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5 三人目の女 ピーチ

 翌日、僕は件んの“重力解放装置”探索行につく事を決め、早速仕度を済ませると、利用者のいない五十階エレベーターに乗り込んだ。目指すは一階、長い旅になりそうだ。

 僕はそれまでの間、携帯用音楽機器を楽しむ事にして目をつぶった。曲が流れる。

 ――この曲は『鳥になって自由にはばたきたい』と歌う。僕はこの正直な叫びが好きである。日頃「無害な奴ら」が心奥に隠して、決して口には出さない素直で優しい願いがこの歌では表されている。何よりも強い純粋な願いがいつかは叶うことを信じ、夢幻ともつかぬ幻想を追いかける。しかし、誰にでも心に触れる時があることを、思い出のなか大事にしていきたいけど、それがもうすでに手の届かぬ現実の社会にかき消されているのではないか。言葉もなく行き交う人の群れにのまれて、自分らしさも、人としての温もりも、競争社会に踏み散らされていく。

 しかし、この曲は自由な鳥に変じ、消えかけた夢を再び掴み取るため、終わらない日常という曇り空へともう一度挑もうと歌うのだ。

 雲を突き抜け、青空に輝く太陽のもと、何者にも邪魔されず自由に飛行する一羽の白い鳥の様と、僕の幻想が大空の彼方に行く様はきっと同じに違いない。いや、せめてこの素晴らしい歌を聴かせてもらっている時だけは、汚れた自身を捨て、この白い鳥に連れられ、限りなく宇宙に近い天空を、一羽の鳥として飛んでみたいのだ。

 地上から遥か高みを見上げる人の瞳を閉じさせて鳥に変じ、未来に待ち受ける膨大な時間に向かって、降り注ぐ太陽のように眩しい飛翔を夢見させてくれるこの音楽の表現はとても清々しいのだ。僕はこの作曲者が好きだ。

 ほとんどの人間は物語を忘れてゆく。それは伝説や創作作品に関する職業以外の人を指すのではない。自身が大事に思う物語を打算なしに信じることはとても難しい。ただ好きだからではなく、自身が生きていくための道標、自分らしさを「無害の内に」心掛けていることこそが必要ではなかろうか。

 歌詞に聴き入る僕を乗せてエレベーターは落下していくような態で階下へと向かう。これは地上五十階、二十五階、一階のみに停止する高速エレベーターで、二十五階の住人はこのまま高速を利用すればいいが、三十五階の住人はいったん高速で二十五階に行き着いたら、一般エレベーターに乗り換えて三十五階に行くのだ。

 落ちて、落ちて、世俗に汚れて重くなった僕を数々の天使が引っ張りあげようとしている。肌に油漬けのオブラートを貼り付けたような感覚が肩や背に塗られている。それは、このエレベーターの下降が及ぼす極めて天使的な徳性なのは気のせいで、本当のところ、重力の仕業なのであった。

 あまりの速度に、このまま一階を突き抜けてカバラ学者の言うグノームとともに地獄巡りをしてしまうのではないかしらんなどと、たわけた空想に身を震わせながらも、エレベーターはかくして地表に到着したのであった。オルペウス。

 電気扉が開いた。僕は流れ込んでくる匂いを胸に溜め込んで吟味する。なるほど、よく分からない。建物に閉じ込もって、なかなかに逃げ散らない煙草の残り香が甘く、サラリーマンの背広姿や銀行の待合室や郵便局内を想起させるが、この匂いはどこから訪れるのか、地表一階には住居ではなくて各種商店が立ち並んでいるので、きっとそこからに違いなかった。音楽を止めて一歩を踏み出す。まずは腹ごしらえしようか。

 周囲は各店の郵便受け、出入り口の大きなガラス張り自動ドア、その向こうに続く回廊だった。あまり、この出入り口を通過する住人を見たことがなかったが、これはどうでも良い事に過ぎぬ。僕は姉の豊かな黒髪を指に絡ませつつ、回廊に進む。冷房の効いた白灰色の四方をくぐり抜けているが、すれ違う人は皆無である。時刻を正午少し過ぎて休日になると、ここはちょっとしたお洒落な店が顔を揃えているのでたくさんの人間が足を運ぶが、今日は平日なのであり、やはり商店回廊は活気に乏しく、僕には有難いことであった。

