
そんなの、へっちゃら。
だって、ゆきさんに「綺麗」と言われるような出来事に出会えたのだから。
「はいっ」
「はい」
お互いに、自分の作品を手渡す。
プレゼント交換みたいで……何だか楽しい!!
もしかしてこれは、お金で買った物よりも、何倍も価値のあるプレゼント交換なのかもしれない。
「ふふっ」
私は、ゆきさんがくれたアルバム……丁寧に包装されたそれを胸に抱き、しばらくその想いに浸っていた。
ゆきさんもまた、大事そうに私の冊子を持っている。
「まだ見ちゃダメだからね。家に帰ったらじっくり鑑賞して」
「恥ずかしいからね」と、ゆきさんは付け足すように言った。
何だか、照れ笑いするゆきさんが可愛くて。
「はーい!!」
私は、笑顔で返事するのであった。
羊みたいにもふもふとした生地のパジャマに着替え、すっかりリラックスモードの私。
寝る前の時間の楽しみ……
ゆきさんのアルバムを眺める事。
ベッドに腰掛け、そっとアルバムを開く。
瞬間、カモミールの安心感ある匂いがするのは……
私は、思わず頬を緩ませた。
ゆきさんの想いが精一杯凝縮されたアルバム……
まるで、ゆきさんの心の中を覗くようなその行為に、私はそれだけでもドキドキした。
一枚目……木の葉に差し掛かる西日の写真。
緑色の木の葉が、西日によってオレンジ色にきらめいている。
一枚目から目に入る綺麗な写真は、私の心を癒してくれた。
そうだ、これから嫌な事があったり、寝る前には一日の疲れを癒すように……この写真を眺めよう。
雪の結晶の写真もちゃんとあった。
見事な対照形……六角形がたくさんある、王者のような星型の雪の結晶……
珍しい雪の結晶もたくさんあって、私はただ圧巻されるばかりであった。
雨に濡れた露草の写真……木の枝には、ピンクのお守りが下げられている。
一切のブレがない、まるでそのままの景色を目の当たりにしているような……そんな色鮮やかさがあった。
そして、私が一番好きな……夕陽の写真。
夕陽なんて、一番平凡で、何処でも見れる景色だけど、それがまた私は好きなのであった。
何処にでもある、何気ない日常の中の素晴らしい景色を一望する……
そんな幸せな事があるのに、それを見過ごしてしまうのは勿体ないと思う。
私は、学校帰りに必ず空を見上げ、そして夕陽を鑑賞する。
夕陽は、疲れた私の心に、「今日も一日お疲れ様」と、そっと声をかけてくれる。
夕陽と心が会話して、一時の間、私もまた夕陽になる……
その瞬間がとてつもなく幸せで……いつの間にか、人は綺麗な顔になるんだ。
ゆきさんの夕陽もまた、私に語りかけてくれた。
私は、アルバムを閉じると布団に潜った。
そうだ。
何だか……ゆきさんの心を覗いたと言うより、自分の心の中を覗いたような気がした。
珍しい写真もいくつかあったのに、何故だか自分の歩いてきた道を見たような……
そんな、不思議な気持ちだった。
「わぁ」
私は、思わず声を上げた。
「きれーい」
手を伸ばしたら掴めそうで掴めない……永久の美しさを放つ星たち。
数々の星の光のお陰で、深い夜もいくらか明るみを帯びていた。
ゆきさんに「とっておきの場所」と案内され、連れて来られた広い草原。
夜空を見上げても、視界の邪魔になるものは一切ない、絶好の天体観察スポットらしい。
私達の背後では、ゆるやかな川のせせらぎが聴こえる。
隣で寝そべる、ゆきさんから吐かれる白い息……
そして私もまた、息を吐く度に、寒気の夜空に白い息が浮かぶのであった。
「冬は、一段と星が綺麗に見えると言うね」
ゆきさんは言った。
「どうして?」
私は尋ねる。
「寒さのお陰だね」
ゆきさんは低めの声で笑い、言う。
「ほら、寒い時は、空気が澄んでいると思わない?」
小さく、白い息を漏らすゆきさん。
私も同じように、白い息を吐いてみる。
真っ暗な夜空に、一瞬、白い息が停滞し、しばらくして、それは空気と一体化した。
「確かに。朝とか、寒すぎて何も考えられないけど、空気が新鮮かもしれない」
「うん」
「あれ」
私は、ある一つの星座を指差し、言った。
「オリオン座。あれは知ってる。有名だから」
明るい星が多い為に見つけやすい星座。
左腕を上げ、棒のようなものをもち構えている。
右腕から布を垂らす、勇者の姿が目に浮かぶ……。
腹の辺り、真ん中に三点の星が並んでいるのが特徴的である。
「彼は、冬の代名詞と言っていい程だね」
二人で、しばらくオリオン座を鑑賞していた。
ゆきさんは、三脚を立て、カメラをセットした。
オリオン座をカメラに収めたいと必死だった。
私は、ゆきさんが写真を撮る様子を初めて見た。
今まで、写真の話を聞かされる事は多々あっても、実際に撮っている姿を見るのは初めて……。
レンズを覗く彼の横顔は真剣そのもので……私は、そんな彼に恋をしていた。
彼となら、何時間だって一緒に入れる気がするわ。
同じ夕陽を、同じ青空を、同じ星座をずっと見続けて、何が面白いの?
