5
浅野が、開いていなかった窓も全開にした。部屋の中に、一挙に春の風が、山桜の花び
らを伴って吹き込む。
「歌うのは構わないんだけど……。その前に聞いてもいいかな?」
じっと見つめて来るコリンの目を見返しながら、晃は尋ねた。
「俺らの店に来る前のことなんだけど、君、本当に何も覚えてないのか?」
同じ質問を、コリンが回復してすぐに八木がした。だが、コリンはその時は「わからな
い」と返答した。
南外縁のマフィアが絡んだ事件に巻き込まれているのだとすれば、話せば殺す、などと
脅されたりもしているのかもしれない。
「相手が何者なのかが特定できれば、コリンを守り易いのだが」と、八木は言う。
晃も、八木と同意見だった。敵が判らなければ、どういう警戒をしていいかわからない。
コリンは、覗き込む晃の顔から目線を逸らし、「わかりません……」と呟いた。
「何でもいいんだけどな。例えば、君を傷付けた相手の人相とか」
「それは……」言いよどみ、コリンは薄い朱の唇を引き結ぶ。次に口を開いた時、コリン
の声音が、がらりと変わっていた。
「ソレハ、再生シテハナラナイ事象デス。危険域ニ抵触スルノデ、オ答エハ、デキマセン」
低い女性の声。簡易学習型コンピュータのアナウンスのような抑揚のない口調。
何より、がらりと変わったコリンの気配に、晃は驚いて目を見開き、浅野の顔を見た。
浅野は片目を瞑り、両手の人差し指でバツを作った。
晃はそっと頷くと、コリンに向き直る。
「あー……、ごめん。悪かった。今の話は忘れてくれ。あっと、歌、だよな? うん、オ
ッケー」
コリンがゆっくりと顔を上げた。
晃は、再びじっと見詰めて来るコリンの気配が元に戻っているのを確認すると、内心で
ほっと胸を撫で下ろす。
ゆっくりコリンから目を離し、窓に向かって歌い出した。よく響くハスキーボイスが部
屋を満たす風に乗り、旋回して、窓から居並ぶ高木の間へ、ひと際高いヒトツバタゴの梢
へと消えていく。
晃を見つめたまま聞いていたコリンは、歌声が止むと、ふっと目を閉じた。隣で、浅野
が感嘆する。
「やっぱり、いい声だよなあ。なあ、本気でプロを、考えない?」
「何度も言わせるなよ」
晃は腰に手を当て、唇を尖らせる。
「俺は、プロになりたくて歌ってるわけじゃない。好きだから……、妹がこの歌が好きだ
ったから、歌ってるだけだ」
「妹……」ふっとコリンが呟いた。晃はコリンを振り返る。
「妹さんが、好きだったんですか?」
「え? ああ。そうなんだけど……」
「どんな、人だったのですか?」
抑揚のない声とは逆に、コリンの赤い瞳は好奇心と、少しの怯えをたたえている。
「どんなって……」
晃は顎に拳を当てる。そういえば、考え事をする時の晃のこの癖を、美鈴は「おじさん
みたい」と笑っていた。
「明るい、元気な娘だったよ。スポーツも音楽も好きで、しょっちゅう飛び歩いてた」
コリンは「そうですか」と声を落とし、俯いた。その様子がひどくがっかりしているよ
うに見え、晃は妙な罪悪感を覚える。
「とにかく……、元気になってよかった。店長にも、君がずいぶん回復したって伝えとく」
もう少し気が利いた挨拶は言えないのかと自分で反省しつつ、晃はコリンの元を後にし
た。