15
アップルで在った筈の僕は、流れ来たる歌声に感動を打ち続けながら、熱い涙を押し止める事が叶わなかった。
刺々しくも艶光る歌声はひたすらに懐かしく、他に言葉を思い出せぬほどであった。考えつく限りの語彙、味わい、また施されてきた、どの人の優しさであっても及ぶべくもない、光の旋律なのであった。故郷よりもそれらしく、友人よりもそれらしく、母親よりもそれらしく、その誰の声ともつかぬ歌の流れは、それがそれで在るがごとく、ひたすらに懐かしい。
天地のいずれより来襲したるものなのか、一向に判然とせぬまま波のように打ち寄せ、雑踏のように大小し、遠り過ぎ、降り、湧き、渦巻く歌声は、僕にこの上ない甘美を突き付けておきながら流れ去ってしまい、さきほどと変わらぬ白一色の只中を一人、悲嘆に暮れて、さ迷うしかなかった。
僕は幼児のように締まりなく泣きじゃくりながら、肉体が見当たらないのに溢れ出る涙を、お腹いっぱいに飲み込みしては、あのたまらなく優しい歌声の過ぎ去りし跡をそこかしこに夢想し、また泣き続けた。
“重力解放装置”など、取るに足らないものなのだ。“ミスティフィカシオン”は螺旋階段の底深くにそれを尋ねろと神託した。しかし、さきほどの歌はその先の果てを目指すべきではない、と警告した。先に待ち構えるものこそ没落だ、闇だ、と言っていたのだ。よくよく説明されもしない、得体の知れぬ“重力解放装置”など信じられる筈がない。何も解放など要りはしない。
歌に在ったように、螺旋の血液と成り果て、いつまで経とうとも反復をこそもって存在していけたら、例え自身がすでに死んでいようとも、アドゥレッセンスの桃源郷で、変わらぬ「あの日」を永遠としていたいのだ。僕がこの今を、実は螺旋階段を疲労の態でいるものだから、束の間思考が躍っているだけで、やがては衰え死のうとも、僕は僕だけの、僕と世界のものだけの至福反復運動をこそ、絶対に欲しい。
そして、僕はまた悔やみ切れぬ、存在のどう転んだって浅はかな一斉の原理、感情をすら超越した涙を零すのであった。なぜなら、僕にはグレーテルに相当する合鍵を「初め」から持たぬのだから……。僕には螺旋の桃源郷が訪れない。探索できはしても、聖杯そのものこそ幻なのだ。だから、僕は何も相当せぬ涙を自然現象のように反復するしかない。
人間というらしい単なる枠が、水を垂れているのみ。
僕はそっと目を閉じた。少なくとも、そうしたつもりになった。
刺々しいと感じたら、丸々としていたり、高音域で緊張させられたと感じたら、次には低音域に変じ落ち着かせてくれたり――といった、それら相反しつつも一つにまとまり、しかし乱れているような美声を瞑想しながら、きっとあれこそは天井の音楽に違いない、と僕は再び薄れ粗悪であるが、追憶の代用品を奏でてみた。
相反する性質同士が結び合っているのに一固まりであり、かといって分散しているような丸く四角い、形相の在るような、とてつもなく広い世界である無の空間。とりとめが無いのに把握させ、極めて温かい黒白の螺旋、その中心。
とりわけ、この「温かい」と「黒白の螺旋」と吸い込まれるような印象の「中心」を確かに知覚できたが、ここから何か答えを、甘美な陶酔境の尻尾を掴めやしないだろうか。これら三つの他には、どれも対極の質同士に交じり合って、一つ一つの要素というか属性のようなものを形作って、それら一つずつでは甘美なものなど作れないのに、それらが一致団結して初めて無限大の大小伴った夢世界と成るのに、「温かい」は在ったのに「冷たい」は欠けていた。
それに黒色と白色、交互の、ダーツの的を連想させる回転した螺旋の図像が焼き付いているのはどうした事だろう。一方では世界のような、空虚のような……まるで分からないのに実感の切れ端が残る理想郷図であるが、また一方においてでは、ダーツの的めいたシマウマ仕様の、視覚に収まる図像なのはどういうものであろうか。
停滞とした錯覚する「中心」はというと、間違いなく「黒白の夢」なのであるが、その対極は存在し得ないのか。「中心」の外にある僕を再び取り込んでくれる、言ってみれば確立した「中心」を破り再構築させられるような「周縁的要素」――「鍵」はないものかしら。「中心」を一度ほぐし、再び結集する隙を見て紛れ込む事ができるのであるなら、是非そうしたいもの。
或いは「中心」を具体的に理解・直感させるために、黒白のダーツ的を採用してみせた何者かの慈悲なのであるか――差し当たっての心当たりといえば、魅惑の歌声の主であろう。
というふうに、泣き疲れ果てた僕の思惑は、ひたすらの懐かしさや精根尽きた涙水から、桃源郷を暴き尽くしたい欲望へと変身・メタモルフォーズしていったのだが、それはもしかすると誰かに手放しで褒めてもらいたい時の気持ちに似ていたのかもしれない。
物質的なイメージを思い浮かべたのだから、他の手段を講じてみようと、空っぽとなってしまった自分という木枠へ、何でもかんでもギュウギュウ詰めにするかのような取捨選択の風を吹かすにつれて、やはり言い尽くせぬ甘美な調べへの野望も相まったようで、ますます僕の思考はめまぐるしく回転してゆく。
甘美の極致ゆえ、激しく猛烈に、男性的な衝動めいた力を剥き出し、本領発揮した小鳥にも負けぬ回転美を連想して思考の助けとしていると、なんだか、さきほどより失っていた肉体の鼓動や輪郭や、今まで覚えた事のない奇妙で、生物的な不気味さを一緒くたにした感覚が次第次第に大きく、太く、重く、感じられるのだった。骨格のまま捨て置かれた半芸術人形に粘土の肉付けを施してゆくような、体内に数えきれぬ夥しい繊維を幾重にも幾重にも機織ったような態であった。
その時、僕はしばらくこの居心地の良い場所ともお別れだ、とふと思い、それはまるで、ようやく買い求めた新車を降りて、仕方なく使い古しに乗り込む気持ちのような、残念半分これはこれで懐かしい半分の、相反した思いではあったが、この二つはとても「黒白の螺旋」に辿り着けるものではないらしい。
僕は意を決し、使い古しの「僕」に乗り込んだ。
よくよく思惑してみれば、僕の内にも螺旋を実現できそうな属性が散り散りしているのだな。
そう感じ取った瞬間、僕は何の感慨もなく、実際の人間アップルとして目を覚ましていた。