 そんな中、僕は二台の自販機の前にいつもそうするが如く足を止めた。小腹が空いたら、ここによく来るのだ。というより腹が悲鳴を上げたところで、胃に詰め込むと下してしまうから、少量の、しかも自身の口に合うものだけを選定するように心掛けねばならない。全くもって人間とは不便不都合なり。

 右の自販機には「ワンタッチシリーズ」と称して、いくつかのインスタント食品がある。「本格インドカレ」「茶柱ピラフ炒め」「フライドポテトどんぶり」「水銀の心・ザ・錬金術師レトルト」「カツカレ・少量」。各三百円なり。

 左の自販機というと、こちらは飲み物を扱っている。「ミルク珈琲」「ボルケイノクリーム」「水銀茶」「?」「筆舌し難い」「レシチンコーヒー改」「ガソリン風ウーロン茶」「ウーロン茶風ガソリン・ハイオク」。各百二十円なり。

 いつものように「カツカレ・少量」を食べるべくスイッチを押すと、「ニャー」という猫声が雑な電子音混じりに聞こえてくる。ウィンドウに展示されている通り、正方形の紙パックに鎧われた掌サイズのインスタントが無機質の温かさと甘い匂いを発して、僕の手に収まった。飲み物は「ミルク珈琲」にした。スイッチ音は「コホコホ」という愛妻と愛娘を捨てて畜生道に堕ちた老人の咳き込み音だった。飼っているらしいペットの鈴の音も一緒に聞こえた。

 自販機脇にある白の小テーブルで早速食することにした。企業という名の、身近でいて、その実全く僕の事なんか気に掛けていない、どこの誰かも分からない人が作ってくれた物を口にするということは、よくよく考えれば不気味なことに思えてならない。僕の好みとは遠からずも決して重ならない味は、「一部の」万人に合うように調合されていて、買う人によっては全く口に合わなかったりする。その人は自分の好みでない、誰が作ったかも分からない、かといって特定の人物に向けられたものでもない食事を口にして、次は別の食品を食べようと思う。万人に向けられているのに、誰もはっきりと指名されるわけでもなく、見知らぬ誰かが作り続けていく。その見知らぬ作り手は様々な事柄を思い浮かべながら、自身の指で、または機械を操る。案外僕が口にしているものは、「食っている奴は女だな」なんていう作り手の妄想とも独白ともつかぬ他愛のない自動書記的な思惑の成れの果てかもしれないね。

 カレーは食っても食っても、どこまでも温かく、ミルク珈琲は冷たく、ほどなくして僕の胃を不快に満たして終わった。さっきから誰も通らないし、店先は無人であり活気もなく、うらびれた地下鉄街を思わせて不思議だった。ある二人の少女が、霧深い地元の町を探検中に異界へ紛れ込んでしまう物語があった。ちょうどこの商店回廊は物語中の狂気を感じさせ、威圧するように無音であった。誰も人は通らなかった。

 「よっこらせ」と根の生えそうな腰を上げて、回廊を抜けることにした。奥には別の出入り口があり、マンション裏手の公園に続いている。そこで暫時休憩だな。

 両側の店々は静まりかえっている。時々ガラス戸越しに覗くも店員は居なかったり、居たとしても奇妙な振る舞いをしている。本屋は「禁書」と筆でいかめしく書かれた大段幕を広げ、一冊ずつ火刑に処しているし、服屋はマネキンでおままごとをしているし、飯屋は店内のあらゆる物を天ぷら揚げにしていて、今は椅子をまるごと揚げようとして失敗し、鍋の油が引っくり返ってしまった。火が吹き出して黒煙に包まれていったが、その黒煙は隣家の古道具屋の店先に飾られていた金メッキのランプに吸い込まれていき、やがてランプの精が不完全な半身を注ぎ口から出そうとしたが、それは僕が許さず、近くにあった銀色バットで破壊した。飯屋は火の海となって、僕は走り抜けた。

 背後の騒音をやり過ごし、開けた公園が現れた。夏の射貫くような日光が目を刺して、むずむずさせる。見渡してみると、毎度ひと気に乏しい裏公園は子供数人だけのようであった。真っ白い囲い塀には汚れ一つなく、陽光を反射して目に痛い。それを柔らげるためか、青々しい草木が囲いに沿って植わっているが、みな一様に頭を刈られて真っ平らになっている。緑色したブロック塀のようでもある。

