16 人形の林
闇だけが、在った。
何もかも在りはしない極めて平等で、払い奪う事のできない薄絹一枚のみの暗闇しかなかった。
正なのか負なのか、ちっとも窺い知れぬ悪夢の化物は静謐であり、寂寥であり、僕の肉体と同様に落ち着き払っていて、絶対の均衡であった。
憎々しいほどに、闇も僕も、重力の虜に成り果てていた。灯火を掲げようとも、いつかは喰らい尽くす絶対の食欲はもはや光の母たる神意を剥落して、本来の下僕であったところの“重力解放”を放棄してしまった。ついには、闇の中で帰りたがっている僕にすら手を付けず、馬鹿馬鹿しくも神話規模な育児放棄をしでかしたのだ。
少しでも美味しそうな明かりを嗅ぎつければ、有無を言わさず消したがる、喰いたがるくせして、その明かりが失くなった途端また闇を取り戻すものだから、すぐに満足してしまう。まるで機械仕掛けな現代の闇は、重力にしてやられたために神権を奮えなくなった老婆に過ぎなかった。人が仕方なく面倒見てやらねばならぬ、一介の人工装置と成り下がったのだ。
その煽りを喰らった僕は、縁日の風船売りのように見世物と化した件んの重力を背負いしいしい、半身をおこして、何から始めて良いやら、と所在なげにまず見回してみた。
ふと米粒をそうしたように、涙がポロと零れた。こちら――肉体の方でも泣いていたようなので、手の甲でぞんざいに拭ったのだが、あの魅惑の美声を顧みてもさきほどの感慨は、奇妙にも涌き起こらずだった。夢の中に居ては恥ずかし気もなく憧心に返っていたのに、現実に目が覚めてみると、つい今さっき鳴り出した電話を感慨も涌かず応答するような感じだった。
温かく善意に富んだ幻想を虚ろな感覚で抄い止めようと一瞬試みたが、すぐに忘れてしまった。そんな事をアレヨアレヨと思い描きつつ、立ち上がろうと片手をついたが、グニャリとした物体があったものだから、僕は嫌な想像を滲み出す前に一寸、気味悪くて動けずに石化しているところを――いきなり前方の壁に光の円が立ち現れ、次いで右側の壁を滑り、僕の左頬にぶつかって移動しなくなった。
「センパイ、お気付きですか」
女の声がはっきり耳に届いたものの、夜目に広まっていた僕の瞳には視界いっぱいを射す光のドレープが眩しくて、返事も二の次になってしまう。真近の光源らしいのは彼女の声からも察させられる通り、彼女自身も腕が触れんばかりに、ややカラカッテイル口調で、
「腕が痛いですわ、そんなに強く握られては。もう、センパイは闇夜に身籠られますと大胆になるのですねえ、オホホ」
僕は掌で遮っても、なお眼球の奥がムズムズする電灯の光に閉口しながらも、
「頼むよグレープ、眩しい」
と呟いたところで彼女は消灯してみせた。真っ暗から閃光、そしてまた伸し掛かる闇に両目をおかしく細めて、
「グレープ居るのかい。ピーチとクレープはどこ」
「……妾、センパイよりもずっと早くに気が付きましたが、いくら呼びましてもピーチ先輩にお姉ちゃんに、ここには居らっしゃらないですわ。とても寂しかったのですよ、センパイ、妾ね、懐中電灯で隈なく隈なくお調べしたのですがね、石の壁と戸口ぐらいしか見当たりませんの。それでね、妾も――」
闇のカンバスに紫と赤と白とをぶちまけ、流動しているような視界の錯覚が霧めいてウズウズするのを堪えて、彼女の口を制した。
「少し待ってくれ、皆は」
「ですから、存じませんの」
性急な口調に、彼女は唇を尖らせて喋り足りぬ表情をしているのが僕の心に浮かんだが、矢庭に切迫した鼓動が胃の辺りを駈け昇ってきた。
「どうして、まさか、はぐれたのか、僕は一体どうしていたんだ」
「オホホ、センパイったら、そう焦っては女性に笑われてしまいますわ。お忘れですか。妾はあの時学校で死色を漂わせていました折、説明したのですが」
グレープの悪い癖なのは、姉でなくともこういう皆の安否を一刻も早く確かめたい苛立ちをして、辟易する。うんざりするが、彼女のやり方と不可思議な能力を尊重して、心を押し殺して、目で先を促す。
