13 螺旋の塔入口
僕とピーチが外気を吸い込む頃、周囲はすっかりと朝の匂いに目覚めていた。グレープの話は体感していたよりも時間を食っていたもので、学校のあちらこちらに寝覚めの兆しが見て取れるほど、朝の六時は活発的であった。夜の到来をそっくり映し返して、気の早い誰かが何かしらの朝の仕度をしたり、何かしらの配達をしたり、そんな気配が感じられて僕とピーチは似たような態度で警戒した。何かしら共通している朝の気まずさをお互いに仄めかしつつ……。
早朝練習に熱心な生徒か生徒指導の教師か、僕らは確かめずに校外へ抜けだすと、そこらもやはり朝の支度で満たされつつあり、ひどく場違いな空気の中そそくさと自宅マンションに戻ったのだった。
それから各々住まいに解散してひとまず眠る事にした。午後四時にクレープ姉妹と大泉踏切で落ち合うのであったが、彼女らは一応授業に出席したらしく、兎のような目を姉妹ともども強張らせながら欠伸を噛み殺しいしい、先に来ていた僕ら二人と合流したのであった。
「ホホ、センパイ、こんな事日常茶飯ですから」
僕が声を掛けると、グレープはそう笑った。
「遅れてすみません、センパイ。お姉ちゃんも妾も長引いてしまいまして、急いで来たんですよ。でも、妾よりもお姉ちゃんの方がシンドイようで」
言われたクレープはむしろ元気に見えた。軽く息をつき「やれやれ」と言いたげに妹を流し目していたが、その妹は姉の腕にすがり付くかのようであった。平生おちゃらけでそんな事もしてみせるのであろうが、お姉ちゃん子を装った疲労の繕いのようにも見えた。
僕は注意せず、おもむろに集合場所を見渡した。
「都合良く誰も居ませんね」
大泉踏切の周辺は住宅がせせこましく密集し、生活臭のきつい嫌いがある地域であった。一軒一軒が見せかけだけの薄っぺらいブロック塀でプライベートを覆わせ、下町のような情緒を錯覚させはするのだが、家々を通過する度に好き勝手な生活音が聞こえてきたり、玄関先で談話するような近所づきあいがついぞ見当たらない事に思い至ると、やはり錯覚で終わってしまうのだった。
台所でかちゃつく食器は仕方ないとしても、隣人との交流が尽きた結果でもあるようなそれら生活音は、テレビであったりオーディオだったり、様々な主義主張が成される只中、情緒とは似るべくもない猥雑な現実なのである。明るく声を掛け合い一致団結する、いわゆる共同体成るものを僕もついぞ知るに至らなかった。
大泉踏切はそれらを切り割いて地域内に走っている。どこにでも出入りし、手前勝手に棲家を建築したがる昨今の人間のように、公共も私的も轢き転がしながら猥雑な密集地を恐ろしい騒がしさで貫き通ろうとするその軌道を、ピーチが一人手探りしているのが、この場で息をしている唯一の人間のようであった。クレープの言うとおり、周囲には誰も居なかった。
僕らはピーチの猫背を言い合わせたかのように見つめていたが、やがてめいめいに探索を始めた。
踏切中央に位置していた軌道との間に鉄の輪があったので、僕は清掃作業用のものだろうと高を括って引っ張ってみたのだが、それはしっかりと口を開け、奥底に下降している階段を暗然として大胆に見せつけたのだった。
早とちりという事もある。皆を糠喜びさせてしまうのも気の毒なので一人静かに下ってみたのだが、左回りの螺旋階段らしき道の暗闇は、そろそろ夕暮れの色合いを示してきた陽光では照らしきれないようで、下る足元をいよいよ溶かしにかかってきた。浸水したような闇を足先で探っていると、頭上から反響ある声色が僕の背をそれ以上行くなと引っ掴んできたので、これに応える。
ほどなく温かみのない眩しいだけの光がちらつき、皆が合流した。
「びっくりしたよ、居なくなってるんだもの」
ピーチがもう一つの懐中電灯を差し出しながら、高みの地上を照らそうとした。届いた光は閉じられた出入口を照らしているのか無闇に中を泳いでいるのか、すでに分からなくなっていた。それほど深みを潜ってきたわけでもないのに……前後の判断もためらわれるくらい、夜よりも森閑として、そして真っ黒であった。充分に暗いと感じたあの夜でさえも、なんと光が差していたろうか。この大穴が異常であるのかもしれないなと僕はつぶやいて、もはや何の音もさせぬ地上があったであろう空中を一瞥して、足で探りつつ、専ら進むしかないのであった。そのつぶやきも皆の衣擦れで、すぐにも渇き、落ちた。
