10
女声の名はクレープという。草馬高校の二年生というから年下である。僕ら二人が語る経緯を、彼女は白いマットに足を崩して真剣な面つきで聞いていた。“重力解放装置”と“ラジオな天使”、それを探してピーチと合流した事。ピーチが“韜晦天使”または“生臭坊主”或いは“ミスティフィカシオン”を耳にし、折柄“踏切”に出くわした事。そして仲間が足らず“天使”に導かれるまま草馬高校・クレープを訪ねた事まで、一から聞かせた。
聞き終わったクレープはピーチに勧められた缶ジュースを徐ろに流し込み、ホウっと一息ついた。ジュースは「愛の科学・オレンジ」だった。
「私だけかと思ってた……。夢を見ているみたい」
嘆息まじりのクレープは安心したように深く息を吐いた。オレンジの呼気がふわりと鼻に触れた。女声に特有の柔らかい気を含んだクレープの言葉は“重力解放”の行き詰まった探索行に光明を投げかけたものであったし、何より僕らを“無害な人間”と認めてくれたのだ。顔が綻んで仕方ないなあ。
「あたしらも同んなじ」
天井を仰いでアタリメを囓るピーチ。ここに明かりは懐中電灯一基しかなく、車座になる三人の中心を照らしているので辺りは薄ぼんやり、天井となると真っ暗になる。まるで焚き火を囲んでいるようで、さしずめピーチは夜空を見上げている。バツの悪い告白をしている色でピーチは言った。
「でも、面白そうじゃん」
僕はぼんやりな桃に頷いて、
「今まで傘の指示には頼りなさを感じていたけれど、こうして現にクレープに出会えたんだから、まんざら虚構でもない筈だよ。後は、もう一人の仲間がここで見つかる予定なんだけど」
君は心当たりないかい、と語尾を曖昧にして光明であるクレープを見遣った。ひどく特定された場所で彼女を見つけたように、傘の指令なくしては残りの一人を探し当てられぬだろうが、そう言いつつもいまいち“ミスティ”の言は不安定であるし、情報そのものだけに限らず、いつ頃発せられるのかも定かでない。もしかすると、すでに「二人は草馬高校に居る」とだけでも与えられているのだから、更なる情報に関しては当てにならぬのではないだろうか。とすると、その内の一人であるクレープに重きを置かなければならないのではないか。
その念を込めた視界内で、かくてクレープは眉根を寄せていた。
「私の周りでは」
自信なさ気に俯いて、ちらりと盗み見、
「いない事はないんですけど、多分違うと思いますけど……」
歯切れ悪く言う。
「どんな人」
「うん。少しばかりお二人とも気が引けると思うんですけど、なんていうか、集団から浮いているというか、友達できないタイプというか」
「良く知ってる人なの」
クレープは上目使いで困った顔をした。
「ええ、まあ、でもやっぱり違うと思いますけど」
濁す彼女はその人物について触れてほしくないらしい。僕にはその人物とやらが彼女にとって学校内での立場を危くするものか、不本意ではあるものの近しい存在であるか、どちらかに推測できた。いずれにせよ、クレープが同じ“無害な人”を見分けられると推して知られるので、きっと的外れなのだろうさ。
僕はしばし頭を捻ったが、手掛かりはクレープと虹傘しかないように思えて、自ら傘を掴んでみるしかなさそうだった。それもその筈、元々“声”だけを辿ってきたのだから。
ピーチの許しを得て傘を試みている背後で、女同士の会話が進む。
『よく聞こえて』『良く聴こえて』『妾の声音が』『よく聴こえて』
『よくやりました』『良く遣りました』『一人見つけて』『よく遣りました』
妙な会話が聞こえてきて、僕を振り向かせた。
『永久至福の』『欠陥・血管』『装置は』『何処に在る』
『妾の』『神聖墓地に』『隠秘学』『尋ねなさい』
ピーチとクレープは何気ないといった態でゆるやかに話していたが、二人の口より飛ばされてくる文字どもは二人のそれでは全くない。耳にはどうしたって丸みのある金属音と鋭さのある金属音が交互に鳴り合っているとしか聞こえないのに、それは言葉の形をまとい、僕をして意味を読み取ってしまうのだった。
『廃潰老女の』『砂海の彼方』『やがて視えるは』『火焔塔』