 頻々に訪れるというわけではないが、僕は一応指定席を決めていて、まずはその石ベンチに腰かけた。頭上を覆う藤の木は添え木に絡み合い、なんとも贅沢な日除けを構成していたので、夏の直下にある石ベンチといえどもたやすく座れた。シュルレアリスムに登場するような、緩やかな波を描く背もたれに寄りかかり、公園を見つめていた。

 暑苦しい云々に左右されず、年中空隙だらけの公園はまるで美術庭園であった。ほぼ白一色に偏ったそれぞれの遊具は、ブランコやシーソーといった定番のものはなく、大人でも使い方に難渋するような形のものばかりであった。例えば美術庭園のような、と前置きした説明が誰かに話す時はぴったりとくるのではないだろうか。布団に潜り込んで登校拒否しているような丸まった石の物体やら、地面から斜めに鋭く突起した大きな爪楊枝のような柱の先端に、十字形の何かが突き刺さっているもの、それはモズのはやにえに似てなくはないが、奇妙なオブジェが九点設置されている。

 そして、砂もベンチも全て白に塗り潰されていて視界を歪めようとする。陽光を強烈に収斂させる一つのレンズのように、この裏公園はある。

 子供らは砂場で静かに遊んでいる。計三人であるが、皆が知り合いであるかといえば、どことなく疑わしいものであった。砂上の楼閣を共作するでもなく、山をくり抜いてトンネルを開通させるでもなく、三人めいめいの思惑を夢想しているように見える。

 うち一人の少女は白い砂を掌からこぼして遊んでいる。掴んではこぼし掴んでは……を繰り返す所作は僕にどうということもなく、だが暗示的に映るのだった。こぼれ落ちる砂は遥か彼方、魔王の城に秘められた時間の滝を思わせて、それを円環させる少女は有限的に永遠性を繰り返したがる、刻の作用しない運命の女神のようで、数の概念の歯が立たないどころか、牙を抜き取られて傍観するままに、幾度も幾度も魔王の城を壊し、時間の滝を涸らし、世界を回転させる。ただ彼女の目にはその白い砂というやつは、貝殻をあまたに細かくしただけのロマンティックな砂浜に感じられていたのだろうか。

 この公園は現実の奥底にある無限の空想広場、シュルレアリスムの砂漠なのだ。囲い塀は死を表している。宇宙さえも遮断する絶対の壁、即ち思考の死なのだ。園内の空間は宇宙を表し、そこに尽き絶える有限はない。滅しては建築される有限の無限であり、囲い塀とは決して接触しない永遠の夢である。人間の象徴、俗世界、つまるところ物質を表すのがオブジェの数々なのだ。人間をして理解できる世界、宇宙の始まり、幕開けであり、園内において最も根底の意を保つ。儚い人間世界の憧れや夢、欲求に渇望が描かれるが、ここに野望や夢の終わりや挫折なる言葉はない。人々はただ空を仰いで、空を思えば良いのだ。限りない夢想に手を伸ばし続け、その事だけを考えていれば良いのだ。オブジェはこの事を表す。

 そして周りに転がる砂粒は文字を表す。文字ゆえに人は夢見、文字ゆえに人は渇望してならぬ。父親殺しであり母親殺しである。重力であり引力である。姉であり弟である。矛であり盾である。

 子供たちは彼らの世界で遊び続ければいいのだ。大人が懐かしがるメランコリックな思いは相応しくないのだ、きっと。

 不意に、僕の隣に誰かが腰かけた。すっとした動作であったが快活なのではなくて、疲れたような態であった。

 「くそ暑いねえ、今日も」

 女性の名はピーチ。唯一の女性の知り合いであった。同じマンションのどこかに住む一人暮らしの専門学校生であるらしいが、彼女の口数少ない言葉によれば、学校には音沙汰なしであるらしい。要するにサボリの毎日なのだ。

