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地上では、テレビの天気予報士が言うところの茹だる様な気温であるらしいが、僕の空中庭園ではすこぶる適温なのであった。
ベランダに据えた安楽椅子に深く沈み込みながら遠望し、ラジオから流される合唱曲を喰らった。小気味良い。
だが、玄関のインターホンが鳴った事で、僕の安らぎは一変、不安に貶められた。高層であり、それに僕には特別に親しい友人は居ない事もあり、インターホンを鳴らす人物というやつは、何かの勧誘員か、カタルシスな連中のいたずらか、強盗かも知れない。心臓に負担をかけているのに、相手はなおもインターホンを連打するのであるから、体中の汗を吹き出して、僕は気取られぬように、抜き足差し足、覗き穴からドア向こうの相手を探るべく、ラジオを黙らせた。
覗き穴に見覚えのある顔はなかった。
僕は「カタルシスが攻めてきた」と恐怖に凍りつきその場にうずくまってしまって、腰が抜けてしまった。いくら理論武装しようが、カタルシスな暴漢に襲われては何の役にも立たぬ。武装したところで、奴らに捕まって手足を押さえられ、目蓋を開けさせられて針の一本でも差し込まれてしまえば光が消えてしまうし、不具になってしまう。死よりも辛い拷問に勝てるものなんて何もなく、ただ暴力の優位性が証明されてしまうだけだ。愛も友情も、拷問には勝機なし。
などと、見世物小屋の囚人めいた怯え方式の理論武装にいつの間にか引き込まれていると、何故かドアが勝手に開き、何も入ってこないまま再び閉じたのだった。鍵は年中閉めてあり、この時も掛かっていた筈なのに全く我関せずといった風情で開閉したのだった。
「幻想でも見たのかしらん、ヒカゲノカヅラ」と突然目覚めたらしい幻視能力をひとまず喜ぶふりをしていると、「もしもし」と、どこぞから僕に呼び掛けているらしい声が聞こえてくるのであった。それも足許から。
ゴキブリを探すように血眼となって巡らせば、かくて左足の甲に薄青色したものが乗っかっていたのであった。縦十五センチ程の人形らしきものが、両手を振り振り、大きな両目しかない顔をこちらに向け、呼び掛けに反応してほしい態であるようだった。
僕は冷静に思考する事ができず、とりもなおさず左足を跳ね上げ、その水色の小人を壁に蹴りつけた。
「ぎゃあ」と小さく鳴いた小人は瞬く間に、落とした苺の様に潰れ赤い血を迸らせた瞬間、僕を含めた部屋中に、真っ赤な液体が滝の様に流れた。生臭い匂いが充満して吐き気に襲われると、小人の声が鳴り響いた。
『ラジオを点けて、周波数六三四に合わせろ、さすれば全ての事象を天体から解放さる、全きもって神聖な永久装置の在りかを調べられる筈さ。でも、それは嘘。私達はお前を殺したくて、うずうずしているから』
と、甲高い声、ハーモナイザーを通した女の声が響くと、頭上から温かい液体がこぼれてきた。鏡を覗き込むと僕の頭を二つに「カッポリ」と開けて、たくさんの小人らが出てきた。頭の中から次から次へと虹色をした小人が溢れては、みな重力に潰されていく。内臓を甘噛みされている様な胸焼けを覚えて、そして恐怖に取り憑かれながら必死で頭を振った。悪夢を振り払おうとして。
しかし、僕の目耳鼻の孔から小人共は溢れかえり、頭を振る度に小人共が真っ赤な水を吹き散らして、ともに吹き飛ぶのであった。僕は恐怖に泡を吹きながら、
「色即是空」
と絶叫すると、これがまずかったらしく、さらに小人の声は大音響で怒鳴った。
『恥を知れ、痴れ者め、マウスパッドから新たな因果宇宙を生じさせてはならぬよ。授業参観の帰りに母と子が、禁忌となっている運動を見てしまい、二人は因果、つまり(場)という名の極めて形骸化した時の総合結果に飲まれ、一瞬にして数人が爆風に吹き飛ばされるけれども、それは嘘であり、かつ史実であるから、ラジオの周波数七九五に合わされよ。楽しめよ』
