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11 ウッスリ

 僕を冥府行階段に追い出して、女性二人は病人の着替えを済ました。彼女が亡くなっていないか、そうだとしたら警察にどう説明したものか、犯罪者として一生を過ごさねば、または“重力解放装置”探索行もこれで終いとなるのだろうか、などと苦悩を膨らませていると、なんとも情況にそぐわぬ、留意に欠けたピーチの呼び声がその旨を知らせるのだった。

 きっと大事に至らなかったのだ、と安危に揺らぎつつ、僕は器具庫に戻った。

 白マットに寝かされた人形少女が身を新たにして、とはいえ意識を取り戻し明亮とした挨拶をするわけにはいかず、服装の他に取り立てて挙げる事はなかった。目敏く言うならば、病人がやはり女性だった事に尽きるだろうか。何も大袈裟ではない。初見の、水に漂う姿で分かっていたが、はっきりと面つきを窺ってはいなかったのだし、男とも受け取れる服装であった。何より細部に注視する余裕を持てなかったのだ。

 おそらく、当初の服装は淡紫のパーカーに黒のジーンズパンツであった。それが今は僕の目前で雪白姫のように横たわり、誠に女性らしく両足を覗かせている。しかし、相変わらず血色は回復していないようで、いわゆる色白の類いではなく困窮している。髪も肌も服装も、これら姿色は死色を匂わせるようで、黒白とした別れようであった。

 乾ききらぬ髪はそのせいで色濃さを増し、水気を吸い過ぎて根腐れした向日葵の、その茎を想起させる水々しさを湛え、崩れた茎の腐臭と、打って変わって、川遊びを終えた水を滴らせる娘が通り過ぎたかのような艶々たる匂いを交錯させた態なのであった。熟れ過ぎてはち切れんばかりに腐った果実と、閑静な小糠雨に降られて隣に駆け込んできた娘の水気を帯びた匂いとが、ないまぜとしたような……。濃厚な甘い匂いと、何かしらの予感を多分に含んだ水の匂い、僕は連想せずにはいられなかった。一方は性的なものへと、他方は気恥ずかしくもある異性への憧れであった。ただ一つの彼女を見ているのに思いは相反するようで、双児のようで、あやふやと行き来する僕はその二つの事柄を、或る一つの幻想を勘ぐらずには収まらなかった。

 僕はかつて(そう思惑する事すら恥じ入ってしまうのだが)、その、死に化粧というやつを目にした事があって、つまり屍体である。無論墓暴きでなく、見不知不の親族が亡くなった由縁から葬式で拝見したのだ。人が亡くなって知る縁とはおかしなもので、僕が知ったその産物もまた奇怪なものである。死に顔を見ただけに留まらず、その産物とは当時のみならず、現在の僕をも巻き込む未完の感性であり、たった今完成された感性でもあるのだ。人形少女を視感した今、当時の違和感が合致したようなのである。

 当時のその親族は人形少女と似つかぬ初老の女性であった。死して尚油っ気の厚化粧は、乾ききる死の印象と人の生理的な脂の印象を対立させ、気味悪くさせるものだった。だが、それだけといえば嘘になる。その表情は真に眠るようである。蝋人形のようである。触れてもいないのに真に冷たいのである。気配が違うのである。そして、屍体なのであった。

 僕はその時思わずにはいられなかった。本当のところ、僕らがこうして囲み見下ろしているこれは、人形ではないのかしら。そうでなければ呑気に眠っているおばさんの寝顔を、皆で無表情に見下ろしているだけではないのかしらん。ひょっとすると僕が信じていた現実やら常識とやらは実のところ、その裏側が存在していて、絵画で見たような針金人間が素知らぬ態で歩っているのではないかしらん、と。

 そして、僕は人形少女の傍らに座してマジマジと見つめていると、彼女の生きている死に顔が段々に蝋人形のそれに交わっていき、やがてかつての初老女性のそれと一致していくのだ。微かに赤味を差してきた少女の頬と、初老女性の脂だらけな顔とが合わさり、不覚にも僕は恥じ入りつつも、欲望を果たせる思うがままの人形を、性の道具としての人型を夢想せずには捨て置けないのだった。人形のような、少女のような、外道とされる少女のような、これら背徳を弄び、貪り尽くし、そしてそして愛玩したいその念の背後には何かしらの混沌としたものがあるに違いなかった。

