第2話 完璧という幻想
佐伯慎一は、会社の給湯室で紙コップにコーヒーを注ぎながら、
背後に気配がないか何度も確認した。
——誰もいない。
——大丈夫だ。
そう思っても、心臓は落ち着かない。
胸の奥で、ずっと小さなエンジンが回り続けているようだった。
彼は紙コップを持つ手をそっと机に置き、
ポケットから小さなメモ紙を取り出した。
そこには、今日の“観察項目”が書かれていた。
・村井の昼休みの行動
・会議後の動線
・帰宅時間の変動
・周囲の人間関係の変化
・最近のストレスの有無
まるで、犯罪者の行動分析のようだった。
だが、佐伯にとっては“必要最低限”だった。
「……これくらい、普通だよな」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、普通ではなかった。
彼はそれを理解していなかった。
昼休み。
佐伯は弁当を食べながら、視線だけで村井を追った。
村井は今日も、後輩をからかって笑っている。
その笑い声が、佐伯の耳に刺さる。
——あいつは変わらない。
——何も反省しない。
その事実が、佐伯の決意を強めた。
村井は、昼休みが終わるとトイレに寄り、
その後、必ず給湯室でコーヒーを淹れる。
その間、約7分。
佐伯はその7分間を、毎日ストップウォッチで計測していた。
スマホの画面を見つめる手は汗で湿り、
何度も拭きながら時間を記録した。
「6分42秒……昨日より少し早い」
小さく呟く。
その声は震えていた。
凡人が、必死に“完璧”を追い求めていた。
ある日、佐伯は村井の後をつけて、
会社近くの裏路地に入った。
そこは、飲み屋が並ぶ細い道で、
夜になると酔客が増えるが、
平日の夕方は人通りが少ない。
佐伯は、路地の奥にある古いバーの前で立ち止まった。
——ここだ。
村井が週に2回通う店。
店主と仲が良く、いつも同じ席に座る。
店を出る時間もほぼ一定。
佐伯は、店の前の街灯の位置を確認し、
監視カメラの角度を見て、
死角になる場所を探した。
路地の中央あたりに、
ちょうどカメラの映らない“影”があった。
そこに立つと、
自分の姿が完全に闇に溶ける。
佐伯は息を呑んだ。
——ここなら、できる。
だが同時に、
背中に冷たい汗が流れた。
“できる”という現実が、
彼を恐怖させた。
その夜、佐伯は自宅で地図を広げ、
路地の構造を細かく書き込んだ。
・街灯の位置
・監視カメラの角度
・逃走ルート
・人通りの多い時間帯
・雨の日の音の反響
・足音の響き方
凡人が、ここまでやる必要はなかった。
だが、佐伯には必要だった。
「怖い……怖い……」
地図に書き込みながら、
彼は何度も呟いた。
恐怖が、彼を異常なほど慎重にさせていた。
準備はさらにエスカレートした。
佐伯は、犯行に使う工具を買うため、
ホームセンターに向かった。
工具売り場の前で、
彼は30分以上立ち尽くした。
——どれがいい?
——どれなら痕跡が残らない?
——どれなら自分でも扱える?
彼は手に取っては戻し、
戻してはまた手に取った。
店員が不審そうに近づいてきたとき、
佐伯は心臓が止まりそうになった。
「何かお探しですか?」
「い、いえ……ちょっと……」
声が裏返った。
店員は怪訝な顔をしたが、
それ以上は追及しなかった。
佐伯は、汗で濡れた手をズボンで拭きながら、
ようやく工具を選んだ。
分解できて、
持ち運びやすく、
音が出ないもの。
凡人が選ぶには、あまりにも“犯罪的”な工具だった。
だが、佐伯はそれをレジに持っていき、
震える手で会計を済ませた。
袋を持つ手が、ずっと震えていた。
帰宅後、佐伯は工具を分解し、
一つずつ指紋を拭き取った。
アルコールティッシュで何度も何度も拭き、
光にかざして確認し、
また拭いた。
「……これで大丈夫……これで……」
だが、心は落ち着かなかった。
彼は工具をビニール袋に入れ、
さらに新聞紙で包み、
さらにジップロックに入れ、
さらに靴箱の奥に隠した。
——やりすぎだ。
——でも、怖い。
その繰り返しだった。
準備は、日常生活にも影響を与え始めた。
・夜眠れない
・食欲がない
・会社でのミスが増える
・人の視線が気になる
・物音に敏感になる
同僚に「最近疲れてる?」と聞かれると、
佐伯は笑ってごまかした。
だが、内心はこう思っていた。
——バレた?
——何か気づかれた?
そのたびに、
心臓が跳ね上がった。
決行の3日前。
佐伯は最後の“リハーサル”をした。
夜の路地に立ち、
村井が歩くであろう位置を想定し、
自分の動きを確認した。
・背後から近づく速度
・工具を取り出すタイミング
・声を出させないための角度
・倒れた後の処理
・逃走ルートへの移動
何度も何度も繰り返した。
そのたびに、
手のひらは汗で濡れ、
呼吸は荒くなった。
「怖い……怖い……でも……やるしかない……」
凡人が、恐怖に追い詰められ、
完璧を装おうとしていた。
そして、決行の日が迫っていた。