 「煙草、吸っていい」

 僕はタバコが嫌いだ。しかし、ピーチが吸う分には全く構わなかったので頷いた。

 彼女は長く少しぼさっとした黒髪をうざったそうに掻き上げて、ポケットから煙草ケースを取り出した。悪いね、と呟いて火を点ける。

 「何してたの」

 気持ち良さげに、深呼吸するように一杯煙を吸い込んで、ぷはっと吐きながらピーチは聞いてきた。息とあいまって、タバコの香りが二人を包んだ。甘く炭が焼けたような匂い。

 「食後の休憩です」

 「そう」

 「どっか行くの」

 僕は興味を惹かれて聞いた。彼女は普段化粧には大して凝る方じゃない。だのに、この天気の良い日に傘を持っていたのだ。まして日傘ではあるまいと思ったが、午後には夕立でもあるのかしらん。

 「ああ、これ」

 ピーチは足許に一瞥をくれて、

 「日傘じゃないわよ。なんて言ったらいいのか、まあちょっとしたアイテムね」

 何の、と疑問を口にしようとした直前、先刻の砂場で遊んでいた少女が、まるで友達とケンカするかのような大きな声でこう叫んだ。はたから聞けば、子供同士の支離滅裂な会話だったものに違いない。

 『三人目の女じゃ、三人目の女なり。三つ目の啓示のみ上手に成就されたし』

 声を合図にして、上空より一条の稲妻が全くの無音で僕の脳天を直撃した。瞬時に、先日の『ラジオな天使』が告げた言葉が鮮明に思い出された。そうだ、僕は『重力開放装置』を探しに下界してきたのだ。例のお告げによれば、たしか五人の盟友を適当に見つけろという旨だったから、すると、このピーチがメンバーの一人か。

 何のために探索するのかは自身でもよく分からなかった。なぜなら、「解放」なる意味が把握できないし、成し遂げる気力に乏しいからだ。

 とはいえ、そんな不思議な物があれば見てみたいと思うし、もはや叶わぬ幻想にひょっとすると手が届くやもしれない。重力解放を成せば、思考という論理の壁も現実世界という障壁も崩れ去って、僕もあの光あふれる「永遠の青春の国」に行けるかもしれないな。

 半分の心がどこか行って帰ってきたような、ちょっとした目覚めを感じつつ、僕はもう一度口を開き直した。一秒も過ぎてないだろうか。

 「イベントにでも行くのかい、ピーチは」

 「まさか」

 ピーチは傘を手に取って、虹色をワっと広げてみせた。

 バフっという音は、弾力ある布地が木のクッションによって張られる乾いた音。

 「昨日の昼間さ、あたしあんまり暇だったんで、これ日干ししてたの。そしたら」

 ピーチはまた一服した。ラメの入った薄いピンクの唇に自然と目がいってしまう。僕は良い香りのする人の息が好きだ。アメだとかガムだとか、嗜好品の甘い漂いが言葉だとかに移って、本人の明確な意図をおろさかにしながら、僕の鼻孔に入ってくる。吐く鼻息は当然であるが、吸う鼻息にも微かに匂いが付随してくる。吸い終わった直後に呼吸は止まるが、吐く寸前にはわずかな空白があって、つまりそこで吸う動作から吐く動作に移行するわけだが、息を堰き止めた時、少し鼻から漏れるのだ。生物の緩慢さのために。その本人の自覚しない温もりというのか、それらを伴って僕は吸う息が好きであった。

 男女問わず、自身のスタイルに近づいているだけ好印象を受けるが、むしろ男は少ない。男の呼吸には特有の臭気がある。全員がそうではないが、体調を崩している人間は好ましくない。生物的というか、例えようがないが、とにかく吸い込むと、咳き込んでしまうほどむせる。敢えて言うなら、塩酸の臭気を薄めたものに似ているか。

 女性の場合は幼すぎず若すぎずの中間が心地良く思われる。電車やバスの中、縁もゆかりもなくお互い二度と会わないような他人同士の僕と誰かが一緒に腰かけ、読書やら居眠りやらしている隣人の甘い吐息を吸う僕は、まさに「心地良い他者性」に感じ入っているからなのだ。大人としての自覚や社会的立場、汚らわしくない距離での性的干渉を、僕は彼女の体内から直接出た何やら匂い付けされた呼吸をもって感じ入り、自身の身許証明として確認するのだ。即ち、「僕はここに居ていいんだ」。