『冥府下りの』『その先に』『立ち現れるは』『奇想の世界』
『名は怪物』『性は学問』『その心は』『博物誌的世界』
僕の脳髄が刻々と知らぬ景色を産み出してゆく。それを意識するのも同一の脳髄なのに……。僕は知らない。前後して、まるでハンドベルの鳴とトライアングルの鳴が彼女らの口から紡がれては降り積もっていく。天井より落下したる神の石材のようでもあり、これに造られたバベルの塔を直撃する雷霆のようでもあり……。
僕の幻想に今現れたる風景、牧歌的な白い動物が群れなす山野にも巨大な百科全書が落雷して、千差万別の絵巻が氾濫し、伴って黒い甲虫に似た洪水が溢れだした。雷が一度爪弾かれ僕に「理性」を、もう一度爪弾かれ僕に「熱」を垣間見せた刻なき瞬間、アップルは三度目の雷に弓弾かれ震え戦いた。
鍵なる真実の言葉は二つあった。アップルは発狂せぬよう、あらゆる事象・象徴、それらを変換せしめるあらゆるリアリズムという名の“自身”を思い出す事によって、強烈原初の言葉を俗事に埋めさせて自我を保護した。
何か現実より鮮明な夢から突然目覚めた時のように、ビクッと体を不意に揺るがせて我に返った僕は、思わず虹傘を取り落としてしまった。ちょっとした空想より帰ってきたように、残念でありながら、気恥ずかしいようでもあり……。
すると、二人の会話が呑気に届いてくる。
「それなら夕闇通りに最近できた店がちょうどいいと思うよ。うるさい連中もいないし、中ではケイタイ使用禁止になってるから、少しはくつろげるし、図書館の近くだから」
「あそこできたんですか。街は探し尽くしたと思ってましたけど、求める雰囲気に合うかな」
なおも二人は話し続けていたが、先刻の妙な会話も音も跡形もないのだった。もしかすると、また“彼の女”の神託を聞きつけたのかもしれない。自身にのみ察知できる。“在らざる声”といい、夢想の内容は朧なのにふっと目が覚めたような感覚といい、それらしく思えてくる。しかし、今回のは昨日今日起きた内でも毛色が異なるようであったが、残りの仲間の手掛かりがない以上、耳を傾けなくてはならない。
だが、恐くもあった。ピーチには先刻の声を拾えるのだろうか。“彼の女”は特別に助言したわけではないが、昼間ピーチを評して『だいぶ使いこなせるようになった云々』と発していた気がしないでもない。という事は、僕の性質は能力外とならないだろうか。乱受信が生じてくる経験もあるのだし、ここはピーチに試してもらうのが無難かもしれない。
クレープとのお喋りが一段落したのを見計らって早速彼女に調べてもらったが、さほどしない内に何も聞こえぬままで終わった。やはり僕だけにしか察知できていないのか。僕は二人に事情を話し、再度二人から離れて受信を試みた。二人の視線を背に感じる。
唐突にその背後から、先ほどと一様な嘘の囀りが頓着なく匂いを発してきた。僕は再び何事かを思い出しそうになる。
『雌剣所有者』『体現者』『上昇の娘』『人形美姫』
『雄剣所有者』『体現者』『下降の初老』『人形美姫』
『障壁騎士団』『二性者』『暖炉女騎士』『台所女騎士』
『触媒騎士団』『二性者』『鍛冶騎士』『風車騎士』
『奇想天外』『跳梁跋扈』『伝説奇譚』『両性具有』
『詩人迷いて』『探索行』『銀の小枝に』『植物園』
『妾は示す』『小都市行』『果実の香り』『夕闇街灯』
『螺旋塔に』『尋ねて聞け』『解放装置の』『所在を』
『異形者は』『応えるで』『あろう』『この矛盾を』
『螺旋と』『解放』『再生』『と平面化』
『妾の』『神聖墓地は』『天使が』『導く』
『下らず』『上らず』『左右』『対極』
『夢想に』『溶け込め』『夢幻に』『任せよ』
『世界万有』『全て虚構』『御主も妾も』『なべて虚構なり』
僕の頭に先刻のヴィジョンは立ち現れてこなかったので少し安心した。代わりに一つの光景が心内に焼き付けられた。クレープならこの光景に詳しいだろう。
「ねえ、クレープ。この学校に塔は在るのかい」
「塔ですか、あの昇るやつの」
例の囀りを聞き終えるまで一分も経っていなかった。何となく今までの経験からコチラ側との刻のズレがそう大差なく掴めてきている。二人の表情を見ても、待ちくたびれた感はないようだ。