そんな風に言う人がいたとしても、私にとっては凄く楽しくて特別で。
飽きないの。
ゆきさんも言ってた。
空は、ずっと同じなんて事はない。
一瞬一瞬、小さな変化を遂げ続け……ほんの数秒、目を逸しているうちに、雲は元の場所とは違う、移動していて、大きさも変わっていたりで。
だからこそ、面白いの。
何時間だって、ずっとずっと……雲の流れを、二人で追い続けるわ。
「雨音さん、小説、読んだよ」
「ど、どうでした……?」
私は、緊張気味で尋ねる。
よかった、と言われる自信はないけど、ゆきさんは優しい人だから……傷つくような事は言わない安心感もあった。
「よかったよ。僕、雨音さんの世界観が好き」
「世界観……」
嬉しかった。
凄く……。
書いていてよかったと、初めて思えた。
最初に感想を言ってくれたのがゆきさん。
最初に小説を見せたのが、ゆきさんで本当によかった……。
「ありがとう。雨音さんの小説を読むことができて、本当に嬉しいよ」
「私も……!! ありがとうございます!!」
私は、身を乗り出して言った。
「え?」
小首を傾げるゆきさんに、私は言った。
「空、流れる雲……星座……天体って、凄く興味深くて面白いです!! ゆきさんに出会わなかったら、こんな気持ちになれませんでした。ゆきさんに出会えて、天体に出会えて本当によかった」
「私も、ゆきさんの世界観が……すごく、すごく好きです!!」
あ……。
自分の犯した、気恥ずかしい失態に気付く。
興奮して身を乗り出したあまり、ゆきさんの膝上に、自身の両手をついていたなんて。
ゆきさんは少し驚いているように見えたが、気にしていないよ、と相変わらずの微笑みを向けた。
私は、何故だかその微笑みが切なくて。
「キスは……してくれないんですか」
彼の瞳を見つめたら思わず……
私って、馬鹿だ。
止められなかった感情……
言葉が口から抜けて、気付くと、体温が上昇を始める。
「え?」
当たり前の反応。
確かめるように尋ねるゆきさん。
後戻りする事は出来た。
「何でもない」って言えばいい。
だけど、それをしようとしない私は……
「キス……して欲しいです」
私には、これが精一杯だった。
まだまだ聞こえづらい、小さな声で私は言った。
頬が熱くなるのを感じ、私は自分の赤い頬を想像しては、さらに顔を伏せたくなった。
けれど、ゆきさんは私の顔を自分に向けて……
そっと、その綺麗な顔をこちらに近付けて……
寸前で微笑んで、それから目を閉じた。
私もまた、同じように目を閉じて……
彼が口を離すと、薄い唇……冷たい感触が微かに残った。
私達は、しばらく見つめ合う。
二人、誰もいない公園のベンチで……
「ゆきさんっ!!」
勢い良く、彼に飛びつくと、彼は私を受け止めてくれる。
その華奢な両腕で、一生懸命……優しく、私を抱いてくれる。
「ゆき……さん」
何度も、私は彼の名を呼ぶ。
大好き。
ずっと一緒……だよね?
3月の初め。
雪が溶けかけた頃だった。
彼は、私の問いに答えてはくれなかった。
どうして……??
ねぇ、どうして……??
