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ピーチと連れ立って歩くうち、さりげない引っかけを彼女が仕掛けていたのだと、うっすら感じてしまった。明らかに“暇潰し”として『重力解放装置』に興味惹かれた彼女は、ひとまず自分一人での探索行に乗り出した。ところが茹だるような外気に毒された途端、すでに嫌気が差していたに違いない。偶然裏手にふらふらと出ていったら、この僕がいた。
ピーチは「無害な奴」である。僕が一緒に探そうかと申し出なくても一人でやってのけただろう。前向きな考え方をすると、ピーチは僕の事を「無害な奴」に近いものと日々思っているのか。断言はできぬものの、ピーチはその性格から人をあまり近づけない。彼女の言う「優しくない人」に当てはまるのが、それであろう。つまり周囲の大部分が「優しくない人達」で構成されている以上、彼女と交流する人間は極端に少ない。それは僕の言う「カタルシス人間」に囲われる交流状況と同一であるし、ピーチの気持ちは察しがつく。
ときたま話すピーチの言外からは周囲の人間にわがままとみなされている嫌いが読まれるが、額面通りに「カタルシス人間」どもの言葉を信用してはいけない。奴らは、自分らの都合に合わせぬ、一個人としてありたいとさりげなく思惑する「無害な奴ら」を指差しては「付き合いが悪い」「足並みを揃えようとしない」「みんな我慢しているんだから」などと括り、当然「わがまま」はその発露状態における女性名詞的な兆しであるのだ。ここで混同してはならないことに、よしんば「無害な奴ら」が集団行動をとったとしても、このような悪罵は現れてこないということなのだ。なぜなら「無害な奴ら」は集団内において、あからさまな発言を慎む傾向がある。ほとんどの“集団”として括られるものは相当にくだらないものか、自身の所属するものであっても自身の意欲とはかけ離れた質のものであることが常であるから、発言の恐怖、発言への億劫を超えた上でさらに意見しようなどと思わないのだ。
発言したところで「カタルシス人間」の思惑に「無害な人」の心的作用は良い方向に向かわないし、“集団”が頭の悪い方向に進んでいったとしても、まったくもって興味のない事である。一方、そういった「カタルシス」思考の行き着く先には、大体「無害な奴ら」からすれば、迷惑甚だしい出来事が予定されるものであるが、脱出に所々の懸念がつきまとう集団内においては、それらを受難として甘んじなければならなくなるので、回避しようとする試みは必要になってくる。
ピーチはそれらの事が我慢ならず、一人を好むのだ。孤独を好むのとは多少の相違がある。「わがまま」ではなく「カタルシス人間」がそう受け取るのは、ピーチが周囲と合わせないためによる。「わがまま」と見られている属性は、ピーチの探しているものに他ならない。つまり、同じスタイルを持つ人間である。
「無害な奴ら」はたとえ軽蔑すべき人間に対しても、優しさがちらつく事がある。他人を嫌悪する事が人づきあいの基本となっているが、「カタルシス人間」に対してでも、その嫌悪に思う心が申し訳なくなってしまう不安定な優しさのチラツキを持つのだ。毎日ではないが、思わない日もないように思える。これらはやがて、自身の好む空想の世界を毒していく。「思考の暴走」の形をとり、前々から降り積もっていた“自分嫌い”がある限度を超えた時に二つは結びついて、いっそう現実の“空想的な事物”を求める事となる。
「そうか」と僕はふと思い至った。“重力を解放する”意味が僕には有ったのだ、と。
ピーチも同一の思いからなのか、僕は「無害な人」として確かめる訳にはいかないが、彼女も案外それとなく自分の心に気付いているのかもしれないなあ。
「ここを左に曲がる」
カンカンに照る太陽を虹色傘で和らげながら、先行くピーチは斑猫の役を買ってでた。