「急にどうしたんです」
クレープは面白がっているような声色を隠して言ったつもりのようだった。薄闇の中で瞳がきらめく。
「ピーチみたいに聞こえたんだよ。声じゃなかったけど、ヒントみたいなものが」
「塔みたいな建物はありませんよ」
「でも」と付け加えて、
「細長いものだったら時計塔とか、私も良く知らないオブジェみたいなものとか、おそらく下水用のマンホールだとか、そういったものなら……」
「他にはそれらしきものは、どう」
「給水塔は」
ピーチがあくびしながら言う。
「校舎の屋上にさあ、やけに長方形なタンクみたいなのが見えたけど」
「あれもすごく細長いですけど、中部には入れないかと……。水浸しですしね」
「ねえ、今度のお告げは細長いものを探せっていうの」
白マットにゴロンと寝転がってピーチは伸びをした。眠気を覚えたその姿は修学旅行の夜を想起させた。普段考えた事もないクラスメートの家での姿を思わせずにはおかず、ちょっとした緊張感が鼻につく。殊に女生徒の風呂上がりや就寝前の不思議な穏やかさは人間的でもあって、動物的でもある。
寝床を確かめて、しかし眠る気のない興奮した女生徒がお喋りするかのように、ピーチは体を起こした。
「今、何時」
クレープは立ち上がって跳び箱の裏に行く。
「午前一時半です」
蛍光塗料で印字された目覚まし時計が握られていた。彼女が戻ってくるに連れ、刻の鼓動が乾いて聞こえてくる。音響効果などないのに、人の造りし忠実な官吏は他の道具では決して出しえない奇妙な音色を刻んでゆく。木霊のように響いているのに、砂粒めいて渇ききっている奇妙な時間。
カチカチ。
制服姿が揺れる。
カチリカチリカチリ。 (夜は永遠)
「僕が一人で見てこようか」
秒針に目を奪われつつも言った。
「別に大丈夫よ、今何時かなって思っただけだから。随分、学校に居たなと思ってさ」
「私も昼夜逆転していますから、大丈夫です」
「そうそう、ところでさ、どうしてあんたは真夜中の学校に潜んでいるわけ」
僕は、それもそうだな、とクレープに視界を転じた。
「そういや、まだクレープの話聞いていなかった」
つぶやいてみたものの、彼女が拒めば聞き出さなくても良かった。こんな場所にこの時間居座っている事は紛れもなく異常であったが、他者にしてみればの話である。クレープの幻想がそれを招くのなら、僕らは極力邪魔をしてはならない。僕らは僕らで、充分「変」なのだから。
ピーチの質問はいささかぶしつけであったが、“無害な人”として油断をしたわけではなく、声色に配慮の欠けた下品な表現が認められない。干上がった川底のようだ。クレープが話さなければ他意のないサラサラとしたままの川底であり、打ち明ければその言葉は清らかな流れとなって滑っていくだろう。どちらともクレープの好きに選ぶがいいさ。
彼女は半ば目を伏せる。
「夜中の学校って、何だか落ち着くんです。静かですし、家に帰っても人の気配に、ギャップに潰されてしまいそうですから」
同情を込めて、僕は一言「そうか」と言った。それだけで充分だ。クレープもピーチも、そして僕自身も目指すものに何ら変わりはない。ただ光的に生きていたいだけなんだ。そのためには色々な備えが必要であるのだ、僕らのような“無害な奴ら”には。
手を差し伸べて、僕は一瞥した。少し生意気そうな面相しているのに、クレープの瞳は電灯に撫でられて潤んで見えて、一人泣いていたかのようであった。まじまじと見つめるのは照れるので、彼女の下腹部に落とすと当然二つの足が目許を惹く。流行にみられる極端に切り詰めた丈とは違い、校則に則った膝までの長さであった。人格の末端を物語っているのはその肌色にもあるようだ。滑らかそうで艶良く、けれども繊弱細という事でもなく、骨の芯が逞しく成している。筋骨隆々の男性的とは言いがたい、やはり性的に豊穣な女性的なのであった。
今僕の手を握った彼女のそれのような、温かく異質な目の覚めるような感触なのだろう。丁寧にしっかり手を取り、クレープを引っ張り上げ、はにかんだ表情を一目捉えた。彼女の膝も立つ。
