夜の青み
あとワン・フロアーだった。5時を回っていた。もうすぐ始発電車が動く。少し急がなくてはならない。文雄はモップを動かす手を早めた。さっきまで頭の中で流れていた、ザ・バンドのティアズ・オブ・レイジが止まる。代わりに床をモップで擦る音と、自分の荒い息遣いが誰もいないフロアーに響いているのに気がつく。
こうなってくると文雄の体力も残り僅かだ。夏の盛りの、熱帯夜だった。文雄たち清掃員のために冷房をつけてくれるような、気前の良い会社はどこにも無い。モップで床を擦った先から、汗が床に滴り落ちる。首から掛けていたタオルを、鉢巻きのように頭に巻きつける。これで汗が床に落ちるのも少しはマシになる。
電気を消した花屋の前を通ると、文雄はいつもモップの柄をわざと花に当てて、茎を折る。そして一輪だけ拝借し、作業着の胸ポケットにそっと差す。仕事が済んでも、まだ胸ポケットから落ちていなければ、その花を持ったままバスに乗ってアパートに帰る。そして、前に持ち帰った花と差し替える。その時は何か新しい、特別なことが起きたかのような気分になる。
再び下を向いて床をモップで擦っていると、向こうからジャラジャラと音をたてて近づいてくる人がいる。警備員の銀さんだろう。腰に付けた鍵の束を、わざと鳴らすようにして歩いてくる。
「今日は126番台が出るんだと」
「パチンコなら辞めたんだ」文雄は床に視線を落としたまま言う。
「良い心掛けだ」銀さんは鍵の束をなぶりながら、「また、このデパートの撤退話が出ているらしいからな」と続けた。
「どこから」と訊いたものの、文雄には大方、察しがついていた。この商店街のパチンコ屋の店員か、スナックのママあたりだろう。モップで床を擦る手を文雄は休めない。
「昨日パチンコ屋で、隣に座った奴からさ。その後に寄った、一杯飲み屋の大将も同じことを言っていたな」
いつものことさ、と文雄は言ったが、30年以上働いてきて、同じ日に同じ噂を聞いたのは初めてだから、今度こそ本当かも知れない、と銀さんは食い下がった。30年以上同じところで働いていたら、それくらいの偶然はあって当然だ、と文雄は言い、
「急いでる。あと一時間しかないんだ」と、モップの先を銀さんの安全靴に当てた。そうだな、そうかもしれないな、と銀さんはまたジャラジャラと鍵の束をなぶりながら、来た道を戻って行った。
うっすらと陽の光が差してきた。さっきまで青みがかっていた化粧や宝石の並べられたガラスケースに、やわらかい光が当たり始める。モップで床を擦っていても、夜の空気が徐々に後退して行くのが分かる。
このフロアーでは、化粧品売り場の床が最も汚れている。そこで足を止め、長居する客が多いのだ。その分、床も傷ついてしまい、汚れも落ちづらい。文雄は四つん這いになりヘラを使って、こびりついた汚れを、こそげ取る。傷の方はどうしようもない。ただ、ここで働く美容部員たちの溜め息やら、陰口やらが床の傷に染み込んでいて、文雄は、そういうものをこそげ取っているような気がする。傷の具合からして、そろそろワックスを塗り直す時期かもしれない。そうなると閉店時刻の19時から仕掛かることになる。いずれにしろ、この調子だと傷は深くなる一方だ。主任に、今週中の早出の許可をもらおう。主任と言っても文雄より五つ六つも下なのだが。今頃は詰所でコーヒーでも飲みながら警備員と談笑しているだろう。でなければ大好きな旅行雑誌でも眺めているに違いない。詰所の内側の壁には、旅行雑誌の切り抜きが貼ってある。外からは見えない様にして貼ってあるのだが、以前、ごみと間違えて捨てそうになって、ひどく怒られたことがあった。「本屋に旅行雑誌のコーナーが、ああも広い理由が分かった」と、それを見ていた銀さんが、うんうん頷きながら言っていた。