 人形とも少女とも異なる愛玩の肝、これがなければ僕の人知れぬ恥ずべき欲望も沸かない筈だ。だが、いつしかそれがとてつもなく狂おしく、恐ろしいものであると分かってしまった。

 微かな寝息。人形。夜。少女。背徳。欲望。夢想。愛玩。恥。

 横たわる少女の顔、初老女性の死に化粧、僕は何かを思い出してしまうようで恐ろしくなってきた。ジワジワと狂気を悟ろうとしている。あと少し、あと少し……もうすぐ気付いてしまう。全ての背徳を根差しめるその闇とは、闇とは……僕は知覚したくない。知りたくなんかない。どこかへ消えてしまえ。

 少女の顔と初老女性との顔が、もう見分けがつかない。僕は引き寄せられる。この手で抱き上げ、この手で撫ぜ、この手で、僕は、苦しみのない、その、首を、どうする、か。

 瞬間、脳裏を、巨大な蝋人形がその顔面で埋め尽くした。

 同時に、僕はピーチの覗き込む表情に、我を取り戻した。

 「ねえ。あんた、どうした」

 僕は物を言えなかった。強く恥じ入った。

 すると、彼女がふざける。

 「この人に見とれてんの」

 僕は言われて、むしろ胸を撫で下ろした。恥じ知らずの思惑は当然他者には知る由もないだろう。話すつもりもないが、ここには僕の「日常」があるのだ。ちょっと不思議な探索行があって、まだ後戻りができるのだ。物理学博士になるよりも、気持ちよく自転車に乗りたい。

 少し照れ臭くて、笑ってごまかした。

 「そうじゃなくて、服変わったなあと思って」

 「それクレープのだよ。着替え持ってたから」

 もう見とれるのはやめて、さっと窺うに留めた。白のブラウス、黒のスカートとハイソックス、背丈はそんなに望めずクレープと大差ないであろうか、一メートル五十センチか。黒白の衣服は少女をストイックに包み、失礼ではあるが、そんなにふくよかでない身体を品良くまとめていて、なかなかに似合っていた。表情からして知性を全体に覆っているようであった。以上。

 「目を覚ましそうかい」

 何だか女性三人に囲まれているのが俄かに心細くなり、所在なく俯いてしまう。まともに彼女らの顔を正視する事がひどく憚られた。ついさっきの鉄面皮極まりない幻想がまだ僕に赤々とした爪跡を刻み付け、恥じ入らせた。

 「当分は起き上がらないような気がするよ」

 ピーチが訝しむので、僕はわざとらしい態ではあったのだが、少女の枕元でウッスラと光る時計を、

 「このままであったら、どうしようか。そろそろ学校も起きだす時間だ」

 と指差して繕ったが、クレープは、

 「あの先輩たち、こいつの事なら私に任せて下さっても構いませんから」

 言い出したのだった。

 「こいつ、私の知り合いなんです。どこに住んでいるかも分かってるし、やっぱり学校始まっちゃうと身動き取れないですから、そろそろ抜けだした方が良いと思います」

 「知り合いって……なんで給水施設の中で浮かんでいるわけ。だって、あれアップルが思いっきり回してやっと開いたんでしょう。それにあの点検蓋、内側から閉じられるような取っ手無かったの、あたし見たんだけど」

 隣で僕は頷く。確かに内部から施錠できる筈がなかった。蓋の内側に何かを引っ掛けるような穴も、押す事によって解錠されるものもなかったし、どういうわけかその赤茶けた面は油を塗り付けたかのようなヌメリ気があったため、少女を抄い出そうと手の突き場を心苛っていた僕は危うく水面に沈むところだった。

 「でもこいつ、前々からこういうところあったから」

 諦めたような寂しげな目で、クレープは少女を見つめていた。

 「きっと何とかして入り込んだんですよ。以前も同じような事あったものですから」

 十中八九、この少女が“四人目の仲間”であるのは疑いない。どんな手を使って水に浸かったのかは全て“彼の女”の神託通りとすれば解せなくもない。これを意見すべきか、クレープの瞳を見てしまった後では憚られてならなかった。当初口にした「心当たり」とは、おそらくこの少女なのであろう。