 できることなら異性で嗜好品を口にしている方が良く、居眠り気味で肩が触れ合う場所、会話を憚られるような電車内だとか、バスだとか。やはりそういった時間となる。

 けれど、品のない人間や青菜臭い年寄りはこの限りでない。化粧の濃すぎるのも駄目だ。

 ピーチはというと、その点「心地良い他者性」「無害な人」ともに合格であるし、嗜好として煙草もやっている。大人の身分証明を象徴する一つのタバコは、僕の密かな憧れでもある。女性が吸っているところは尚更目を引く。殊に一人でたしなんでいる方がもっと絵になる。

 ピーチはラメの唇から煙とともに言った。

 「……そしたらさ、変な声聞こえてきてさ。この傘、ベランダでやってたんだけど、周りに誰も居るわけないじゃん。マンションいつもすっからかんだし。テレビもステレオも点けていないのに、あたし電話かななんて思ったりしたけど、全然でさ。しばらくすると、また聞こえてきてんの」

 彼女は白黒の横ストライプのシャツに、寝間着とおぼしい黒いスウェットパンツだった。脚部に白いサイドラインが入っているもので、足首の所で長さが余ってたるみきっていた。服地はジリジリと焦がす陽光に熱せられて、肌にヒリヒリするほどひっついているのが想像できるようで、黒を基調とした服装は一心に光を吸い込んでいるようであり、彼女はダブダブのシャツもパタパタさせて胸元を扇ぐ。

 「変だな変だなって思ってたらさ、なんかよく分からないけど、傘から聞こえてんのよ、どうやら。それで、その時傘開きっぱなしだったからさ、気味悪くて閉じたのよ。そしたら声が聞こえなくなって、また開いたらまた音がして、そんであたしさ、開きっぱなしに戻して、よく声を聞いてみようと思ったの。なんかゴミョゴミョ男の声で言ってたからさ……」

 彼女は開いた虹傘を肩に掛けて、僕も一緒に包んだ。傘一本といえどもこうして空間を限定された形になると、いっそうピーチと密接になった気がした。ピーチの熱気が頬を撫ぜた。

 と、彼女はこちらを挑むように見つめて、

 「あたしの話をアップルは信じる」

 控えめに手入れされた両眉は一つだけの返答をねだっているように睨んだ。

 「その騒音はなんと言ったの」

 僕は興味を抱いていた。同一の『ラジオな天使』かしらん。真面目に先を促した。

 「くだらない事よ。ノイズみたいなの。よく分かんないけど、競馬の万馬券を何月何日に買い占めろだとか。単勝とか連勝とかいうの、あたし馬はまるっきり知らないけど、2-3とか7-1とか、番号言った後に日付も指定してきたり……天気のことまで言うのよ」

 「で、そのレース見に行ったの」

 僕は神のお告げだったらこんなに良い事はないと、貧乏根性を押し戻しつつ、さも冷静に富むように注意深く聞いた。自身に『ラジオな天使』が現れなかったら一笑に付しただろうが、正直今も半信半疑ではある。しかし幻聴の類いにしろ、「棚からボタモチ」と昔の人は言ったではないか。

 内心を知ってか知らずか、ピーチは笑って煙を吸い込んだ。焦り焦りとして返答を待つ。

 「昨日の今日よ」

 また笑った。

 「なんなら今度一緒に行ってみる、競馬」

 肩すかしを食らった気分だったが、言われてみればその通りだ。彼女の話はきのうの昼頃のことだ。しかし、その日がまだ訪れていないなら、それに越した事はない。金があり過ぎて困るなんて、庶民とは縁遠い話である。先立つものがなければ何も買えない。心もそうだ。

 ピーチが一攫千金を掴んで大はしゃぎする姿も見たくないわけではない。世俗の流行に割とクールである彼女も飛び跳ねたり、奇声を上げたりするのだろうか。僕はそんなピーチの後ろ姿が見たいと思った。

 煙草を吸い終えると、ピーチはポケットからシガレットケースを取り出した。銀の縁飾りだけの黒い蓋をカチッと開けると吸殻を捨てた。そうやってゴミを持ち帰っていた。次いで別口から一本出すと、暑い日射しの中、一服つけた。