床の汚れをこそげ落とした。立ち上がって、剥がした汚れをモップで拭き取る。真っ白とはいかないが、少しはマシだ。このデパート自体、大分ガタがきている。内壁にはヒビが入っている個所がいくつもある。改修や工事がいつはじまってもおかしくない。ただし、その間、文雄たち清掃員は仕事にあぶれることになるだろう。その時は、また家賃を滞納して仕事を探す、それだけだ。窓ガラス越しに陽の光が入って来て、眼の奥が痛んだ。6時だ。
10階の詰所は、デパートの事務所に併設されていて、ここだけ冷暖房が効くようになっている。しかし陽の光は入らず、また2本ある蛍光灯のうち1本を取り外しているので、いつも薄暗かった。机も椅子も一組しか無く、そこで主任は手鏡に向かって、しょっちゅう出来るニキビに薬を付けたりしていた。
終業時刻になった。文雄たち清掃員がタイムカードを押しに詰所に集まって来ても、何の声掛けをするでもなく主任はニキビの治療をしていた。タイムカードを押し、ロッカーに立って作業着を着替えながら文雄は、今週中にワックスをかけておきたいフロアーがあるので、早出の許可が欲しいと言った。
「どこに」主任は頬っぺたを膨らませて、そこに出来たニキビに薬が良く馴染むように塗っていた。
「1階です。特に化粧品売り場がひどい」
「どんなふうに」文雄の方を見るでもなく主任はそう言って、熱心に手鏡を覗いている。
「汚れをこそげ落とす度に、一緒にワックスも剥がれてしまいます。そろそろ塗り直した方が」
「どうやって」
どうやって?ずっと雑誌を読んだり、ニキビを弄ってばかりいるお前に、ワックスの掛け方を説明して、どうなる。この際お前の顔にもワックスを掛けてやろうか。その方がニキビも出来なくて済むかもしれないぞ。
文雄はそう思いながら上着を脱いで、ハンガーに掛けた。胸ポケットにまだ花が差さっているのに気がついた。そっと引き抜いて、ズボンのポケットに茎を差した。
「僕はいつでも早出できますので」
そう言って文雄は軽く頭を下げ、詰所を出て行った。
従業員用の裏口から建物を出るとズボンのポケットから花を取り出し、匂いをかいだ。強い、南国の匂いがした。もちろん南国に行ったことなど無い。それでも夏に咲く花なのだから、南国なのだ、と文雄は思った。
*
夕方に起きた。大型スーパーの中の銀行へ行った。1万円が振り込まれていた。弟からだった。何年か前から弟は墓参りに帰省するかわりに、花代だけを送ってくるようになった。親父もお袋も、死んでまだ5年だった。葬式も墓も、ほとんどの費用を、上場企業に勤める弟が出した。ただ弟は、自分は同じ墓に入るつもりは無い、あの世でまで廃品回収の手伝いをさせられるなんて、まっぴらだ、とその時言った。首都で結婚し、奥さんを連れて挨拶に来たのが最後だった。
文雄は必要な分だけを下ろし、食料品売り場へ向かった。夕方になると3割引きになる惣菜目当てだった。
弟のことを考えていた。立派だと思った。きちんと家庭を持っている。ちょうど今頃は会社から帰る電車の中で、奥さんの手料理を思い浮かべながら吊り革に掴まっていることだろう。あるいは、どこかで待ち合わせをして、外食にでも出かけているかも知れない。俺は今日も、スーパーのコロッケか、奮発してもハムカツだ。比較しているわけじゃない。たとえ花代としては多すぎる1万円が振り込まれても、余った金で何か贅沢をしようなどという気は、さらさら無いという意味だ。文雄は思わず立ち止まった。拳を強く握った。後ろから来ていた主婦が、ぶつかった。怪訝そうに主婦は文雄の顔を見て、通り過ぎて行った。文雄は我に返った。眼をつむり、ぶるぶると頭を振った。
すると、僅かに花の匂いがした。眼をあけると、いつもなら通り過ぎてしまう狭いスペースに、花が売っていることに気づいた。そして、そこから清掃員の灰色の制服と制帽姿の女がモップで床を拭きながら出てきた。胸ポケットに白い花が一輪、差さっている。
