第4話 決行前夜の静寂
決行前日の夜。
佐伯慎一は、部屋の電気をすべて消し、
真っ暗な部屋の中で膝を抱えていた。
窓の外から、遠くの車の音が聞こえる。
冷蔵庫のモーター音が、低く唸っている。
時計の秒針が、やけに大きく響く。
——全部、音が怖い。
普段なら気にも留めない生活音が、
今の佐伯には“自分を監視する音”に聞こえた。
「……大丈夫……大丈夫……」
暗闇の中で呟く。
声は震え、喉が乾いていた。
凡人が、完璧を求めすぎて壊れかけていた。
机の上には、
犯行に使う工具が置かれていた。
分解され、
指紋を拭き取られ、
何度も確認され、
何度も袋に入れられ、
何度も取り出されてはまた拭かれた。
佐伯は、工具を手に取り、
光にかざして確認した。
——指紋はない。
——汚れもない。
——問題はない。
だが、心は落ち着かなかった。
「……本当に……大丈夫か……?」
工具を置き、
また手に取り、
また拭いた。
その動作を、
何十回も繰り返した。
凡人の“完璧”は、
いつまでも終わらなかった。
深夜0時。
佐伯は、犯行現場となる路地の地図を広げた。
・街灯の位置
・監視カメラの角度
・死角の範囲
・逃走ルート
・人通りの少ない時間帯
・雨の日の音の反響
・足音の響き方
・村井の歩く速度
・村井の癖
・村井のスマホを見るタイミング
すべてが書き込まれていた。
地図は、
もはや“犯罪計画書”というより、
“恐怖の記録”だった。
佐伯は、地図を見つめながら呟いた。
「……完璧だ……完璧にした……」
だが、胸の奥では別の声が囁いていた。
——本当に?
——何か見落としていない?
——完璧なんて、あり得るのか?
その声が、
佐伯の心を締め付けた。
深夜1時。
佐伯は、鏡の前に立った。
自分の顔を見て、
息を呑んだ。
目の下には深いクマ。
頬はこけ、
唇は乾き、
目だけが異様にギラついている。
「……誰だ……これ……」
鏡の中の自分が、
自分ではないように見えた。
凡人が、
“犯罪者の顔”になりつつあった。
佐伯は鏡から目をそらし、
洗面台に手をついた。
手が震えている。
足も震えている。
呼吸が浅い。
「怖い……怖い……」
その言葉が、
口から勝手に漏れた。
深夜2時。
佐伯は、ベッドに横たわった。
だが、眠れなかった。
天井を見つめながら、
何度も計画を反芻した。
・村井が店を出る時間
・路地の死角
・工具を取り出すタイミング
・声を出させない方法
・倒れた後の処理
・逃走ルート
・帰宅後の証拠処理
・アリバイの成立
・SNSの予約投稿
・靴底の摩耗
・服の着替え
・工具の処分
・帰宅後のシャワー
・証拠の焼却
頭の中で、
何百回もシミュレーションした。
だが、
そのたびに不安が増した。
——本当に大丈夫か?
——何か見落としていないか?
——完璧か?
完璧なはずだった。
だが、完璧に見えるほど、
不安は膨らんだ。
凡人が、完璧を求めるほど、
恐怖は増す。
佐伯は布団を握りしめ、
震えながら呟いた。
「……怖い……怖い……でも……やるしかない……」
深夜3時。
佐伯は、突然起き上がった。
胸が苦しい。
呼吸ができない。
心臓が早鐘のように打っている。
——パニックだ。
彼は胸を押さえ、
床に座り込んだ。
「……やめるか……?」
その考えが頭をよぎった。
——やめれば、楽になる。
——やめれば、怖くない。
——やめれば、普通の生活に戻れる。
だが、
すぐに別の声が囁いた。
——戻れない。
——村井はまたお前を潰す。
——お前はまた苦しむ。
——終わらせなければ、終わらない。
その声が、
佐伯の胸を締め付けた。
「……やる……やるしかない……」
彼は震える手で顔を覆い、
涙をこぼした。
凡人が、
恐怖と怒りに追い詰められていた。
深夜4時。
佐伯は、ようやくベッドに戻った。
だが、眠れなかった。
天井を見つめながら、
ただ時間が過ぎるのを待った。
時計の針が進むたび、
心臓が締め付けられた。
——あと何時間で、すべてが終わる。
その事実が、
彼を震えさせた。
朝6時。
外が明るくなり始めた。
佐伯は、
一睡もできないままベッドから起き上がった。
鏡の前に立つと、
そこには“決行前の男”の顔があった。
「……今日だ……」
呟いた瞬間、
全身が震えた。
だが、
もう後戻りはできなかった。
凡人が、
完璧を装いながら、
恐怖に押しつぶされそうになりながら、
決行の日を迎えた。




