1話
ユーラシア大陸西欧、とある森の中。
鬱蒼と繁る木々をかき分けるように一つ、小綺麗な小屋が佇んでいた。
そこに住む薬草師ロジーナ・エーベルリンは、毎朝日が昇ると同時に目を覚ます。
ベッドと僅かな家財道具しか入らない寝室。
その分厚いカーテンの隙間から、朝日が差し込む瞬間が起床の合図だ。
ロジーナは音もなく寝台から起き上がり、身支度をはじめる。
黒々とした髪を簡単に結い上げ、細枝のような体に着古したエプロンドレスの紐を巻き、粛々と厨房へと向かう。
今日の朝食は、鶏肉と芋のスープに焼きたてのパン。
眉ひとつ動かさず、慣れた手つきでテキパキと調理する姿は、機械式人形を彷彿とさせた。
香ばしいスパイスの匂いが立ちこめたとき、彼女は一度手を止め主人を起こしに厨房を出る。
向かうは、焦茶色の寝室。家主ヴェラ・ファクラーの寝室だ。
ロジーナはノックもせず部屋へと入り、音もなく忍び寄ると、微かに呼吸するヴェラの顔を覗き込んだ。
心地よさそうに寝息を立てているのを確認すると、懐にしまってあった包丁を、思い切り振り上げる。
研ぎ上げられた切っ先は、ヴェラの喉元に寸での所まで迫った。
だが肌に触れるその瞬間、物理法則をねじ曲げられた。刃は紙のようにひしゃげ、弾き飛ばされる。
魔術だ。
「……う、!」
反動が、直にロジーナの腕へと伝わる。
不意打ちの衝撃と痺れに、思わずナイフを手放してしまった。
渇いた音をたて床に転がる薄い鉄の塊を、冷めた一対の瞳が見つめている。
布擦れの音と共に家主の女、ヴェラが目を覚ます。
「おはようロジーナ。寝込みを襲うだなんて、色っぽいことをしてくれるのね」
ロジーナは、ヴェラを睨みつけた。
ベッドから状態だけを起こし、こちらを見下ろしている。
たおやかに揺れる髪、零れ落ちそうなほどに大きな瞳。
そして、簡素な寝間着から垣間見える女性らしく恵まれた肉体。
その様はまるで、ルネサンス期に人々を躍らせた偶像そのものだ。
逆光もあってその姿はあまりにも美しく、抱く憎らしさを倍増させる。
「無防備な私に指先ひとつ触れられないなんて、なんて非力なの」
愚か。そう言って、ヴェラはかろうじて留まっていた釦を外した。
途端に、傷ひとつない柔らかな肌が表れる。
急速に燃え上がったロジーナの怒りは、落ちていたナイフの残骸を掴みヴェラへと放り投げる。
だが、感情のまま放たれた一撃はあらぬ方向へと向かい、木の壁へと当たって跳ね返るだけだ。
「あはははは! 女の裸に冷静さを欠くだなんて、可笑しいこと。
初ものの男でももう少しマシな反応をするわよ」
高笑いしながらヴェラはベッドを抜け、服を着始めた。
ロジーナは静かに転がる包丁を見て、悔しさを噛み、きつく拳を握る。
「先に朝ご飯頂くわね。
ふふ、今日は何かしら」
ヴェラは鼻歌混じりに、一人、食卓へと向かう。
体中に燃え上がる憎悪を抑え、ロジーナはふらふらと立ち上がった。
ロジーナ・エーベルリンは、ヴェラ・ファクラーの使用人である。
だが彼女に使えるため、この家に来たのではない。
殺された恋人の仇を取るため、やってきたのだ。