「マア、恐い目をされるのですねえ、センパイ、分かっておりますとも。とても短く、かいつまんで、御説明しますから、どうぞ落ち着いて下さいね。お姉ちゃんみたいですわ――ウフ、ああ、そうそう電灯は点けずに置いておきますわね。使えなくなってしまいますと、こう暗くては探せる物も捜せませんものね。おっと、いけません、先をお話しますわ――。
――センパイは多分にさっきの螺旋階段の記憶しか在りませんでしょうが、妾の方はといいますと、こういったパノラマな感覚は日常茶飯なものですので、割としっかりに歩けましたの。クールビューティーというところですかね、アハハ、でも流石に妾の頭の中にもあの螺旋階段の意識が入り込みましてね。うまい具合に頭がポーとしてしまいましたが……褒めて下さいね、センパイ、妾ね、目の前がサーと白くなって、もう駄目かも知れないとそんな素振りを見せつけつつも、心の一方ではね、例の“生臭坊主”を呼びつけてやりましたから、もう大丈夫なのです。
あの猫撫で声の坊主は螺旋階段を憎く思っているようで、それで妾達を助けに来たのですわね、キット。そうとしか考えつきませんもの。
センパイやピーチさんやお姉ちゃんが螺旋に呑み込まれていきますのを見まして、ゾッとする心持ちになってしまったものですが、あの“生臭坊主”が……さきにも話しました通り、お姉ちゃんとピーチ先輩を、妾とセンパイをコンビにしましてどこぞへと連れ去っていきまして、気が付いてみますと、妾は一人で頭を巡らしていたのです。
もちのろん、片手にはセンパイの寝息がスースーとして、面白い事に寝言を唱えておりましたよ、『姉様が飛んでいった、風船にもっていかれたよ』とね、アラ、怒らないで下さいねセンパイらしくもない。何遍も何遍も繰り言するんですもの、覚えてしまいますよお、アア、面白かった――」
「どこぞへ連れて行ったと言われても……第一、僕らのいるこの場所は螺旋階段の内の、どこだろう」
「いいえ、存じませんよ」
グレープの説明はいつも要領を得ないのだが、草馬校の時のように疑心で済ませられる状況ではないので、一層倍に荒唐無稽の極みに尽きた。真っ暗闇の只中、何だか遠くで奇声の叫びが石の壁を突き破って幻聴させられそうな四方八方の塞がりで、彼女の言動を受け取るのは、余程の辛抱をせねばならぬ。もし、背後から針で一突きされようものなら、おそらく僕は跳び上がって半狂乱で走り回りそうであった。
暴れ叫びそうな心を努めて冷静にして、僕は膨れ回る疑念を彼女に向けてみた。
「でも、君は言ったじゃないか。どういう理由でか、皆は二手に分かれなくちゃならなくなるって」
「ええ、そうでしょうとも。でも、本当にそれ以外は分かりませんの、繰り返すようですが。あの時こうも言いましたわよね、道が二叉に別れていますから、二手に分かれなくてはいけませんよねってね。道は同時に二人ずつで攻略してゆかないといけません、とも」
「ピーチとクレープは大丈夫なんだよね、一応は……」
確かめずとも半ば予想し得たのだが、闇に大分慣れた目つきの、気勢を削がれた上目使いで尋ねてみた。
「妾良く分かりませんのが、あの“螺旋様”と“ミスティフィカシオン”あいつめの関係ですの。センパイも御聞きでしょうが、センパイの夢中で螺旋が歌いました――仮に“世界真実の歌”と呼称しましょうか、この歌はこれといった悪意は感ぜられませんでしたのに、あの時皆さんが失神する寸前に、落雷の如き大きな音を伴いまして現れました“生臭”は、いつもとだいぶ違ってやる気まんまん、勇気リンリンでしたのよ、まったく。
この事は妾の直感ですけど、“生臭”は妾達と“螺旋様”を対決させたいのですわ。だから、奇妙至極な方法を用いまして、妾とセンパイ、もちろんお姉ちゃんも避難させましたのよ。ですから、二手に分かれて道を行けとは、キット、いずれどんな形であろうともね、二人同士が再会するのを黙示しているからだと思いますわ。
そのための試練も待ち構えている筈ですわ。失礼しちゃいますね、センパイ、二人で協力してゆきませんと」
