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真樹区の外縁には、古い建物をそのまま使用した繁華街が広がっている。
二百年前の人口激減から現在まで、周期的に流行するレリア・ウイルスのせいで、塔経
市の人口は一向に増えない。レトロ・ウイルスであるレリア・ウイルスは目まぐるしく変
異をし、特効薬が作りにくいのが、その一因である。
当時の半分となった人々は、真樹区からこの外縁を隔てた、新しい中心地である中奥区
に、多くが居住している。中心地の真樹区を放置している理由は、地下に埋葬された当時
の死体からも接触感染するという、レリア・ウイルスの特異性のためだ。
健全に暮らす人たちには、真樹区外縁、特にここ南外縁には、殆ど近寄らない。
ここに集まる者たちは、過去に犯罪を犯していたり、また他言できない理由で日の当た
るところから転げ落ちた者である。彼等は、ビル地下に眠る忌わしき過去の記録からの贈
り物に、日々びくびく怯えながら生きている。
一年前の妹の死を切っ掛けに大学を退学した晃も、まともな職場では相手にしてもらえ
ず、南外縁で就職先を見つけた。
晃が今、アルバイトで働いているのは、『ホワイト・ウインド』という名の、ミュージ
ック・パブである。晃は、このパブで店員として働いている。
十年ほど前から増え始めたミュージック・パブだが、その背景には音楽の聞き方の変化
があった。当時、精神安定効果パターンを組み込んだニューエイジ・ミュージックが全盛
になった。
同時に携帯用のヘッドホンに、微弱電磁パルスと骨伝導を組み合わせて、脳の聴覚神経を
直に刺激する装置が組み込まれた。この方式採用により、これまで可聴レベル外であった
音域も音として捉えることが可能になった。同時に、音域が広がったことでより複雑な楽
曲も増えた。
しかし、脳にダイレクトに多大な刺激を与えることは、同時にその部位の細胞に過剰な
負荷を掛ける結果にもなった。
ブレイン・ダイレクト・ヘッドホンの使用者が、ある日突然、感音性難聴になるという
事例が相次いだ。
また、歩行中に携帯用ステレオ機器で映像や音楽を視聴し事故に遭う事例が多発。屋外
での携帯用ステレオ機器の使用は、周囲の状況の把握が困難であり危険であると結論付け
られた。
そのため、塔経市ではブレイン・ダイレクト・ヘッドホン、及び携帯用ステレオ機器の
販売、使用を禁止した。
屋外での携帯音楽機器が全面禁止となったため、市民は自宅かミュージック・パブのよ
うな場所でしか、音楽や映像を鑑賞できなくなった。
パブでの選曲は、まず各席に設置された配信用機器に遺伝子コードを読み込ませて行う。
塔経市に住む全ての住民が市の中央コンピュータにあらゆる個人情報を登録しており、I
Dコードによって書き換えや閲覧ができる。
音楽配信機器の遺伝子コードの読み込み方法は機械よって異なるが、ホワイト・ウイン
ドに置いてある機械は、大体のものが手の静脈から読み取るシステムを採用している。
コードを読み取った機器は、コンピュータにバンクされている本人のID情報の中から、
音楽配信履歴と新譜情報にアクセスする。両方をディスプレイに提示し、客は操作パネル
で好みの曲を選択する。
配信機器は、店内半分を占めるスタンド席と、リスニング・チェアの二種類。その他に
二つ、個室ブースがある。
選んだ曲を楽しむだけならスタンド席で十分である。リスニング・チェアは、長距離エ
アーバスのシートのように足まで載せられる長椅子で、上半身が半円の透明セラミック・
スクリーンに覆われる。
スクリーンには楽曲のビデオクリップのほか、コンピュータが自動的に音楽に合わせ選
んだ映像や、客が自身で選んだ映像を映し出せる。また映画サイトへアクセスを行えば、
好きな映画も鑑賞できた。音は長椅子のヘッド部分のスピーカーから流れるが、半円スク
リーンは防音装置も兼ねているので、外に音が漏れることはない。
中奥区では過去に流行ったものを改良した、脳に打撃がない程度の電気信号を使用した
新型ブレイン・ダイレクト・ヘッドホンが流行り出しているという。今度のヘッドホンは
音楽だけでなく、視覚神経にも働き、同時に映像もスクリーンなしでダイレクトに見るこ
とができるらしい。
真樹区の南外縁では、大多数のミュージック・パブが、中古のヘッドホンや、リスニン
グ・チェアを使用している。ただし、非合法で営業している店は、最新型の機器を購入し
ているようだ。