清掃員の女は視線を床からを上げると、被っていた制帽のひさしを軽くつまんで挨拶をしてきた。様になっていた。
「その花、売ってくれないか」
「え?」
「胸ポケットに差してある、花」
「…」女はモップを抱きしめるようにして「大切にしてくれるのなら、あげるわ」と言った。
「俺も同業者だ。同じように花を胸に差して仕事をしている。だから、タダで貰うわけにはいかない。価値のない行いじゃない」
「この花を、どうする気?」
「部屋に飾る。水は毎日、新鮮なものと取り換える」
「安心したわ」女はそう言うと、制帽を脱いだ。帽子から艶のある髪が溢れだした。それは肩に当たって揺らぎ、波をうって輝いた。
「でも、まだ、すっかりとは行かないわ。この眼で確かめなくちゃ」
「何時に終わる」
「あと30分」
「外のベンチで待っている」そう文雄が言うと、女は帽子を被り直し、また、ひさしを軽くつまんで挨拶をした。
外に出ると、この地方特有の湿気が肌にまとわりついた。店を背にし、広い駐車場に向いているベンチに腰掛けた。山に囲まれている土地だが、稜線は低く、視界は開けている。夜空は青空よりも広いと感じた。そして、やはり夜空は青いと思った。山が黒々と燃えているからだと気づいた。光を放つことはなく山は燃えている、そう感じた。
視界を遮るように、女が現れた。何と言うことは無い、ジーパンにTシャツ姿だ。恥じらう様子もない。文雄を見る目は静かだ。山を見ていた、と文雄は女に言った。女は頷いた。黒く燃えていた、と文雄は言うと、女はまた黙って頷いた。文雄はベンチから立ち上がり、歩きはじめた。
彼のアパートまで、10分もかからない。左手にドブ川が流れる、緩やかな坂を登って行くと、彼のアパートだ。ここ数日、雨が降っていなかったので、ドブ川は澱んで、少し臭ってさえ来るような気がした。
「弟しかいないの」女はすぐ後ろを付いて来ながら言った。「肉親は、他に誰もいないの」
「俺もだ。俺にも弟しかいない」
文雄も女も、再び黙った。ドブ川に流れる、ほんの僅かな水の音も聞こえた。セミの鳴き声が辺りを埋め尽くす中でさえ。
アパートに着くと、文雄はドアノブに鍵を差し込んだ。その手を女は横から押さえた。
「七夏。臼井七夏といいます、私」その時、文雄は初めて女の顔を近くで見た。俺は石田文雄、そう言うと、七夏はゆっくりと頷いた。肌が透き通るようで、夜に映えていた。
部屋に入ると文雄は、台所の窓の下に置いた、花の活けてあるコップを手に取った。流しに水を捨て、蛇口をひねって新しい水をコップに注いだ。それを七夏に渡し、七夏は持っていた白い花をそこに差した。文雄はそれを元の位置に戻すと、
「飯を食って行かないか。夜だが、俺にとっては朝食だ」と言った。七夏は頷くと、スニーカーを脱いで、きれいに揃え、部屋に上がった。
文雄は冷蔵庫からトマト2個と、手の平くらいのチーズを出し、テーブルに置いた。
「新鮮なトマトとチーズだ。悪くないだろう」
「ええ、そうね。手掴みで食べたいわ」
「そうしてくれ」
そう文雄は言うと、棚から皿を出し、その上で七夏はトマトにかぶりついた。汁が溢れだし、七夏のTシャツに飛び散った。構う様子も無く、七夏はトマトにかぶりつき続けた。
「新鮮なトマトだったわ」
七夏は食べ終わると、満足気に口を腕で拭い「Tシャツを貸してくれないかしら」と訊いた。文雄は部屋の奥に入って行き、よく乾いているTシャツを探した。手に取り台所にもどると、七夏はすでに着ていたTシャツを脱いでいた。あらわになった胸元を隠そうともせず、テーブルに肘をついて、今度はチーズにかぶりついていた。胸以外、余計な肉はついていない身体をしていた。男が放っておくはずのない女だ。
しかし今日、仕事で花を持って帰って来られたにしようと思った。花一輪ではじまったことだ。折ってしまったり、無くしてしまったら、この女とはおさらばだ。文雄はそう決めると、テーブルについてトマトにかぶりついた。