言っている事柄は真面目であるようだが、声色といって、のらりくらりとしていて、いつものグレープであった。彼女は、彼女以外の三人が幻視させられた“世界真実の歌”とやらを隙見していたようだ。そればかりではない、今起こっているらしい危険な事態の一切合切が何もかも理解できない、説明してくれと、これこそ夢の作用めいた情況であったが、僕はもう問い質そうが何をしようが、悪夢のように収拾されぬ画一されぬ自身の周囲を、くだくだ理窟する気にもなれなかった。グレープを困らせるだろうし、答えはその試練とやらを通過できれば明らかになるか。
それにピーチらが混乱する事もなく、もしかしたら、すでに出発しているかもしれない。ピーチの変にさっぱりとした性格の一部が機転してくれる事も、クレープの妹に慣れた適応力が活かされる事も思惑できるではないか。都合良く進めば、であるが。
「とにかく進むしかないね、グレープを信じるから」
「ウフ、嬉しいですわね」
彼女は再び電気を灯した。そこに、四角く穿たれた戸口があった。
その戸口をくぐり、一丁ほどの廊下を抜けた先に木枠で拵えられた石扉はあった。そこに行き着くまでの道のりは安易なものとはいかず、とりわけ僕には奇怪千万であった。心配性の僕にとって有るか無いかは別としても、試練なる危なっかしいものが待ち構えていると耳にしたならば、闇に呑まれた不吉な戸口はたちまちに、盗賊の通路と化け変じてくる。
入口を迂闊にくぐろうものなら、もしかして落とし格子に潰されるのではとか、床の板石を踏むと落とし穴が作動するとか、矢が射掛けられるとか。テレビゲームのやり過ぎだと指摘されてお終まいな事柄を連想してしまうのが嫌というよりかは、そう思惑せざるを得ない情況こそ呆れさせるのだった。
物語でしか有り得なかった状況が、しかも物語の部類としてはまずお目にかかりたくない情況として立ち塞がった時、僕は「取り敢えず用心する」を無難に決め込んで、必死の態で及び腰なのであったが、それを見たグレープは一笑に付しただけで、何の事もなげに暗い廊下へと侵入していったのだった。僕を追い越した隣で「クスリ」と笑っていた。
彼女の話では物理的な罠というやつは仕掛けられていないというのだが……彼女はそれを「下品な罠」と称した。おそらく“彼の女”から聞き及んだのだろうが、そうでないとしても、グレープの言葉には科学的とか合理的だとか、限界のつきまとう理窟の領域外の――何というか妙な可能性を内奥していた。もっと連想の形に近く、制約のない想像的弁証というか直感的弁証というか、“彼の女”に支えられているらしい質のようで、他の勘違いな弁説者よりも信憑性や神秘性に富んでいて、理解させないが納得・諦念させはする。
しかし、二人の両側に立ち並ぶ番人どもについては、これみよがしに罠であった。戸口より入って突き当たりの石扉に至るまで、薄気味の悪い人形どもがこちらを向いているのは、直接に襲ってこないとはいえ、グレープの言う「下品な罠」でない「上品な罠」が言葉通りでない事を予告していて、溜息の漏れるばかりであった。
全身をガラスの固まりで作られた人形が、先を行くグレープの電灯に照らされると、その体内が焼けつく熱で歪められ溶かされたような光の屈折を産み出し、奇怪な流動を引き起こした。子供の背丈に、顔を欠損した、画一の設計の人形どもが幾つも同時に光を吸収し、遠近法まがいの身の捩りを体現した。
歪曲し、膨張し、凝縮し、過剰し、伸び縮む様が、普段人の関知しえない生命の謎を表しているように映る。古代の祖先らが催した現代の価値顛倒の神の狂宴や、怪物の誕生を見聞する中世の手記、自然の気まぐれか進化の実験か、産み出されてくる或いは人工的に製造された異形の者達や、今こうして向かい合う魔力の人形彫像への夢想と愛などが目まぐるしく子を生み、変形してゆき、現在の日常生活へと下降していった相変わらずの謎であった。