 「先輩また今夜、ここで落ち合いましょうよ。その頃には目を覚ますでしょうし、もう時間がないですから、これからは行動できません」

 少女の事を触れてほしくない、と暗黙に示しているようであった。会ったばかりで仕方がないのである。しかし、僕はその当然のような隔たりに遮られ、毎度の如くうら寂しいのだった。“無害な人間”の傷つきやすい幻想を尊重するためには、自らが隔てられる事も時には不可欠である。分かりきっているものの心が呻いた。

 一方で人形少女と別れ難い念も渦巻いていた。恥ずべき空想からではない。一刻も早く目を見開いた少女と言葉を交わす必要があるのでは、と思考が巡る。今夜では遅すぎるのでは、と。根拠がなく、全くの予感というやつで頼るべくもないのだが、そうしておかないと件んの“重力解放装置”探索に弊害が産み落とされるようで、それも取り返しが及ばないような……。取り越し苦労なら良いのだが、“お告げ”の一節に『螺旋塔に尋ねて聞け、解放装置の所在を』というのもあったのだし、気に掛かるといえばそうなのである。

 クレープの意を逆撫でしたくない。これ以上の無神経は“無害な人”として許せるものではない。しかし、僕は言わざるを得ない。折しも“お告げ”の或る一節が僕を辱め、そして、またしても、忌々しく、心を虜にしおおせてしまったのだ。

 即ち『異形者は応えるであろう、この矛盾を』。

 光と闇の斑が吐き気を伴って螺旋を、瞼の暗幕に引き込めるように回り回りさせ、“時の概念なき一秒”の末、かぶりを振る意思を自覚しつつ、自らそれを押し留めて、厚顔にもこんな事を言いおおせた。

 「もし良ければ僕にも看病させてもらえないだろうか。僕は差し当たって用事ないんだ。君は学校に出席した方が良いから、授業中は僕が看ているよ。このまま帰ってしまっては物足りない気もするし」

 僕は逆巻く光と闇に焦点を奪われて、口許がだらしなく滑った。光は美惑の性的な熱風、闇は、闇とは……知覚したくない。すんでのところで踏み留まり意識のかぶりを振りまくるが、徐々に明確してゆくような、不可視の物質を撫ぜているかのような、視界にまたも頬を赤く染めたあの美しい顔がちらつき、痩せ細り、膨張して、知覚と忘却の崖っぷちで僕は、こらえきれなくなった感情を爆発させる恥ずべき欲望に負け、あろうことか人形少女の顔に再び振り向いてしまった。見てしまったら最期、抑止できそうもないのを承知で情けない僕は目にしてしまったのだ。

 しかしだが欲望は吹き飛び、僕の心を新たに席巻したものは、心臓が砕け散るかとも思えるほどの、驚駭ばかりであったのだ。というのも、例の少女が息を吹き返し、まばゆい生者の気息を体中にみなぎらせたのだ。決して跳び上がって身を起こしたのではないが、ゆっくりと呼吸する様は並々ならぬ生命の光であふれんばかりで、雪白姫のような息の吹き返しが、僕のさきほどから悩まされた重大なる秘儀を散りのまがいに四方八方潰走させてくれたのだ。屍臭芬々たる妖しい幻想の像であった少女の顔は生者へと転じ、これに釣られて邪悪な思惑も排除されて、清々しさが祭りの余韻のような残り香をして僕を束の間包んだが、ほどなく消え失せた。

 驚愕したのは僕ばかりではなく、とりわけクレープの莞然たる様は向日葵が開けたようであった。待ちに待って暑い日射しの元ようやっと莟を花咲かせた大輪の笑みであった。彼女は顔に顔寄せて優しく少女の肩を一揺すりしいしい、初めて口にするような労りの音を掛けた。

 ロッキングチェアから目覚めた赤子が、夢うつつに有りもしない望郷を幻視するにも似た目付きで、人形少女は瞳を覗かせた。眺望をやっと許された鳥籠の少女であるような瞳。

 「どっか痛い所、ある」

 繰り返し問い掛けるクレープに、どことなくうるさそうに頷く少女はウッスリと僕ら三人を巡ると、また目を閉じた。

 それはもう単なる寝顔に相違なかった。スースーと呑気な鼻息をさせて、目下見る間に血色は黄味を帯びてきた。僕とピーチは安気の顔を見合わせて少女の帰還を喜んでいたが、クレープはというと幾分落ち着いた事もあって、僕らを見るのと変わらない面付きで見下ろしていた。

