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鬱蒼とした緑の青臭い臭いが、鼻をつく。人一人がやっと通れる幅に敷石が埋められた
だけの簡素な遊歩道を、晃は浅野と前後して歩いた。
「店長がさ、こっちでもまたミュージック・パブをやるって、言い出してるらしいんだ」
晃は、軽い調子で切り出した。
本音をいうと、迷いがあった。《羽化しても生き残った人》の一人だと分かった浅野に
対し、体の話題に触れてもいいものだろうか?
しかし考えて、晃は避けた。
「《B—2》……、じゃない、笠井二等官の情報を集めるためと、浅野のお父さんに頼ま
れた、俺の護衛のために店をやってたのかと思ってたんだけど、意外とああいう仕事、好
きみたいでさ。——八木さんの顔からは想像できないけど」
苦笑混じりに話した晃に、浅野は「うん」と、微笑んだ。
「……俺、正式に大学を退学したよ」
浅野の唐突な話に、晃はびっくりして振り返った。
「何で? 奥平先生と中央が和解したんだ。また戻ればいいだけじゃんか?」
「体のこと……。柳原博士の研究に協力もしたいし。何より、やりたい目標ができたんだ。
で、そのことで昨日、柳原博士に相談してた」
笑みを崩さず、しかし断固とした口調で、浅野は言葉を続けた。
「音楽を、本格的にやりたいなと思って。……それで、なんだけどさ。日野、本当に、一
緒にやらないか?」
晃は一瞬、絶句する。
浅野が音楽を本気で好きなのは、ホワイト・ウインドで競演した時に、分かった。バル
バットの演奏の腕も、耳に残るほどに、群を抜いている。
無論、晃も歌うのは好きだ。だが、オリジナルの《尋香》として覚醒した自分の『声』
は、聞く人に、心地よさよりも害を与えはしないか?
答えに迷う晃に、浅野は更に言った。
「昨日、柳原博士に会う前に、実は八木さんと、笠井元二等官に会ったんだ。笠井さん、
もうすっかり元気になってたよ。……センタービルで、マイクロ・バイオ・コンピュータ
が日野の『声』でフリーズしてしまう直前、笠井さんは、天使を見たって言ってた。恐ら
く、混乱したコンピュータ・システムが、見えるはずのない映像を送って寄越したんだろ
うけど。でも、その天使が、とても綺麗で、自分が日野の『声』によって命を落とすかも
しれない、なんてことは、思い浮かばなかったって」
晃は、内心で戦いた。
晃にとっての天使は、美鈴だった。美鈴の『形見』だったコリンを失う光景を目の当た
りにしての『声』の覚醒だったので、波動の中に美鈴の、『天使』のイメージを晃は無意
識に含ませていたのかもしれない。
とすれば、笠井元二等官が見た『天使』の映像は、コンピュータの誤作動ではなく、晃
のイメージが『声』によって伝えられ、表現されたものだ。
人々に、己の意志を強く焼きつけてしまう自分の『声』に、晃は再び恐怖を抱く。
「俺……、やっぱり、歌えない」
自分自身への恐怖心に喘ぎながら、晃は呟いた。
更に森の奥へ、足早に向かう晃の背を、浅野の真剣な声が追い掛けてくる。
「『声』なら、気にすることはないって、柳原博士も言ってた。訓練すれば、きっと普通
に歌えるようにもなるって」
晃は、逃げ出したい気持ちを抱え、振り向かずに進んだ。
やがて、折り重なるように茂っていた木々が途切れた。観察用に人為的に作られた小さ
な広場に、晃は足を踏み入れた。