この彫像の木立ちを通り抜ける事とは、一体何なのだろう。区画された街樹ではなくて、人形の林を歩くという事はどういう事なのだろうか。樹ではいけないのだろうか、異様なグロッタを歩く僕は、全体何を意味するのであろうか……などと、記憶を失うにも似た混乱を人ごとの態で疑念していると、やがて石扉の突き当たりに到着していたのであった。
グレープは立ち止まって、少しの間、扉を照らすままにしていたが、この石扉というと上下左右のぐるり四辺を木枠で覆われているのみで、石の表面にこれといった装飾もない。木枠は幅にして約三寸しかない。僕らを囲む石壁や足場の板石と同じ材で出来ていて、少しざらつく幾枚かのブロックを嵌め込んであるに過ぎない。
しかし、僕とグレープが注視していたのは取手が見当たらなかったからだ。取り外しの利く泥棒除けのものでもないらしく、差込口を思わせる取っ掛かりや、その他特殊な解錠方法を隠していそうな様子は、どのみち判然としなかった。
グレープはすると、何気に電灯を左に向けた。左右の壁にはわずかな隙間があり、覗き込むとさらに奥行きが見えるらしい。鍵が見つかったのだろうかと思ったが、廊下は狭く、グレープの後ろにいる僕からは窺い知れない。
「センパイ、コレらしいですよ」
そう言って隙間を照らす脇から覗いてみるのだが、その鍵とやらは電光を背に受けると、またしても身内に怪奇な流動を引き起こしたのだ。僕は精気を吸われたようになって、溜息をつくばかりであった。
「またか」と毒づきたくなるほどにまたガラス人形の類であったが、今度のはというと、僕らに向かって背を向けて小さくうずくまっている形に成していた。おそらく、他のガラス人形の寸法をそのままに、この型へと作り直したと推測される大きさであるが、半人間なる奇怪な言葉を思わせる起立した方の人形を、一層にも卑屈させ重圧し、やはり歪曲させたという一種の生命に対する挑戦のような――生命図の果てなき猥雑をラビリントスめいて、僕の視覚にへばりつけてきたのである。光を屈折し続ける、その水飴のごとき厭わしさをもって。
「どうされたんですの、センパイ。やり方が分からないですか」
僕はすんなり気負ってしまい、この正体の知れぬ錯覚装置をマジマジと探り得なかったが、一見したところ、石扉の解錠方法は皆無に等しいようだった。膝を抱えて丸まっているガラス玉としか映らなかった。
「アラアラ。辺りをよく見回して下さい、これはちょっとした試験ですのよ。妾達はとうに螺旋様の中心に近しいのですからね。ウカウカしていますと、あの“生臭坊主”めに出し抜かれてしまいますのよ。センパイだって、そんなの御免でしょう、ホホ」
「君はさっき、ここが螺旋回段の中かどうか、分からないと言ったろう」
グレープの様子に従って、照らされる卑屈人形も共に揺れる。
「アラ嫌だ、センパイ。そんなの人形林を見渡せばメイメイハクハク唯々諾々ではありませんか。モウ、センパイもお人が悪いんだから――クスクス、素敵ですわよ、そんなセンパイが。アハハ。でも構いませんわ、妾めの声をセンパイがどうしてもお聞きしたいと思われるのでしたら、いくらだって御説明しますわよ。
いいですこと。そこにうずくまり遊ばしておられるおチビさんと、妾達を歓迎なさった人形林の面々は、同じものに他ありませんことよ。といいますのも、妾達は大変仲の良い事に、ホホ、螺旋の領域に住まっているのですから。そしてガラス人形どもが居る事は、なおそれを裏付けているのです。ホラ、何と言うのでしたっけ、逆説的と申せばよろしいのかしら。
宜しい。これだけの御説明で分かって頂けると思っておりませんでした。ウソウソ、冗談ですわ。もうチョット説明しましょう、妾めも直感するのに苦労したのです、初めの内はねえ。
もう一度ガラスのおチビさんをご覧あれ。きゃつめはうずくまっているでしょう。つまり、“停滞”を表しているのです。そちらの人形林どもは反対の“移行”を体現しているフリをしています。立ち姿ですわね。妾は両者を見て、ピンと来るものがありました。片っぽは“静”であり、もう片っぽは“動”であります。もっと分かりやすく喩えますと……」
