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ブースの扉を潜る手前で、腰に下げたアナログ時計を見る。そろそろ今夜のステージを
勤めるバンドが店に入る時間だった。
ミュージック・パブでは、店にもよるが、配信音楽を楽しむ場を客に提供するだけでは
なく、生の演奏を聴かせるところもある。ホワイト・ウインドもその一つで、小さいなが
ら、そのためのステージも設置している。
バンドが到着すると、店員は店の奥のメイン・ミキシング・マシンを起動させ、ステー
ジの集音板全体の調整をする。
五百年前まではバンドの音を拾うのはマイクやコードだったが、現在はステージの壁面
全体が集音装置になっている。ホワイト・ウインドのステージの集音板は、ピコミクロン
のコンピュータ・チップを織り込んだ布を何枚も張り合わせ、三十センチ角の板状にした
ものである。
コンピュータ・チップがぶつかって来る音を瞬時に受け、解析して、ミキシングに流し
込む。人の脳でいうなら、聴覚ニューロンの役割をしている。集められた音はミキシング
・マシンが自動調整し、スピーカーである、ブースを除く店内全体の壁面から流れる。ま
た、客の要望に応じてスタンド席のヘッドホンや、リスニング・チェアのヘッド部分にも
音を流すことができる。
「やばい。あんまり時間がない」
本日のミキシング起動当番は晃だった。
急いでブースの扉を開け、フロアに出たところで、八木からの通信が入った。
「今、高藤区の西でエアーバスの事故があった。今日、来るはずのバンドが、そのバスに
乗り合わせていて、一人が怪我していると連絡が来た」
エアーバスの事故。晃は美鈴のことを思い出し、どきりとする。
「それじゃ、ステージは……」
『おまえ、穴を埋めろ』
「は?」
なんで、と晃が聞き返す前に、八木は通信を切ってしまった。
「なんだって……?」
穴を埋めろ、とは「おまえがステージに出ろ」という意味か。唐突な命令に、晃は頭を
抱える。
「どうかした?」
扉の近くから動かずにいたのを不審に思ったらしい浅野が、ブースから顔を出した。
「あ、いや、なんでもない」
「そう?」長身の浅野は、上から覗き込むように晃の顔を見詰める。
「なんでもないならいいけどさ。日野、困ったって顔してるよ?」
本当は困っている。この店で店長の八木の言うことは絶対だ。だが、いきなりステージ
をどうにかしろと言われても、自分にできるのは、歌うことぐらいだ。
そう考え、晃は、あっ、と思った。浅野はバルバットを持ってきている。先刻の申し出
もある。一人で歌うより、浅野と組んでしまうほうが、格好もつく。
「なあ、浅野。俺の歌を聞きたいって、本気?」
「もちろんだよ。なに、組んでみる気になった?」
「え、ああ……。一回だけ、試しになら」
まだ事情を知らない浅野は、「やった」と手を打って喜んだ。
「いつがいい? 俺明日なら三限で終わりだから、ジェノバに卓郎たちも呼んで……」
「いや、今日。ここで」
「今?」
浅野が驚いて聞き返す。それはそうだろう。さんざん嫌だとぬかしていたのに、突然、
手のひらを返したように、しかも今ここで歌うと言い出したのだから。
「実は、今日これからステージに出るはずだったバンドが、エアーバスの事故で来られな
くなったんだ。で、店長が別のバンドを手配するまでの繋ぎを、俺にやれって言っててさ
……」
「ああ、そういうことなんだ。それで日野、困った顔してたんだ。いいよ、俺は。日野と
組めるんだったら、何だって」
浅野は笑って「ちょっと待ってて」とブースへ戻った。