実は心が擦り切れそうな事など、おくびにも表情にしないピーチが道の向こうを指し示した時、袖口から脇の下がチラリと覗いた。
二人は虹色傘が告げる神託に従って、『重力解放装置』探索行を再出発させた。開いた傘を肩に掛けたピーチによれば、公園で会う前はこうして傘を差しながら街を歩いていたらしい。傘をまるで受信用のアンテナとして女性の声色が届くものらしく、それに言われるがまま散策したが発見はなく、そろそろ飽きてきたおりから裏公園に辿り着いたものらしい。ピーチは傘にあだ名をつけた。即ち「韜晦天使」か「生臭坊主」。スカして言うなら「ミスティフィカシオン」だそうだ。
「女の身体って、汚い」
ピーチは言った。僕らの向かう先は見当もつかなかったが、街の北東に進んでいる事だけはいえた。目的地が見えるまで単に歩くだけしかなさそうだが、彼女の女性性に僕自身が耐えられるだろうか。
沈黙から気まずさを感じるのではない。沈黙に耐えられない人というのはいるが、むしり僕らは沈黙が性に合っている。ピーチが話しかけてくるのは単純にスタイルに近い人間とお喋りしたいからだ。そういった人とのオシャベリは「カタルシス」の内容にならない限りは楽しいものだ。
道は小道から派生して段々と車道に適さない路地裏となっていく。周りは住宅で占められ、自転車を駆る子供や主婦と忙しくすれ違うが、私道のような細さのため、自転車が二台並列すれば歩行者は塀にくっつかないと少々きつい。
二人はそうやって、また新しい刺客を遣り過ごした。小学生の三人がこちらの顔を、本人は気づいていないだろうとうぬぼれつつニヤニヤと見遣り、通り過ぎていった。僕自身も小学生の頃、得意になって大人をからかおうとした覚えが正直言ってない事はないが、あのニヤニヤ顔は僕の劣等感に火油を注いでいった。
視界に大好きな光景が現れてきたので、なんだか僕はピーチのいる心疲れを少しばかり下ろせた気がした。ピーチ、ごめん。
踏んで、切る、と書いて“踏切”が私道の一つかのように住宅地に現れる様は奇異な趣を匂わしてならない。一車線で敷かれている線路は、通過する鉄塊の速度を考慮外にしているような細さと狭さであり、朝早くから夜遅くまで、始発から終電まで、付近の住人は開閉する頼りない電子音とけたたましい重工の騒ぎに見舞われているのだろう。上り下りともに歪曲する路線が閑静な、というより寂れた住宅地に通され、誰もが何気なく交通として利用している。利用せざるを得ない。
だが、いくら小規模の踏切とはいってもある種の錯覚を覚えるものであり、このうらびれた門にもそれは当てはまる。視界に踏切というやつが認められた時、僕はきまって“映った”ではなく“飛び込んできた”と表現する。迷路めいた苔むす塀の角を曲がって目に飛び込んでくるこの門は、住宅地の内にあるのであれば、日本どこでも共通の魔力を内在していると言っていいのではないか。どんなに小さかろうとそれを目にした瞬間から、ハッとさせられるような一種のシャックリを催させてならない。
意外な事に、先を歩くピーチまでが立ち止まっていた。僕を振り向いたわけでもなく、物思いにふけるべくもない。
僕は声を掛けようとしたが、なんとなく憚られた。踏切の魔力、と呼べるものを彼女が感じているとは言い切れない。僕以外の誰かがそういった幻想を抱いているところをはっきり目にした事がなかったから、大事をとって彼女の“あやふやな空気”を見守るに留めた。
すると、ピーチは虹傘を頭上で大きく旋回させ始めた。両手で届く限りにまで拡大した円の様は、機上の人にサインを送っているふうに見えた。しばらくすると、止んだ。
「なんか調子悪くなった」
傘の張りをコツコツとノックしてピーチは言った。
「ノイズはよく入っていたんだけど、なんか急に砂嵐がひどくなった」
傘を持った事のない自身にはなんとも言えぬが、ピーチのその姿には見覚えがある。テレビやラジオをチューニングする時にアンテナを取り上げて音の質を確かめる動作だ。グワングワン、ピーピー、きっとピーチの耳にはノイズが聞こえているのだろう。