何度も訪ねた、でも、彼はその問に関しては一切の口を開こうとしない。
雪が溶けるように、彼もまた……
ゆきさんの足が……少しずつ、透明になってゆく。
消滅してゆく足……この世界から消えてしまう足……
もう、ここには存在しない足……
「どうして何も……答えてくれないの??」
ねぇっ……!!
ゆきさんが……私の中に……今、私と一つになった。
私の中に溶けて……そして、いなくなった。
彼は、消滅した。
この世界から……
こんな事ってあるのだろうか。
快晴の中、雲ひとつない、澄み切った空の中……
白い綿が次々と降ってくるのは……
「ゆきさん……」
バタリ
私は、降り積もった白い綿の上に寝転んで。
鞄からアルバムを取り出すと、アルバムが背景と一体化していく……
数々の写真は、空気になってゆく……
「消えないで……」
一雫、私の瞳から溢れる。
次々に溢れる涙は、すぅっと雪に染み込んでゆく……
あぁ、私も雪になりたいな。
雪は悲しい……
冬の間だけ生きて、春になると消えてゆく……
アルバムが完全消滅した。
と、同時に、コツン、と額に降ってきた何か……
しおり……
カモミールの花が閉じられた栞である。
そうか。
それでアルバムを開く度に……
ゆきさんは完全消滅しなかった。
最後にこの世界に、一つの形式を残してくれた。
私は、栞を胸に抱き、それから、わんわん泣いた。
しーんと静かな寒空の下に、私の泣き声だけが響いていた。
気付いたんだ。
やっと……
自分は愚かだと、気付かされた。
彼が実在する人間でない事に。
そして、それは自分の世界に入りすぎた私の結末……
私の中の想像が形になった奇跡……
そう、私の想いが強すぎる余り、実在するはずのない人物がこの世界に誕生してしまった。
それも、「ゆき」という名前で、雪の降る、短い間だけという設定上での事。
彼はその設定に従い、マニュアル通りの道を進んだ。
雪が溶けたら……彼はいなくならなければいけない。
彼は、初めから知っていた。
自分は、“作らされた”人間であり、いつかは必ず消滅しなければいけない事を……
分かっていながらも、それならばと……彼は、短い期間で、必死に私に愛を与えてくれた。
“カフェでの出来事”は偶然じゃない。
そうよ。
今思えば、ちょっと出来過ぎてるんじゃないかって……
初めから、用意されたシナリオ……
彼がマニュアル通り、どんな手を使ってでも、私と出会う為の……
全てを理解し、全ての出来事……パズルのピースが繋がった今、何故だかおかしくなって……笑うしかなかった。
「ゆきさんは騙した訳じゃないよ」って……自分に言い聞かせて。
ゆきさんは、そんな事するような人じゃないって……
だって、私が創り出した“ゆきさん”なんだもの……。
悲しくならないで……
滲む涙を堪え、首を振り……脇目も振らず、私は進む。
何処へ行く??
また次の、私の理想とする道へ……
分かったんだ。
私が、いつも独りになる理由……
こうして、私はいつも自分から一人になっていたんだね。
それでも、信念を貫き、我が道を進み続ける……
その先にまた、このような……悲しいお別れが待っていたとしても……。
白い綿がふわり、ふわり。
上空から降り積もる。
止むことを知らない。
そして、汚れを知らないそれは、見る者の目に、どう映るのだろうか。
幸せな雪。
冷たいはずなのに、何故だか温かい。
それは、愛する人がいるから?
愛する人の、温もりがあるから?
だから、ねぇ
雪は綺麗に映るの?
雪は、確かに綺麗よ。
でも、私にとっては、それが……
切なくて、だけどほんのちょっとだけ……温かい、そう思える日が来るといいな。
クリスマスに公開できるようにと、クリスマスに向けて創作した作品です。
私の中で、クリスマス=温かくて幸せなイメージが強いので、敢えて失恋系になってしまいましたが……
今まで、ずっと明るい感じの小説ばかり書いてきたので、次の恋愛は切ない感じにしたいという衝動に駆られ……(笑)
どの季節に読んでも冬を感じられるような、寒さや冬の感じを作品中に盛り込んだので、冬を存分に味わえる作品だと思います。
冬が好きな人には読んで欲しいですね。
嫌いな人には……思いっきり暖かい部屋で読んでいただきたいと^^
ではでは、皆さんメリークリスマス!
クリスマスが終わっても、これを読む度にクリスマス気分になれるよう。
皆さんが幸せなクリスマスを過ごせますように。
沙織。