彼女は片手で、トンボに仕掛けるような渦巻きを描きながら、片目をつぶってみせて、
「お気付きでしょう。“静”と“動”は“白色”と“黒色”とも言い換えられますのよ。あのお懐かしい『黒白の螺旋』の事ですわ。センパイは涙をお流しになってまで、熱烈に求愛したじゃありませんか。“世界真実の歌”にのせて、様々な二律背反が満潮に向かう白波のように押し寄せたのじゃありませんでしたか。
高音域でありつつも、低音域のようで。
平面でありつつも、球面のようでいて。
膨張でありつつも、凝縮されるようで。
肉体美でありつつも、その限界の悲嘆めいていて。
広大無比な湖面に揺られつつも、乳母の置き去りにした揺籃めいていて。
人という二律背反生物が斯様な喩えの、最もたる表れでありますこの世界は、二つの対極した性に分断されておりまして、それらを本来の唯一の形に回収しようとあがいているのが“彼の女”ですが、螺旋様も目指す到達地は違えど、本質的に考えますと、双方とも同等なのであります。
それでは、なぜ両者は対立するのでしょうか。また、生じる差異とは何でございましょうか。ホホ、センパイときたら、滑稽なお顔をなさいますのね。
エエ、エエ、承知しています、言わずもがな。そのお顔で納得されておりません事は、察しがつくというものです。つまり、要約致しますとね、座っているガラス人形と、立ち尽くしているお人形と――この二つは螺旋のマークだと思って下さい。標識です。そこが螺旋の中心への道だと知っているフリをして下されば、妾ができる限りサポート致しますから。
思いますに、多分これからの試練とかいうやつでセンパイもお勉強されますから、段々に分かって参りますわよ、オホホ」
グレープは螺旋を描くのを止めて、矢庭に僕の手を握った。懐中電灯に照らされたガラス小僧の背中の、逆巻く光の歪曲に劣らぬほど、この手が薄白く、反して体温をも感じさせず、まるで漂白された掌で僕を小僧人形へと引っ張ろうとしたので、気味悪くなって腕を払ってしまった。
しかし、こうした仕打ちを平生周囲にされているだろう彼女に申し訳なく思い、僕はすぐに手を伸ばして、座する人形の背を撫ぜた。
「マア、センパイときたら。やる気満々ですわね」
と、気を損ねたようでもない、いつもの口調で言うそれと合わせるかのように、僕の触れた歪曲人形の肌が掌に吸いついてきた。ガラス器質の冷たい真っ平らな触れ心地であるが、つきたての鏡餅のようにノッペリと馴染んでくる。肉塊とガラスとの合いの子であった。
今すぐに小僧人形の飛び上がりそうな気配が発せられているようで、一時も触れていたくはなかったのだが、驚く暇もあらばこそ、その背から生白い薄明が螢雪のようにぼうっと浮かんだと思いきや、人形全身を光で溶かしはじめ、一刻の後、地上から遡る蟻の大群を連想させて、天井に吸い込まれていったのだ。光のフキノトウ――僕は目許を庇ったのだが、そうした時にはもう、そこに何も見当たらなかった。
熱くも寒くもなく、そよとも風は起こらず、呆気にとられて目を瞬くだけで一体何なのか、僕はグレープを振り返ったものの即答されなかった。
グレープは石扉を押し開けただけであった。
「今のはどういう事なんだ」
鼓動も怒りも忘れ、ただただ頭は火照ったような、妙な不思議に夢中であったので、いつもの事ながら平然のグレープに対してさえ、初面識のようなうろ覚えの態で声を掛けるのが、我ながらにもどかしい。なのに、心は炭火を含んだ池にも似た、高揚と冷静の間なのであった。
「意味なんて……そんな。特に有りませんわ」
僕は頷くだけで手一杯だった。深く考えるのは止めよう。どうせ分かりっこない。
開け放した石扉の奥へと踏み込んでいた彼女の向こうに、微かな光源が見える。