クレープのためにも是が非でも“重力解放装置”を発見したいものだ。人知れず志を新たにし、ピーチを伴って再び探索行に乗り出した。クレープの幻想を何としてでも守らねばならぬ。
僕らは探し回った。途中、宿直者をうまく遣り過ごし、クレープの案内に任せて校内を早足に探索したのだった。“塔”を見出すべく、一度大まかに見て回った校庭も今一度調べ直した。野球用のバックネットを支えるコンクリート柱、国・学校旗を掲げるポール、バックライト、植木、鉄棒等、細長い形状を有しているものは調べ漁った。だが、校庭に目的となる“塔”を見つけ出すには至らずだった。
次いで、三人は以前からクレープがちょろまかしていた合鍵を駆使し校舎内に通じた。クレープの話によれば草馬高校は北館と南館を主として、先ほどの旧体育館や新体育館、それに鍵の都合で踏み入れられないものの校庭の方に各部室やプール、その関連施設で構成されているとの事。生徒数四百人強は今僕らがいる南館と北館に日々納まり生活をしていて、これら教務機密に関わらない一般教室にはセキュリティーシステムというやつは据えられていない。
ただし高価な機材の置かれている多目的な室や職員室等に見受けられる特別室内では、赤色の電気な瞳が猫よろしく天井から見張っているという事。付け加えて、その出入り口を含む廊下部にも限定的にセキュリティーで仕切られているとの事。警備会社直通でなく、大音響で宿直者に知らせるものらしい。
これらを踏まえて、現在僕らは南館四階つまり最上階にまで失敗もなく来た。屋上にはピーチの言った給水タンクがある。
西側の階段より昇り詰めてきた三人は東端に向かって一室ずつ見て回ったが、これといって発見はないのだった。眼前に伸びゆく幾何学な廊下は無論夜が垂れ込めている。所々、火災報知機の赤色光や、出口を永遠にくぐれないだろう例の「非常口の彼」が点在していて、幾分騒がしさを提供しているのだが、音もない。夜空を飾る星々とわけが違い、本来人の居るべき場をこのように機器灯が照らす様はか細く、うら寂しいものである。昼間人が行き交うくせに、夜は電気の囁きさえも聞こえてくるほどに静まり返るから、一層そう思えてくる。星間は生活の場ではない。
ブブ、ブブッと幼児が吹くような電気音を無視しつつ、ついにこの階最後の教室を調べ終わったのだった。これで南館の特別室を除いた一般教室をこなした事になる。発見はなかった。
残るは屋上の給水タンクであった。僕らは東側階段を昇り、屋上に続く扉を目の前にした。解錠に移る前に、僕はクレープに声を掛けた。
「今、時刻は」
応えて、彼女は種々の物を詰め込んだ水色のデイパックを開け、目覚まし時計を示した。午前三時過ぎであった。もうそろそろ学校を抜け出す時刻が訪れつつある。あと一時間が限度といったところか。四時になれば日ノ出を迎えるだろうし、それ以降は朝練の生徒らが登校しかねない。それまでに見つけだせるだろうか。よしんば間に合わなくなっても、後日出直せば良いか。僕もピーチも勝手気ままな生活であるし、クレープとも夜には会える。
蛇の威嚇を思わせるジャラジャラした音をたててクレープが解錠を探っているのだが、何かしら手こずっているようで扉は押し黙った態でいた。ピーチの顔色を盗み見ようと目を転じかけた途端、鍵束の方が押し黙った。クレープが確かめるように、扉を押し開くところだった。
悲鳴もなく開いた扉向こうは校舎内と変わらず、真っ暗であった。無数の星々がきらめく事もなく、彼方の空は都市的な光のため白くくすぶっていたが、屋上にその光が届く事はないのだった。対岸の火事である。
クレープが先頭に立ち懐中電灯で辺りを警戒しながら、僕らを例の給水タンクに案内した。コンクリートの屑や配管の行く末の分からぬパイプやら鳥の羽毛なんとやらが散在していて、それらを踏み締めて進んだ。ほどなく、電灯が高みを照らしだした。
「一応、細長い、給水塔です」
