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バラの花に顔を近付け、綻びかけた花の匂いを確かめていたコリンの体が、突然ぐらり
と頽れた。
驚いて「コリン!」と叫び、晃は跳ねるように駆け寄った。コリンは、地面に両膝を着
き、俯いて両手で胸を押さえている。
「大丈夫か!?」苦しそうに荒い息使いに大きく揺れる細い肩を、晃は屈んでそっと掴んだ。
「は……い。心臓が……、合わなくて、時々こうなりますけど……。すぐに、治ります、
から……」
上がる息の合間に、途切れ途切れに答えるコリンに、晃はおろおろと見守る。
「飯山先生、呼ぼうか?」晃の後ろからコリンの様子を覗き込んだ浅野が、最新式の音声
入力形イヤホンテルを起動させた。
「あの先生の番号、聞いてたのか」
「コリンを預かる時に。こういう異変が起きたら困ると思ってさ」
浅野は「手回しいいだろ」と親指を立てると、飯山医院の番号を、読み上げた。
塔経市では、通話は全て電話会社のメイン・コンピュータに記録される。市民の通話を
公安局がチェックするためである。
公安局はテロ対策と称しているが、三十年以上に亘って一党独裁を続けている市政は、
与党に反対する勢力の早期押さえ込みのために通話記録を利用しているのは、明白だ。
飯山医師の応答を待つ浅野に、だが、コリンが中断を求めた。
「先生を、お呼びしなくても……、大丈夫です」
苦しさに伏せられていた赤い目を、コリンはきっ、と上げた。
「もう、ほとんど治まって来ました」
「でも、まだ顔色が悪いよ?」
戸惑った表情の浅野に対し、蒼白な顔のままコリンはもう一度、はっきりと強い声で
「大丈夫です」と繰り返した。
「そう? 君がそこまで言うなら、いいけど」
心配そうな顔を崩さぬまま、浅野はイヤホンテルのダイヤルを止めた。
「まあ、先生も忙しいだろうしね。外縁から中奥までじゃあ、距離もあるし……」
「とにかく、中へ入ったほうがいい」
晃はコリンを立ち上がらせると、離れに入った。長椅子にコリンを掛けさせて、自分は
その脇に腰を下ろした。
「落ち着いたか?」と聞いた晃に、コリンは俯いたまま「はい」と頷いた。
白い顔を、晃はそっと覗く。よほど苦しかったのだろう、切り揃えた前髪の幾筋かが、
汗で額に貼付いている。
晃は、幼い頃やはり汗を掻いて額に貼付いた妹の髪を上げてやった時のように、コリン
の額に手を伸ばした。ひやりと湿った感触が手のひらに伝わるのと同時に、顔を上げたコ
リンが淡く笑った。
はにかんだ笑顔が、美鈴と重なる。
急速に胸に広がる切なさに、晃はコリンの額から手を離した。
どうしてなのか。最初にコリンを介抱した時も、白く細い体に懐かしさを覚えた。
当時の懐かしさは、今こうして改めて思い返すと、妹と接している時の感覚に酷似して
いる。
柔らかくて、やさしい、清々しい感じ。
コリンと美鈴は、容姿も年齢も全く違う。なのに、どうして既視的な印象を受けるのか。
理解できない自分の感覚に、表情を厳しくして黙り込んだ晃を、コリンが不思議そうに
見詰める。
端で見ていた浅野が、晃の変化に気付き、「どうしたんだ?」と、椅子の前にしゃがん
だ。
「いや……。何でもない」
漠然とした気持ちを、言葉に纏めて人に伝えるのは難しい。
晃は、もどかしさと胸を締める切なさを振り払いたくて、長い髪をわざと乱暴に振り、
立ち上がった。
「俺、帰るわ」
「え? おい、日野!」
出口に向かった晃を、浅野が呼び止めた。が、晃は無視して離れを出た。