 「ほら起きなよ、ほら」

 なぜこの子が給水タンクに閉じ込められていたのか是非話してもらいたかったから、クレープは尚更に質しておきたいようで、また揺すり揺すりつつ、がならないように声を細めて起こそうとしていたが、少女は唸ってまどろんだ。まるで妹を起こしているみたいで何だかおかしなものであったが、これといった外傷も意識障害もないようで何より。といって、クレープの起こし方がつらつら乱暴になるのを、僕とピーチは間の抜けたような、喉に物が引っ掛かったような、とにかくいまいち飲み込めない態で見守るしかなかった。

 「ほおら、起きろっつうの」

 少女は寝返りをうって、マットに顔を埋めた。それを逃さず、クレープがブラウスの襟を掴むと少女はたまらず、

 「なによ」

 掠れた声で渋々起きたのだった。両目をこすりこすりしてクレープを不満気に睨みつけたが、ハッと眠気の吹き飛んだびっくりした顔つきになると、横の二人、僕とピーチを見遣った。猫目のように真ん丸な双眸が僕らを見比べる。平生を保っているかに窺えたが双眸は瞠られている、もしくはもともと大きな目をしているのかもしれないが、目覚めたての赤く腫れぼったいそれは注視しているわけでもなさそうだ。意の捉えづらい、ぼんやりとしたものだった。

 彼女はプイッと僕らを見捨てると、またクレープに向き直った。

 「あら、なによ、お葬式かしら」

 少女の澄ました声色に僕はギクリとした。単にクレープへ向けられた言葉に過ぎないと分かっている筈が、あたかもさきほどの破廉恥な幻視を見透かされていて、面当てをされているような、私の姿色に死色を重ねたお返しよ、と仄めかしているように受け取ってしまい、僕は所在無く俯いてしまった。

 「あんたねえ、余計な手間を掛けさせないでくれる。どっからあんな所に潜り込んだのよ、開いた口が塞がらないわよ、何考えてんの。ねえあんた、もう少し遅ければ死んでたわよ、だいたい家に帰ったんじゃなかったの、どういう事なのよ、これは」

 クレープの憤然とした文句が、僕の頭上を走り抜けていく。目上に対して若干遠慮がちだった口調が一転、凄みはないものの攻撃的に打って変わったので、僕は妙な冷汗をかきはじめる始末であったが、彼女にとって勢いでる心配の言葉なのであろう。助け出した際も息を吹き返した際も彼女は必死の態であったのだから、可愛さ余ってというやつなのだろうが、当の少女はノラリクラリと返答をはぐらかしていた。

 「なぜ、あんな所に入っていたの」

 「覚えていない」

 「あんた家に帰ったんでしょ」

 「多分」

 「何なのよ、あんた」

 「お姉ちゃんの妹よ、多分」

 目を上げた僕はその言葉に的を射る思持ちでさほど驚かなかったが、あくびを噛み殺しいしいするこの少女と姉を、(さきほどの少女ではないが)ウッスリと上目遣いで見比べてみた。目許が面影を宿らせているのかもしれないが、よくよく窺っても果然とするものではないらしく、あまり明らかなものでもなさそうだった。この妹が残る“二女”の片割れでいてくれるだろうか。もし違うのなら、一体誰なのか。

 続けて問答する姉妹を扱いかねるのだが、ピーチと顔を見合わせながらそれとなく止めに入った。少女の経緯に興味があって早く聞き出してみたい事もあったし、不安な予感というものも、朝が目覚めてくるにつれいよいよ波寄せてくる。人知れず無闇な言い訳を自分自身で妙に思いながら、僕らは少女にこれまでのいきさつを語ってみせた。もっとも僕はどもりっぱなしでいて、横合いからはクレープのちょっかいが飛んできて、納得させられたかどうか自信がないのだが。

 自己紹介からこの時分に至るまでを、少女は中断させずおとなしく聞いていた。僕が話す時、助け舟を出すピーチである時、悪たれる姉に対しては別であったが、少女は姿勢を正して瞳を覗いてきた。説明を終えると、「そうですか」という返答が聞こえた。


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