*
「明日、早出してくれ。ワックスをかける」
主任は文雄が事務所に入って来るなり、言った。相変わらず手鏡に、にきび顔を映して、薬を塗り込んでいた。
「明日は用事が出来ました。明後日なら」もし早出することになると、七夏の仕事が終わるのを待っていられなくなる、文雄はそう思い、主任の頼みを断った。ロッカーを開け、作業着に着替えた。その間、文雄は、背後で主任が睨んでいるのを感じていた。着替え終わると、眼を見ないように会釈をし、文雄は事務所を出た。
たしかに、ワックスがけが必要だった。文雄は化粧品売り場をモップで拭いていて、そう感じた。昨日、ヘラでこそげ落とした所に、より深く、汚れが付着してしまっていた。汚れを溶かす薬剤をまき、染み込むまで放っておくことにした。
化粧品売り場の隣の、高級チョコレート店の中の清掃に移った。そこは、床に絨毯が敷き詰められている。文雄はモップを掃除機に持ち替え、埃を吸引しにかかった。そして、客からは見えることのない、冷蔵陳列ケースの下の、奥の方まで掃除機をかけようとした。這いつくばり、額を絨毯につけて、まるで土下座をしているような姿になった。清掃の仕事に就いた当初は、この姿になるのは屈辱的だった。しかし、十円玉や、時に百円玉が奥の方に転がっていたりする。それを懐に入れたい為じゃない。メモ書きを添えて、冷蔵ケースの上に置いておく。すると翌日「食べてください」との書き置きと共に一口チョコが一個、ケースの上に置かれていたりする。今日は無かったが、二、三週間前にもそういうことがあった。
一通り掃除機をかけ終わると、文雄は窓ガラスの外を眺めた。デパートの前の大通りには、ぞろぞろとタクシーが集まってきている。黒光りするそれらは、まるで、樹液に群がるカブトムシのようだと思った。いや、樹液というより、もしかしたら愛液かもしれない。繁華街のホステス達が、腹のでっぷりと出た、スーツ姿の男とタクシーに乗り込んで、次々と発車して行く。ホステス達の放つ愛液の匂いに、黒いタクシーも、黒いスーツの男も、群がっているように文雄には見えた。
かつては文雄も、そういうタクシーに向かって頭を下げていた。電子部品に使われるプラスチックの成型会社で働いていた頃だ。営業を任されていた。スーツを着、肩からはカタログと見積書がぎっしり入った鞄を下げ、問い合わせがあれば車や電車でどこへでも行った。「一度、弊社の工場をご覧になってください。小さな工場ですが、いわば少数精鋭というか、品質はピカイチですから」
最初の頃はそれで良かった。すぐに別の、ほとんどこじれていると言っていい、得意先の案件を任されるようになった。カタログや試作品、見積書など、いくら新しいもの、詳しいものを持って行っても駄目だった。相手は業界では知らない者はいないとされる有力者で、何より紳士だと評判だった。分からなかった。どうしてここまでやっても彼が首を縦に振らないのか、文雄には分からなかった。
諦めて、応接室から出ようとすると、彼は言った。「随分と鈍いようだから、ずばりと言おう。君の会社の、若くて美しい女を、私に融通しなさい」そうすれば発注しよう、なに、初めてだろうが、こんなことはよくあることだ、と彼は言い、「通過儀礼だよ、一人前の営業マンになるためのね」と続けた。彼は立ち上がり、文雄の肩を軽く叩いて涼しい顔で応接室を出て行った。数日後、文雄は彼に言った。「若くて綺麗な女を用意しました。今、私が付き合っている女です」
ジャラジャラと鍵の束を鳴らしながら銀さんが歩いてきた。
「やっぱりこのデパート、潰れちまうんじゃないかな。今日は日経平均が400円も下がったって言うじゃないか、え?」そう言うと、鍵の束を更に手でジャラジャラとなぶった。さあ、どうだかな、と文雄は言った。