いまいち明かりに乏しく分かりづらいのだが、電灯がなぞる輪郭はなるほど、ビルに据え置かれていそうな給水設備そのものに窺える。変哲もない楕円形をしたベージュ色に管や昇降ハシゴが絡みついている。おかしな事に給水管が簡潔、直線的にとは程遠くのたうっていて、ハシゴも茨を形象化させたような渦を描いて取り付けられていた。こういったものは作業時の危険を避けるために単純化されても良いだろうに、妙な細工である。
「給水タンクにしては……」
と、ピーチも腑に落ちぬ態で濁した。
「ここ出入り禁止なんでしょう。誰かに聞いたの、給水塔だって」
「時折足を運ぶんですけど、中からはキチンと水の回る音がしてきますよ。脇のパイプを伝って流れ落ちていってるようです」
「北館にもあるんでしょ、だったら給水設備だと思うけど」
僕は見えぬのを分かっていたが、北館の屋上に目を凝らして言った。
「はい。でも、北館のは普通な感じでハシゴが付いているんです。タンク自体は同じ造りらしいですけど、誰かが昇って怪我したとかって話は特には。業者が掃除しに来たというのも聞きません」
クレープは言いながら、給水タンクの土台となっている建物を昇りだした。赤茶けた扉をしていて、表面のコンクリートがだいぶ剥げ落ちている物置らしきこれに、件んのタンクは足場を根付かせていた。根付かせすぎて、腐った樹根になっていた。それらの隙間を、これは直線的に据え付けられた鉄梯子を渡って、一行の眼前に“卵”が現れる。微細な震動、それに液状体が回転するような囁きを伴って、僕らの耳をくすぐった。
真近となった給水タンクは奇妙な技巧を施されている事に気づく。のたうつハシゴも水管も一層の印象を植えつかせるものであったが、よくよく目を凝らしてみれば、ベージュ色のタンク表面に細かく模様らしき図が点描されているのだ。三人で一様に観察していると、その点々は銅版画におけるエッチングに類するものではないか、との一致をみせた。
美術に心得のある者は残念ながら居ないものの、確かに以前、学校で習った事跡を想起させるのであった。シャーペン大のニードルを小さなハンマーで軽く叩いてゆきながら、銅板上に模様を刻み付けていく。タンクに打たれている銀の小粒痕はそのようにして刻まれたようであった。
さらに模様の全体を辿っていくと、どうやらタンク横周りだけにおさまらず、上部にも下部にも続けられているが、何を示しているのかは容易に分かった。
「薔薇の葉っぱ」
「蔦の装飾……ですか」
「古い家具なんかに、こういう模様があると思ったけど、アロエか」
と、てんでバラバラにしても、葉状のものが中心を包み込むように上向いて広がっている事に差異はなく、ただその葉が茨のようにギザギザしていたり、蔦のように幾筋にも絡み合っていたりして、三者三様に映った。
「これも北のタンクにはついているのかい」
クレープは目を閉じて、首を振った。
「とりあえず、中を見てみるよ」
「開くの」
「お告げに当てはまっていたら、多分……」
ピーチにそう応えると、僕は渦を巻くハシゴに手を掛けた。他の管と同じく錆びていて、触れただけでボロボロと鉄片が剥がれた。しかし、体重を支えきれないというわけでもなかったので、ゆっくり、体を引き上げていく。
左斜め上方に伸びるハシゴは幅が狭いばかりか、従って足掛け部も小さい。体力に毛頭の自信のない僕はやっとの態で片足を掛けてはみても、下から電灯で照らされるだけでは手掛かりに乏しく、しばらく蛙が飛びついたような情けない格好でウンウンと唸っていたのだが、ようやくハシゴ伝いに半身を起こすと、どうにか昇り詰めたのであった。やはり“重力”を一刻も早く開放しなくては。おかげで、女性二人の前だというのに恥をかいてしまったではないか。運動能力に欠ける僕のせいではない。
さておき、給水タンクの天辺には案の定、内部に続く点検蓋があった。タンクの高さを三メートルと見積もれば、蓋の幅は人の出入りができる六十センチほどか。蓋には自転車のハンドルに似た取手が取り付けられていて、新品のごとく電光を反射させていた。わずかな傷もサビも見当たらない。風雨に晒されるがままであるのに……。これがお告げの印かもしれないと思い直し、まずは取手を回してみる。
