7
それにしても、匂いが気になり出したのがいつ頃からなのか、自分でも記憶がない。
顔をしかめたままカップに口を付けない晃に、浅野は「無理に飲まなくていいよ」と軽
く笑う。
「コーヒーは置いといて。コリンなんだけど、あの反応は、解離性同一性障害じゃないか
と思うんだけど」
解離性同一性障害に罹る患者は、幼児期に強度の心的外傷を受けた者が大半である。
また、近年では精神科の診療目的で、薬物により解離性同一性障害を引き起こす場合が
ある。この治療法は、主に強い精神的損傷を負い、このままでは自殺など一命に関わると
医師が判断したときのみの適用である。心的外傷を抱えた人格を主人格から切り離すこと
で、心の安定を図り、治療する。
浅野の意見に、だが晃はズレを感じた。
「そりゃ、違う気がする。あの喋り方は、暗示じゃないのか?」
「暗示? 催眠療法かなにかで、思い出さないようにしているってこと?」
「たぶん」
「ふうん……」と、浅野は考え込むように天井を仰ぐ。晃は前屈みになると、両手を膝の
上で組んだ。
「どっちにしても、コリンを傷付けた奴は、なにか途轍もなくやばいことをやってる。で
なければ、コリンの記憶を封じたりはしないはずだ」
「南外縁のマフィアよりも拙い相手かも?」
「……わからないけど、もしかしたら」
浅野は、難しい表情で立ち上がると、部屋の大半を占領しているミキシング・マシンの
前に行った。機械の脚に立て掛けてあったバルバットを手に取った。
「浅野のお父さんには、大変なことをお願いしちゃったのかもな」
俯いた晃に、浅野は「そんなことはないよ」と、優しく笑んだ。
「父は、考えなしで何かする人じゃない。コリンの話を俺がした時、ちょっと考えてから
『うちに連れておいで』って言ったんだ。仕事の話は、立場上、家では絶対にしないけど、
あれは間違いなく仕事絡みで、なにか思惑があるってふうだった」
公安局の副局長という立場がどんなものか、晃には、はっきりとした見当は付き兼ねる。
が、大きな役職であり、重責を担う浅野の父が無闇に見ず知らずの少女を、しかも、い
わくのありそうな人間を、匿うはずがない。
「とにかく、しばらくはコリンのことは、うちに任せてくれよ。大丈夫だから」