 「競馬の事だけじゃなくてさあ」

 おそらく僕の考えつく限りの方法で梳かした丁寧なストレート髪を首元から手櫛でボサボサにした。けれども、それが極まってみえた。甘い草いきれがむっと僕の顔を打つ。

 「その声、他にも色々あんのよ。どこどこのファーストフードが閉店セールしてるとか、どこかの鉄道が繋がったとか、そんなんばっかりで役に立つ情報ってやつが何にもなくて……。いい加減、傘を畳んじゃおうって思ったよ。でもさ、その時になって男のノイズ声がさ、なんか若い女の人の声に変わったのよ」

 僕はそっと“しめしめ”と胸中でほくそ笑んだ。

 ピーチは続けた。

 「で、その女がさ、やけに音がクリーンなのよ。さっきの男とは毛色が違うみたいで……。それでもあたし戯言に付き合ってらんないからさ、閉じようと思ったんだけど、変に響く声でお宝を探せっていうのよね。別にはっきり宝と言ったんじゃないけど、その女が言うにはあたしんち付近で機械が埋まっているから探せばみつかる、是非みつけてくれっていうのよ」

 「機械って……」

 僕は彼女の言う「機械」が『重力開放装置』だとすぐにピンときた。装置というからには、厳めしい鉄の固まりだと思っていた。僕に接触してきた「天使」は装置の外見についての助言もしなかったし、この事はひどく重きを置かなければいけないだろう。なるほど、これから残る三人を発見するたび大事な断片が集まってくるのか。ピーチは他に何を聞いているだろう。だが、広い街中でたった三人を見つけ出せるのだろうか。少し面倒臭いなあ。『重力解放装置』とは一体何ぞや。

 「装置って、その女言ったんだもん。重力解放なんたらってね。だったら鉄のオブジェじゃないの」

 ピーチはやはり件んの代物を知っていた。正直、僕は迷った。彼女に同様の体験をしたと打ち明けるべきか。知らせたところで害はないように思われた。しかし、あくまで僕とピーチは「無害な関係」であるから、言い換えればお互いの性格や性根というやつを表明していない仲であり、つまるところ僕はピーチを信頼できない。同時に「無害な人」を目指す僕としては立ち入った事情を聞くわけにも、話すわけにもいかず、今の場合深刻な内容ではないのだが、それでも自らの事柄を話すわけにはいかないと思った。

 「それで……その装置を探しに行くわけかい」

 うつむいて僕は素知らぬ態で探りを入れた。何気なく有り体のつもりだったのだが、ピーチは振り向くとあからさまな訝しい眼差しを向けてくる。

 「あたし変な事を話してるのに物分かり良いわね、聞き流してるだけ、ひょっとして」

 澄ました猫の声をするピーチは別段怒ったふうではないが、突き放す言い方にも受け取れた。彼女の目は切れ長であるが、この時ばかりは僕の言葉に注目しているらしく、幼い女の子めいたまん丸な目つきになっていた。からかい半分。

 「なんなら、今からその重力うんぬんを探しに行こうよ。興味あるし……。構わないでしょ」

 とっさに突いて出た言葉を後悔した。女性といるのは苦手だし、一人の方が気が楽だし……。

 「別にいいよ。どうせ暇だし、その前に一服さして」

 彼女は承諾した。僕としてはもっと疑ってかかってもらった方が良かったような気もするが、もしかすると件んの『装置』とやらは各々鍵となる人材が居なければ次のステップに進めないかもしれない、とも思える。これはこれで、ピーチと行動をともにすることは正解かもしれないが、「無害なスタイル」をほぼ確立している彼女と連れ立って歩くことの方が、僕にとって試練になるだろう。緊張する。顔の手入れを入念にしておけば良かった。汗臭くないか。口臭は大丈夫か。格好の良い服装だろうか。髪は整っているか。姿勢がおかしくないか。共通の話題が見つけられるか。気まずくならないか……。

 等々、女性が近くにいる場合、劣等感の荒波がいよいよ高まっていくので、僕はオシャレとしての女、他者としての現実女は好かない。心地良い幻想の中ならば別なのだが……。

 でも、きっと大丈夫。と、姉が僕を抱き寄せて慰めてくれた。

 ありがとう、姉さん。僕も、きっと、開放してみせる。

 永遠のアニマを。

 すぐに。

 世界。

 滅。


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