彼女に続いて次室に入り込んだ途端、強い臭気に目が眩んだ。戸口からは臭わない筈が、室内では讃美歌の詠唱まがいに盛りきっているのだった。油性クレヨンを燃やしつけた臭気、その場に居るだけでニキビが生じてきそうな癖のある油気だ。
松脂のサウナに身を落とすつもりで入室したのだが、グレープのキョロキョロする中央付近に行くまでに、その暑さに参りそうになる。戸口から次第に明度が高まり室内温度もつられているわけだが、周囲は石質のような壁で四方を囲われ、両壁に横幾列もの小粒の灯火が掛けられている。その横列は頭上の、白煙のせいで高さの窺えぬところから、縞模様に何十列と掛かっているのである。
壁に近寄ってみると、やはり蝋燭の軍勢であり、白煙を発し臭気を漂わせている。雨樋に似た長大な燭台が室の奥に向かって何重にも走っているが、突き当たりはよく見えない。白煙で閉ざされているが、グレープの影がオイデオイデしている。
彼女に追いつくと、透かし細工のように、その先に何かが現れていた。僕の視線を白い指先で導く。
「ホラホラ、センパイ、見てくださいよ。晩餐会の催しですわ」
霧が晴れていくように明かりが増し、等身大の影が像を結びつつあった。
それが何であろうと動くものであれば、僕はグレープの悪戯な笑いを塞がねばならず、果たしてそうなってしまったのだが。
グレープは抱きすくめられた恋人を気取って、なよっとしなだれてきたので、それが彼女の得手であるオフザケと分かってはいても居心地が悪くなってしまって、僕は赤面しながら彼女のふくよかでない体を押し返した。
「静かにするんだ……誰か居るぞ」
僕の囁きを例の「クスリ」で一笑して、囁き返してきた。
「人ですわ」
大きな音が鳴った。僕は縮み上がる。
続いて二度、三度乾いた打音が脅かしていったが、その音というのは拍子木を打ちつけたように丸味を響かせて、音の輪郭を消した。腰が引けたままに、低姿勢と落ち込んでいた僕の片腕を、グレープはサッと彼女の肘で鍵掛けてしまうと、その胸に引き寄せていつもの口調でうそぶいた。
言う通り彼女に引っ張られて、音の打ち鳴らされた方へオドオド進んでみると、さきほどの正体分からぬところから人語が忍び出てくるので、また驚いた。
『万物の父、聖なる御名において、汝を妖術の類をはじめ数々の悪行、神の摂理に反した忌まわしい冒涜を犯した魔女として、告発した善良な信徒からの嫌疑を払拭するために、お慈悲を以って訊問するものである。しかして、嘘の申し立てをするならば、天使に真っ二つにされるであろう。その事を忘れず、我らが主にお誓い申し上げて、ただただ汝は安らかなるままに汝の信仰を証明立てればよろしい。これより開廷する』
声の出処に数歩で近づくと、さらに明かりがいや増し、いくつもの影がヌッと現れた。
室の中央に幅いっぱいに大テーブルを据え、装飾するように一本立ちや三本立ちの立派な燭台が列を成していて、対応するようにその後ろを人影が座していたのだ。五つの人影がテーブルに着き、残り三つの人影はテーブルから距離をおいて、向かって左側に固まっていた。テーブルと燭台はなく、角張った椅子に腰掛けていた。計八つの人影群であった。
僕とグレープは壁に張りついて息を殺し、遠巻きに甘んじていた。彼らの顔つき、調度品の様式は判然としない。夏の夕立ち前の怪奇な夕闇色を思わせる黒ずんだ色が、テーブル上の強力な燭台のお陰で舞台照明めいて、僕らを線引していた。
そして、八つの影を前にして、新たに一つの細々とした影が現れる。この人物だけが立ち上がっていた。
続いて、また人声が流れ来て、グレープに相談する間もなかった。声は五つの人影から聞こえてきて、男の具合をまとった。
奇声を発したいようなジリジリとした苛つきに焦がされながらも、グレープの身体を引き寄せ、歯を食い縛った。その男声、油臭さ、黒い陽炎どもの気配がとぐろを息巻いて、僕の胸を押し突き、苛つきは妙な覚えのある感に変じていた。
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ボクタチ、イツモ、ユメノナカ……