だが、固い。溶接されているかのようにびくともせず、僕は顔を真っ赤にして両腕を引き絞った。
駄目だ。荒い息をついてしまったが、また呼気を止め全身を振り絞る。ほどなく、成果を挙げられぬまま力尽きてしまった。
時計回りでも地獄回りでも、はたまた押し下げるでもないし、引き上げても開かないのだから、専門業者の工具なりが必要なのか、僕は心臓に怒りをぶちまける荒々しい呼気にくたびれて突っ伏したまま、動けずにいた。久し振りに全力を入れたものだから、こんな事でも肩が外れそうに痛くなってくるし、掌も充血して開閉できないほどに硬直して痛む。
「開かないの」
ピーチの声にやっとの態で頷いた。秋の差し掛かりとはいえ、まだ夏の余韻が残っているのだ。汗が玉になって吹き出してくる。タオルを持ってくれば良かったなあ。汗臭いと嫌われてしまうかも。大丈夫かなあ。
誰かの昇ってくる気配がした。顔を上げると、クレープがタンクの向こう側より階段然として現れた。
「アップル先輩、代わります」
さすがに年下の女性を力仕事に招くのは気が引ける。取り繕って断ったが、彼女の方が近寄ってきたために後方へと逃げざるを得なくなった。汗臭さを指摘されてしまったら、僕はもうお終いなのだ。しかし、不健康な美しさというか、白痴美よりは凍りついていないクレープの整った顔が力に歪むのはあまり気持ちの良いものでないし、「先輩」と呼びかけてくる事は気恥ずかしいものがあり、そう呼ばれるだけの才気や人格も兼ね揃えていない事への罪悪感が心を打ち倒すようで、結局懊悩している間にクレープは取手を回し始めてしまったのであった。(アッ、白い小人がソラを飛んでる。僕は弓に矢を番えた。誰かが叫んでいる。)
不思議な事に、うんともすんとも鳴かなかった固いハンドルがスンナリ動いていた。まるで油を差したかのように、苦もなく滑らかに回していく。手を触れずとも自ずから回転しているのか……。疲れ果てて手を放した時に、ちょうど固さはとれていたのだろうか。まるっきり、ほぐれた手応えというやつを感じなかった。
ともあれ、クレープは開けてみせたのだ。蓋を解いて持ち上げ、懐中電灯で覗き込んで、まじまじと凝視してのち、彼女は息を詰まらせ、みるみる顔を蒼白させると、しなるようにのけぞって一声叫んだ。
ひどく驚いて、僕はただちに首を突っ込んだ。
焦点の逸れゆく明かりに浮かび上がったものとは、水の匂い、水面を弾く明滅とせせらぎと、人であった。僕のみぞおちと背中の付け根に言語なき悪寒が生じ、上半身をのけぞらせた。
それだけではない。奔る心臓とは裏腹に凍結する僕の目前で、クレープは穴に腕をむんずと穿ち、その“人”を引っ張り上げようとするではないか。その人間が生きているのすら、いや九分九厘正常とは言えまいその肉体を、死体を掴むなんていう荒技、僕では到底考えられない。いわゆる死後硬直の通りその肉体は信じ難く強張っているかもしれない。かつて生を営んでいた人間がマネキンのような態で硬直したまま埋蔵される戦禍映像や、ダイイングメッセージの握られた死後の拳を特殊な器具でほぐしてゆく検死医といった推理ドラマ、それらに種々の記憶が脳裏で混ざっていく。
例えば、学校で飼っていた小動物が同様の目にあって、マシュマロのように柔らかかったのがカチカチに変容していたり、水魚が腹部を暴いて川に浮かんでいたりとか。
或いは硬直後に訪れる弛緩状態に達しているかもしれない。皮膚中のコラーゲンが崩れ出してとか、腐敗ガスが発生したりして・・・という事は腐敗の程度が進んでしまっているとか、とにかく生理的嫌悪や道徳的嫌悪を産み出している根底その本体を救出してやる思いやりは毛頭もない。クレープには申し訳ないが、こればっかりは僕の幻想も役に立たず吹き飛んでいってしまう。強烈な現実を突きつけられては、僕も一介の“カタルシス人間”に過ぎないのだ。過ぎないのか。
しかし、自身として倒れている人を見捨てる事は許せない。自身を裏切るというより、むしろ自身の大切にする幻想達に面目が立たぬ。まず救急車を呼ぶべきだ。
この時、クレープが必死の形相をした。
「生きてるから。先輩、息してる」