と叫んで、小人の声は消えた。同時に居も何事もない、いままで通りに戻ったフリをしていた。真っ赤っ火はなくなった。
僕は日常の太陽光ある生活の下、社会的自給自足を暮らしているのだった。地上に降りたつ時は、どうでもいい筈の食糧を買いに行くぐらいと、中古の何かを物色するぐらいであった。ラジオを捻って、テレビを捻って、無害で無味乾燥な音楽を探すため、オブジェを探すためであった。
僕にとって、食する事は邪悪なようであり、腹一杯食糧を摂取すると、決まって腹が下るのだった。一日中固形物を喰わず、ドリンク剤と音楽を食べて日常から隠遁していた。でも喰わなければ、例えば頭髪が薄くなったりとか、視力が衰えるだとか、不具への恐れが満腹へと駆り立てようとするし、日々三食を目安にすれば、次には肥満の恐れが厭世観、他人嫌いへと誘導していくのだった。食べれば下すし、食べずにいると不具の脅迫が苛む。
一日一食を目安として就寝し、起床すると身体はけだるく欠如の態であったが、ベランダに出て安楽椅子に倒れ込みつつラジオを点けるのであった。腹部が貪欲に食べ物を求めていれば、ドリンク剤を飲んだところで、腹を下すということは起きなかった。
午後4時の陽射しは薄く、柔らかく、ラジオの波を運んでくる。
「午後4時のニュースです。昨夜不正を指摘された事に腹を立て、塾講師を殺害したと自供した男性の云々」
僕は大量安売りされる個人情報を鵜呑みにしつつ、昨日小人に指定された周波数を思い出していたが、どうやら忘れたので、適当に番組を行ったり来たり。
「本日の天気は関東地方では雨の降る恐れがない、カラッとした晴天でしょう。しかし、九州地方、北海道では火の雨が所によって雷を伴って発生するでしょう。木造建築は充分な注意が必要云々」
―回転。
「7―2、単勝7―2が今日の大場レースの、まるで穴場のような狙いがありましたが、まさか云々」
僕は色々とチューニングをしてみたが当の番組には繋がらず、いい加減面倒臭くなったので、クラシック音楽専門番組を流す事にした。
やがて、ギロの「アマリリス」に合わせて、ラジオから合唱が加わるのが聞こえ始めた。ソプラノやテノールとかいった声ではなくて、ラジオそのもののノイズが、毛細血管のように絡み合った隙間だらけの声を作っていたのだった。ラジオの近くで電化製品を点灯したかの様に、リズムを刻んで時々雑音が生じ、そのせいで声が滲むのであった。
ズーズー、ツーツー、チカチカ、コォクンコォクン。
「月の光に照らされ、夏の因果が、ああ、永久運動装置の街の隅に」
すると、少しずつ「アマリリス」が退いていき、しまいには例のごとくノイズと奇妙なジャリジャリという二次元的な声だけになって、そいつは曲に乗るのをやめて、次第に昨日の小人の声へと変じていく振りをした。
『呪われラジオの五劫のすり切れ、海砂利水魚の首洗い、鳥居る母ちゃん泣きべそ半べそ、和菓子刹那に、髪上げ前の庄屋のお嬢さん、行くは逝く末、高層ビルを、テレフォンカードにたくし上げられ、面二つの仲良き兄妹、挙げ句悲恋の非礼の限り、人形エロチィカ砂漠望楼、沙漠の果てには魔王の御城、そこに朽ちおれ喰って候ふ、件の名機眠って候ふ、そは色即是空のメントモリ、結婚部屋の引き継ぎ代行、「場」と「道程」を、即ち、全ての因果糸を解く説く機関に候ふ。心して聞けよ』
僕はしばし、その他愛のない世間話に耳を傾けていた。が、何やら僕を救い出してくれる助言をくれるものらしい。蒼空から訪れるどこぞの放送はやがて、どこから送られてくるかが僕には分かっていた。この放送はこのラジオにだけしか現れない白日夢ではなく、頭上高く舞う電離層の天使のお告げなのだから。姉の洗濯物を取り込まなくちゃ……。