「あ、ちょっと聞こえてきた」
眉根を八の字にピーチ。
「ナニコレ、何言ってんだか」
…………
(乱受信が入り込んでくる)
ピカッと光れば ドンときて まるで人形兵隊稼業
地球が丸いと言わしめて 人間焚火 逆ジャン・ボダン
君がおいしいねって言ったから 今日は白鳥の湖を呪いで真っ黒にしよう
幼き日のフランソワ 自転車に魅入られた男 はて何かしら
(別の乱れが加わる……)
無理な前向き姿勢を精一杯保つ婦人は、今日も今日とて徘徊老人の後を追う。ニコニコ笑顔を湛える、そんな彼女は無償の愛に満たされながら、自分の家がどこなのかひたすらに街中を歩き続ける老人に毒々しい“光的希望”を見出そうとする。
一歩外に踏み出すと、或いは家に居ながら自身の“本当の家”を探している様は哀れである。今日とて朝早くから徘徊という名の運動をまたもや繰り返していた廃潰老女と素晴らしい婦人は、いつの間にやら不思議な場所へと迷い込み、そこは自身の街ではあったが異風景の場であった。
吹き荒ぶ風に二人抱き合いながら、といっても婦人が一方的に老女を捕まえていただけであり、老女はというと相変わらずの寝ぼけまなこな“本気の勘違い”顔をして、呆けて辺りを見回しているばかりであった。素晴らしい婦人は介護愛に取り憑かれて、この排泄物を垂れ流す老人をなおも守ろうとするのだった。
そのかいあってか、事態は好転する。老女はやがて迷宮と化した街中で“神剣”を発見するに至る。魔羅を崇める他人もおらず、誰も居ぬ霧の街において、老女は“本当の家”を探して相も変わらずの徘徊症に憑かれたままで“神剣”を振り回す。その後を婦人が追う。
老女は呆け顔で行く手を遮る“顔見知りらしい女”を、まったくもって愚かな苛立ちによって一刀両断。“今までどうやら敵ではなかったらしい”と朧にしていた婦人を斬った婆の面魂は、まっこと自らは被害者と言わんばかりの恐れ顔であった。婦人、温かく見守っていたのにとうとう切られてしまった。
食事も風呂も便所も着替えも徘徊も苦言せずの婦人は“老害の苛立ち”のため、バッサリと斬られてしまいました。介護愛の敗北、義母の人道にもとる裏切りに素晴らしき婦人の目は見開かれました。人の素晴らしき事、光的な事、喜び合う人の面しか映してこなかった美しい婦人の目は腐るわけでもなく、永久永遠に放置されてしまうのでした。
一方、徘徊婆はどうなったか。何の事はない、これもまた永久永遠に徘徊していくのだった。逡巡とした鬼女面で心苛らるに任せ、“神剣”を片手に引っさげて、徘潰老女は地獄をさ迷うのであった。
世界に希望あれ。世界中で一番の恋をしよう。
(ここで受信正常に戻る 彼の女……)
成りませぬ。成りませぬ。成りませぬよ、大泉踏切に近づいてはなりませぬよ、今のところは。あなた方二人にはまだ早過ぎます。五歳児に一人前の大盛りを食べさせるのと一緒ですのよ。気をつけて。
あなた方は今すぐ引き返さなければなりません。この場所にはとても強い魔力が漂っていますから、対処のできる仲間を見つけるのが先決、先見の明でありますわ。残り二人を揃えてから、この電動呪術門に挑むべきなのです。
さすれば件んの『重力解放装置』の許に行けるのです。質問はどうかしないで。愚問でありますから。
女の方はだいぶ傘を扱えるようになったようですね。これからあなた方に波を送りますから、指示された場所を目指すのです。無理に踏切を超えようなどと考えないことですわ。『装置』は逃げませんから……。二人の力不足を残る二人によって補って下さいね。
一人は探知役、一人はあなた方で適当にこじつけて下さい、頼り過ぎてはなりません。
二人は何処に居るのかと尋ねられたなら、あなた方は訪ねなさい、と応えますわ。即ち、“草馬高校”の二女をね。合言葉は「秘密」。何をどうしても自然とその人だと分かりますから……。
それでは、ごきげんよう。夕闇の街灯をなるだけ避けなさい。