歩行の成果を知らしめる時計は専ら自身の鼓動のみで、果たしてどのくらい進んだやらも疑わしいばかりであった。何分、何十分と、視覚に痛い電気の明かりを見つめるだけしか何もない螺旋の闇を、ともすれば間違いをしでかした時の驚きの感情でときたま眺めたりして、幾度目かの踊り場を通り過ぎる。耳なのか胸なのか、頭なのか、どこで鼓動が鳴り続けているのか、といった薄ぼんやりな心臓探しを思いまどろむ態で、僕は反復される階段景色を半ば見とれているのだった。
歩き始めは多弁であったさしものグレープも、しばらくも行かぬうちに鳴かなくなり、他の三人はもとより口を利かなかった。ピーチから懐中電灯を受け取った際に、その三人は一言交わしただけで、残るはグレープが何やら冗談めいた独り言を放り投げていたのだが、海中のような暗闇と皆の押し黙る衣擦れとの異様さに、やがてお喋りをやめてしまった。それっきり一行の周囲に息衝くものは、段々と乱れてくる皆の呼吸と足並みだけであった。それにその息遣いというのも、何だか踏みにじられて嘆息する階段一つずつが発したように感じられてくるので、不気味さに一層の拍車を掛けた。
僕とピーチが先頭を照らしつけ、留守になりがちの一行の足許をクレープ姉妹が後方より明るくしていたが、そのために四人の足並は二つに分かれがちになった。主に前方を傾注している僕とピーチは、どういうわけか自然と早足になって、後方の二人を引っ張り込むように進みたがった。クレープ姉妹は足許をジッと照らしながら、おそらく薄ぼんやりした態で、僕らの足だけを頼りに進んでゆくのだから逆に遅くなってくる。変わり映えのない冥府の光景を見つめるばかりではあるが、一つの体操を行っている事に全く気づかずウッスリと体力を吸われていく心持ちの中、時々ふと息遣いが寂しくなったといって我に返っては慌てて背後を省みる――そうやって幾度も振り向いては照らす光の円中に、まるではぐれた事を悟っていない姉妹が戦争難民めいた一種の貪欲な姿を装っては現れ、その度にギクリと背筋が伸びるのだった。
しかし、安全な事を確認してしまうと三歩も足を繰り出しては、眼前の円運動と深海めいた暗闇に侵食されてしまって警戒心が要領を得ず、失敗を繰り返すのであった。危ない危ないと気を引き締めるのだが、どうしてもその忍耐力は行き過ぎては際限なく続く螺旋運動と昇降運動にごまかされて、いつともなく思考を堰き止めてしまう。疲労し息が上がっても歩を止められず、危険と分かっていても声掛けをひどく憚られる無音の闇に、一体どのような不思議が隠されているのかしらん……と思惑すると、僕の心は眼前の反復運動を進んで求めるように途切れてしまうのだ。
回り、下り、回り下り……回って下っているのか。
それとも回っているのではなくて、そう錯覚させる直線なのではないか。下っているのじゃなくて、実は昇り階段なのではなかろうか。僕は昇り段から昇り段へと下っているのじゃないかしらん。直線上の昇り階段の間違いではないのだろうか。
なぞと考え回していると、自身もこの螺旋の一要素に成り果てたのではないかとも思えてくる始末であった。
ピーチもクレープ姉妹も、なぜか僕にはどうでも良い事に思えてきた。彼女らが後ろについて来ようと来まいと、僕一人でこのまま永遠と行脚したい気分になってきた。振り向いて安否を気遣う事も足並を揃えてはぐれぬ事も、次第に靄がかって忘れてしまいそうなので、僕はそれでも構わなかった。どうしてそう思えてきたものか一向に分からず、また解明する努力もいらないように思えた。
頭に垂れ込める螺旋の罠はより深く、より眠気にも似た甘美な綿菓子となっていく。どうしたものか……視界も白々と明け渡るように度合いを重ね重ね、足許もすでに歩行しているのか立ち止まっているかも判然とせず、只々自身が在るばかり。螺旋階段の闇も立ち消え――のみならず、きざはしすら掻き消え、辺り全てが清々と白色透明に包まれた。
温かいぬかるみに毒されたかのような、といって、どこかに物の固さを感じているような、夢中の態で、どこぞからの流れ出してきた歌声を、僕は、おそらく僕という存在は、スンナリと受け入れていたのだが……。