あたかも、その言葉が薬物のように僕の目を見開かせた。瞳を大にして手許を覗き込んでみると、両脇を掴まれた人形がいて、海藻のように髪が咲き海蛇めいて顔を隠している。その指、その首筋、その様子は温もりを知覚させやしなかった。しかし、その何者にではなく、クレープの光的な言葉に瞠目する事が肝要なのだ。その言葉は僕の内在する“無害な人”としての属性をくすぐり、助けを求める。不甲斐ないばかりに及び腰となって、彼女を頼ってから決心をする人として恥ずかしい僕であったが、こちらの懺悔は後回しにして、とにかく力を貸さなければ。
意識のない人間というやつは重心を見失っているため救助活動の素人では手際が悪く、付け加えて足場は心許無い。クレープは身を乗り出してその人の顔が浸水せぬように計らうのが限界とみえて、多分に水を吸った衣服もろとも引き揚げる術に窮していた。
そこで僕は彼女の水色デイパックを思い浮かべ、とある方法に至った。
「ピーチ、ちょっと来て」
言下のうちに、僕の足許より顔を出していた。
「何かあったの、タンクの中」
ピーチは不安気だった。矢継ぎ早に言う。
「デイパックの中身を空けてくれ、急いで頼むよ」
初めて聞かせる僕の緊張した声色に、彼女は素直に応じてくれ、速やかに下っていった。
「ねえ、デイパックにロープが入っていたよね、あれとそのパックを使えば引っ張り上げられる筈」
クレープは率先して頷いた。眼前の事とデイパックが濡れる事、彼女に弁解する必要はあるまい。頭の良い人だ。
「どうすんのー」と言いながらバックを空にする桃に、収まっていたロープとパックの手渡しを指示し、彼女は緊迫した面持ちで従った。受け取ると僕は、脇を掴まれている人形然に胸からデイパックを着せ、首元に位置した吊り下げ部にロープを通し、悪戦苦闘をしてロープの一端を人形の脇の下に挟むように胸部で何重にも巻きつけた。両腕を万歳させないように両肩口、ショルダーストラップともに縛りつけ、もう一度パックの吊り下げ部に帰ってこさせ撚り合わせてやると、
「僕とピーチがロープを引っ張りながらゆっくりと降りていく。それに連れて体が上ずってゆくから、クレープはもしも、この人の首が絞められたり、腕で首を圧迫しそうになったら、僕らに知らせて」
二人は確かめ合うと僕に合意を示した。僕とピーチは結んだロープの片方を持って給水タンクから降りる。10メートルロープを前後二人で掴んでスタンバイする。クレープはタンク天辺に残って両脇を掴んで引っ張り上げ、タンクの縁に頭部が引っかからないようにしなくてはいけない。楕円形のすぼまった点検蓋に二人分の綱引き合力が人形にかかれば、頸部を痛めてしまうだろう。
足許を確認した後、持ちっぱなしで体力を削られたクレープをしばし休めるべく、僕と桃はロープを張って人形然の按配を窺ってみた。何しろ、にわかづくりであるので不信がつきまとうのだが、頼みの綱はこれしかない。時刻にも限りがある。とうに午前四時は過ぎ去っているのだろう。一生に一度の、この日だけの午前四時。僕はこの場所で何をやっているのだろう。これからどう暮らしていけば良いのだろう。どうやって死ねば良いのだろう。空を飛ぶ小人……。
人形が体温消失に陥っている事も考えられ、それでも僕らは速やかに休憩を切り上げ、当初の持ち場についた。クレープの様相からすると、別段の支障はないようだ。彼女の合図を受け、僕は大きく息を吸い込み、号令をかける。
徐々に芯を入れていく僕とピーチは、まだ色濃い闇夜を一つの電光が照らし出すクレープ目掛けて注視する。彼女の傍らに輝かせておく事により人形の容態を確認するためで、僕らの方はというと、足を踏ん張れれば周りに光はいらない。一点をみつめていれば事足りた。こんな経験は無論初めてであり、これからの人生において二度、三度とあるものなのか。僕ら以外の音は聞こえず、しかし遠く向こうの街並みではいよいよ人々の起床の気配が強まり騒がしくなってきている。こうしてロープを引っ張る様は闇夜をそうしているようである。