第10話 最後の穴
控訴審の法廷。
佐伯慎一は、弁護士の隣で深呼吸をした。
弁護士は静かに言った。
「佐伯さん。
“心拍数の上昇”は犯行の証明になりません。
これは絶対に崩せます。」
佐伯は、
その言葉にわずかな希望を感じた。
——まだ……終わってない。
***
検察官が主張する。
「被告人は犯行時刻に“激しい運動”をしていた。
これは犯行の裏付けである。」
弁護士は即座に反論した。
「心拍数の上昇は、
運動、ストレス、恐怖、パニック、
あるいは単なる体調不良でも起こります。
犯行の物理的証明にはなりません。」
裁判官たちが頷く。
傍聴席がざわつく。
佐伯は胸の奥で祈った。
——頼む……
——これで……逆転してくれ……。
弁護士はさらに畳みかけた。
「被告人は“睡眠中のふり”をするために
SNS予約投稿をしていましたが、
それが偽装であることと、
“殺人を行った”ことは別問題です。」
裁判官の表情が変わる。
検察官は、
少し焦ったように資料をめくった。
佐伯は、
胸の奥に光が差すのを感じた。
——いける……
——これは……いける……!
***
だが——
その瞬間、検察官が静かに言った。
「では……
“物理的証拠”を提示します。」
佐伯の心臓が跳ねた。
弁護士が眉をひそめる。
「……物理的……?」
検察官は、
机の上に透明な袋を置いた。
中には——
佐伯の“手袋”が入っていた。
佐伯は、
その瞬間、呼吸が止まった。
「……え……?」
検察官は淡々と説明した。
「犯行現場近くのゴミ箱から、
この手袋が発見されました。」
弁護士が反論する。
「手袋など、誰のものか——」
検察官は遮った。
「被告人の汗と皮脂が、
内側から検出されました。」
佐伯の視界が揺れた。
——そんな……
——そんなはずは……
——俺……
——手袋……捨てた……?
検察官は続けた。
「さらに——
手袋の外側から、
被害者の血液が検出されています。」
傍聴席がざわつく。
弁護士は青ざめた。
「……ま、待ってください……
手袋は……
現場に残っていた……?」
検察官は頷いた。
「ええ。
被告人は“完璧に処分したつもり”だったのでしょうが……」
資料をめくる。
「犯行後、パニック状態で
“ゴミ箱のフタの上”に置いたまま忘れていたようです。」
佐伯は、
椅子の上で崩れ落ちた。
——そんな……
——そんな馬鹿な……
——俺……
——そんな……
——そんな凡ミスで……?
検察官は淡々と告げた。
「位置情報でも、心拍数でもない。
あなた自身の汗と皮脂と、
被害者の血液が付着した手袋。
これが“物理的証拠”です。」
佐伯は、
震える声で呟いた。
「……俺……
そんな……
そんなことで……?」
裁判官は静かに言った。
「控訴を棄却します。」
佐伯の世界が、
音もなく崩れ落ちた。
——俺は……
——俺は……
——手袋を……
——ただのゴミ箱の上に……
——置き忘れただけで……。
***
だが、
それこそが——
凡人の完全犯罪の“最後の穴”だった。




