第5話 影が重なる瞬間
佐伯慎一は、鏡の前で固まっていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、
彼の顔を白く照らしている。
その顔は、まるで別人だった。
目の下のクマはさらに深く、
頬はこけ、
唇は乾き、
目だけが異様にギラついている。
「……今日だ……」
呟いた瞬間、
胃の奥がぎゅっと縮んだ。
喉が乾いている。
手が震えている。
足が冷たい。
——本当にやるのか?
——本当に今日なのか?
昨日の夜、何百回も覚悟を決めたはずだった。
だが、朝になってみると、
その覚悟は砂のように崩れ落ちていた。
佐伯は洗面台に手をつき、
深呼吸をした。
「……大丈夫……大丈夫……」
声は震えていた。
***
出勤のために家を出ると、
冬の冷たい空気が肺に刺さった。
会社へ向かう道は、
いつもと同じはずなのに、
今日はまるで別世界のように感じた。
通勤する人々の顔が、
全員“自分を疑っている”ように見える。
——見られている。
——気づかれている。
——今日のことを知っている。
そんなはずはない。
だが、恐怖がそう思わせた。
会社に着くと、
いつものように挨拶を交わす同僚たちがいた。
「おはようございます、佐伯さん」
「……お、おはよう……ございます……」
声が裏返った。
同僚が不思議そうに首をかしげる。
——怪しまれた?
——バレた?
心臓が跳ね上がった。
***
午前中の仕事は、
ほとんど手につかなかった。
パソコンの画面が二重に見える。
手が震えてキーボードが打てない。
書類を落とし、
ペンを落とし、
椅子から立ち上がるときに足がもつれた。
同僚が心配そうに声をかけた。
「佐伯さん、今日ほんとに具合悪そうですよ。無理しないほうが……」
「だ、大丈夫……です……」
大丈夫ではなかった。
だが、
今日休むわけにはいかなかった。
——今日休んだら、怪しまれる。
——今日やらなければ、もう一生できない。
恐怖と義務感が、
佐伯を椅子に縛りつけた。
***
昼休み。
佐伯は弁当を食べるふりをしながら、
村井の動きを観察していた。
村井は、いつものように後輩をからかい、
笑い声を上げている。
その笑い声が、
佐伯の耳に刺さった。
——こいつは、今日死ぬんだ。
その事実が、
彼を震えさせた。
恐怖か。
罪悪感か。
それとも、安堵か。
自分でも分からなかった。
村井が給湯室へ向かう。
佐伯は立ち上がり、
その背中を目で追った。
——今日で終わる。
——今日しかない。
だが、
足が震えて動かなかった。
凡人の身体は、
覚悟に追いついていなかった。
***
午後。
仕事が終わる頃には、
佐伯の手は汗で濡れ、
心臓はずっと早鐘を打っていた。
定時になると、
村井はいつものようにコートを羽織り、
同僚に軽く手を振って会社を出た。
佐伯は、
その背中を見つめながら立ち上がった。
——行くしかない。
震える足で、
ゆっくりと会社を出た。
外は冷たい風が吹いていた。
街の灯りが滲んで見える。
佐伯は、
村井の後をつけるように歩いた。
距離を取り、
視線を逸らし、
足音を殺しながら。
凡人が、
必死に“犯罪者のふり”をしていた。
***
村井は、
いつもの裏路地へ向かった。
飲み屋が並ぶ細い道。
街灯が斑に照らす暗い路地。
監視カメラの死角。
佐伯は、
その路地の入口で立ち止まった。
喉が乾いている。
手が震えている。
足が冷たい。
——ここだ。
——ここでやる。
だが、
身体が動かなかった。
「……怖い……怖い……」
呟きが漏れた。
そのとき、
路地の奥から笑い声が聞こえた。
村井の声だった。
佐伯は、
ゆっくりと路地に足を踏み入れた。
街灯の光が背中に当たり、
影が長く伸びる。
路地の中央——
監視カメラの死角。
そこに立つと、
自分の姿が闇に溶けた。
佐伯は、
ポケットに手を入れ、
工具の感触を確かめた。
手が震えている。
汗で滑りそうだ。
——大丈夫か?
——本当にできるのか?
そのとき、
バーの扉が開いた。
村井が出てきた。
スマホを見ながら、
鼻歌を歌っている。
佐伯の心臓が跳ねた。
——来た。
村井は、
ゆっくりと路地を歩き始めた。
佐伯のほうへ向かってくる。
距離が縮まる。
足音が近づく。
呼吸が荒くなる。
——今だ。
——やるしかない。
佐伯は、
震える手で工具を握りしめた。
村井が、
目の前を通り過ぎようとした。
その瞬間——
佐伯は、一歩踏み出した。
闇の中で、
二人の影が重なった。