車の排気音を、星のつぶやきを、虫の音を根こそぎ引き寄せて、この夜の属性の何もかも懐に収めて、僕は羽根の生えた子供に変身して、夜道を踊るように飛び回るのだ。民家から発する明かりは夕食の楽しさを、親の小言を、一人寂しいテレビ中継を、友達との仲直り電話音を、番犬の鳴き声を、そして古びた電柱に佇む不思議な存在を、僕は見て回るんだ。自販機の明かりで暖をとったり、黒ヴェールの校庭で逆上がりの練習したり、墓地で隠れんぼしたり、森に迷い込んでみたり、猫と会話したり、橋の下で妙な土人形を見つけたり、踏切で子守唄を聞いてみたりして、僕は夜を一人占めしたいのだ。そうできようものなら、なんて素晴らしいのだろう。“重力解放装置”は僕に黄金時代を授けてくれるのだろうか。ともに意気を合わせるピーチも、儚い後ろ姿のクレープも、皆救ってやりたいものだ。あの人形が“彼の女”の言わしめる“もう一人の女”であれば良いのだが……。赤いコート。
身体の力みとこれらの幻想とは、僕の内で擦れ違いながらも摩擦を起こさない。同居しているのにも限らず二分化されていて、眼球の捉える光景が心内において全く反映されていない。脳は命令を発し身体を労働させるのに、その監督をせず絵空事ばかり見ようとしていて、一つの元から由来しているが過程は二つとなって返ってくる、まるでパラドックスの一連であり、その事をさらに自覚しているパラドックス上にある思考が二分化の流れに跨って、総じて三分化の流れと転じると、自虐的な「僕」がその上に尚もそれらを自覚する三分化の流れに跨る四つ目の分化を作り出して、総じて四分化の流れを跨る第五の流れが――そして、これら思考万華鏡を高みの見物する朧な「私」。
労働・幻想――→パラドックスの発生(A)――→Aを自覚するパラドックス(B)―…
…―→Bを自覚するパラドックス(C)――→Cを??――→果てなし
↑極めて装飾された枠としての朧な「私」
などと、どうでも良い事を「幻想」しながら「労働」を遂行し、ついに人形然を救い上げたのだった。掌は綱目に紅白染まったが息も切れぎれ、僕と桃は卵タンクに駆けつけた。トテチテタ。
クレープはロープを解きにかかっていたが、形相は切羽詰まった険しいもので一心に指先を凝視して止まない。きつくしておいた結び目は、水を衣服いっぱい吸い込んだ人形の体重により引き絞られ、容易に緊張を和らげず、彼女は己の心を解き解すためにも乱暴に爪の先をねじ入れているようにも見て取れたのだ。
彼女の様子を見ると刃物を用意していないのが分かり、それにこの人形と面識があるらしいとも思惑でき、即座に僕も解きにかかった。挟み捻り、ロープを束ねる一糸ずつを抓む心持ちで慎重に、敢為に抉り出そうと針子のように手先を奮った。苛立ちに憔悴してしまったのか、クレープは今までの生意気そうな面相を汗の玉で、切実やるかたないと濁し、頬は引き吊り、引き結んだ唇から食い縛った前歯がうっすらと彫り込まれ、彼女の失くしきれぬ「少年らしさ」が垣間見えるのだった。そんなひたむきさに僕は恥じ入って目を逸らし、人形を解放する事のみに専念しようと思い直した。
ピーチが人形の体をすっかりタオルで拭き取る頃には縛めも全て解かれていたが、かれこれ三十分は費やしただろう、その体は血色の一切がない蒼白なままであり、本当に「マネキン」の四肢にも似た生気を感じさせない灼熱とは無縁の、冷渋の肌なのであった。まして死期が訪れたのではと、恐る恐る脈を探るクレープによれば幸い血潮は凍りついていないとのこと。しかし、死に体の女性は塩化ビニル製の人形のそれであるかのような、空気だけのスカスカした腕をしていた。
季節は秋の差し掛かりとはいえ、いつまでも放っておくわけにもいかず、とりあえず三人は人形を背負って、例の地下器具庫に引き返した。
東天が打ち寄せる白波のように、暁の尾根を滲ませていた。
時刻は、あとわずかであった。
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息抜き 三
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