第1話 恐怖の始まり
佐伯慎一は、夜のコンビニの明かりを背に、ゆっくりと深呼吸した。
冬の空気は冷たく、肺の奥まで刺すように入り込む。
だが、その痛みがむしろ心地よかった。
自分が“生きている”という実感が、ようやく戻ってくるからだ。
——今日も、何も起きなかった。
そう思うたび、胸の奥に小さな安堵が生まれる。
そして同時に、胃のあたりに重い石のような不安が沈む。
半年間、佐伯は毎日この感覚を味わっていた。
会社の帰り道、コンビニの前で立ち止まり、
「まだ誰にも気づかれていない」
「まだ計画は露見していない」
そう確認する儀式のようなものだった。
彼は凡人だった。
特別な才能もない。
仕事も中の下。
人間関係も広くない。
恋人もいない。
趣味もない。
ただ、ひとつだけあった。
——恐怖。
それだけは、誰よりも強かった。
だからこそ、彼は“完璧な計画”を立てる必要があった。
恐怖を消すために。
自分を守るために。
そして、村井を殺すために。
村井——同じ部署の男。
表向きは明るく、誰とでも話す。
だが裏では、弱い者を見つけては弄ぶタイプだった。
佐伯は、何度もその標的にされた。
書類のミスを押し付けられ、
会議でわざと恥をかかされ、
上司に嘘の報告をされ、
昼休みには陰で笑われた。
最初は我慢した。
次に、距離を置いた。
それでも村井は追ってきた。
まるで、佐伯の反応を楽しむかのように。
ある日、佐伯は気づいた。
——このままでは、自分が壊れる。
その瞬間、彼の中で何かが静かに切れた。
計画は、最初は曖昧だった。
「事故に見せかけられないか」
「誰にも気づかれずにやれないか」
そんな漠然とした考えだった。
だが、村井の嫌がらせが続くにつれ、
佐伯の思考は次第に具体的になっていった。
・村井の行動パターン
・帰宅ルート
・飲みに行く曜日
・立ち寄る店
・歩く速度
・スマホを見る癖
・周囲の監視カメラの位置
最初はスマホのメモに書いていた。
だが、ある日ふと気づいた。
——これ、もし誰かに見られたら終わりだ。
その瞬間、佐伯は震えた。
スマホを握る手が汗で濡れ、
心臓が喉の奥までせり上がってきた。
彼はすぐにメモを削除し、
以後、すべてを“頭の中”だけで管理するようにした。
凡人のくせに、記憶力だけは異常に良かった。
いや、恐怖が彼をそうさせたのだ。
準備は、日常の中に紛れ込ませた。
・会社帰りに村井の後をつける
・昼休みに監視カメラの死角を確認する
・休日に現場となる路地を歩く
・雨の日の音の反響を確かめる
・靴底の摩耗具合を観察する
・犯行後の逃走ルートを複数用意する
どれも、凡人がやるには過剰だった。
だが、佐伯には必要だった。
「完璧じゃないと、怖い」
その一心だった。
ある夜、佐伯は自室の机に向かい、
ノートを開いて“計画書”を書き始めた。
もちろん、紙に残すのは危険だ。
だが、頭の中だけでは不安だった。
彼は震える手で、
「計画A」「計画B」「計画C」と書き分け、
それぞれのリスクと対策を細かく書き込んだ。
・計画A:路地裏での奇襲
・計画B:飲み屋での薬物混入
・計画C:帰宅途中の事故偽装
どれも現実的ではあったが、
佐伯はAを選んだ。
理由は単純だった。
——自分でもできそうだから。
薬物は怖い。
事故偽装は難しい。
だが、背後からの奇襲なら、
自分でも“やれる気がした”。
もちろん、恐怖はあった。
だが、村井への恐怖のほうが勝っていた。
準備はさらに細かくなった。
・犯行当日の天気予報を毎日チェック
・靴底の摩耗を自然に見せるため、数日間同じ靴を履く
・犯行後に着替えるための服をロッカーに隠す
・凶器は分解して持ち運べる工具にする
・工具の指紋を完全に消す
・犯行後の移動ルートを実際に歩いて時間を計測
・アリバイ作りのため、SNSに“自宅で映画鑑賞”の予約投稿を仕込む
どれも、凡人がやるには異常なほどの徹底ぶりだった。
だが、佐伯はやらずにはいられなかった。
「怖い……怖い……」
準備を進めるほど、恐怖は増していった。
だが同時に、計画は洗練されていった。
そして、決行の一週間前。
佐伯は最後のチェックをした。
・監視カメラの死角
・村井の飲み屋の滞在時間
・路地裏の照明の故障状況
・雨の日の音の反響
・逃走ルートの混雑具合
・自宅に戻るまでの時間
・証拠の処分方法
すべてが、完璧だった。
いや、完璧“に見えた”。
佐伯は鏡の前で自分の顔を見た。
目の下にはクマ。
頬はこけ、唇は乾いている。
だが、その目だけは異様にギラついていた。
「大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟く。
凡人が、必死に完璧を装っていた。
そして、決行の日が近づいていた。