「デパートで買い物をするのは富裕層だ。富裕層は株を持っている。株価が下がると奴等は損をする。損をすると奴等はデパートで買い物をしなくなる。この理屈に間違いはあるか?」
文雄は再びモップで床を拭きながら、ああ、間違いない、と答え、そうなったら俺も銀さんも晴れて失業者だ、と言った。
「そうだろう、そうだろう。そんなこともあるだろうと俺は、常日頃から用意してるんだ。他の人には内緒だけれど、どんな内容か聞かせてやっても良いんだ」
ああ、聞かせてくれ、文雄は後ろに付いて来る銀さんに、振り返らずに言った。
「うん、まぁ倹約だな」
「それが一番だ」
「そうだろう。あとは、人には親切に」
「それも大事だ」
そして銀さんは、一段低い声で、「なにより、秘密は守ることだ」と言って眼だけで周囲を窺い、鍵の束をジャラジャラとなぶって帰って行った。
銀さんは、文雄の前でだけ、このデパートに三十年勤める一番の古株という顔を見せる。他の清掃員や警備員には、「ワシか?君がデパートに入ってきた半年前だ。君と、そう変わらんよ」と言っていた。だが、実際には全員に、一対一の時は、自分は三十年だと言っているのかも知れないと文雄は思うと、おかしくて笑いそうになった。皆んな、口が固いもんだ。
この業界は入れ替わりが激しい。辞める奴は三日で辞めるし、一年、二年と続く人間は文雄を含めて、ごく僅かだ。どこから来て、どこへ行くのか分からない奴等ばかりだ。お互い、相手の内側を探り合わないのが、この仕事の流儀だし、それが文雄は気に入っていた。
さっき薬剤を撒いておいた、化粧品売り場に戻った。ヘラでこそいでみる。汚れが浮き上がってきていた。床に這いつくばって、ヘラに力をこめると、鈍い音と共に汚れの固まりは取れたが、床には更に深い傷がついていた。数日中にワックスをかけなければならないと思った。そうしないと傷は広がる一方だ。持っても、二、三日だろう。
ワックスをかけよう、明日にでもかけようと文雄は思った。七夏のことを考えた。七夏との間には、花が一輪あるだけだ。他には何もない。また新しい花を持ち帰れば良い。そう思って花屋の前を掃除しながら、いつものようにモップを茎に当てて折り、一輪だけ胸に差した。アパートに帰って、昨日の花と差し替える光景を思い浮かべた。台所の上の窓から差し込んでくる朝日に、新鮮な水と入れ替えたコップが、プリズムのように光を部屋中に行き渡らせる。そこに一輪の花を差す。光は少しの間、攪拌され、たゆたうが、次第に花の形に影を作る。そんなところで寝起きが出来るのだ。この上ない、文雄はそう思った。
早目に主任に、そのことを伝えておかなければならないと思い、まだ仕事は終わっていなかったが、事務所に向かった。エレベーターから降りると、事務所の薄い壁の向こうから、主任の話し声が聞こえる。誰かに電話をしているようだ。
「清掃員を一人、辞めさせようと思っていまして。許可をいただけますでしょうか」
ひっくり返ったような声を出して、主任は本社に電話しているみたいだった。
構うものか。文雄は事務所のドアを勢いよく開けた。主任は、如何にも、聞かれてしまったというような顔をしたが、すぐに眼が座った。
「明日、早出をしてワックスをかけますので」
そう言うと文雄は一礼して事務所のドアを閉めた。
俺だろうな、と文雄は思った。主任に媚びを売らないのは彼だけだった。他の清掃員は、主任に会うといつも深々と頭を下げたり、髪型が似合っているだの痩せただのと、ちやほやする。もっとも、他の清掃員は皆んな中高年ばかりだが、主任も、満更でもないといった様子だった。馘になったら、馘になった時だ。その時考えればいい、文雄はそう思うと、エレベーターで1階に降りた。
明日の、ワックスをかける為の下準備にかかった。用具入れからポリッシャーを引っ張り出し、今かかっている古いワックスを剥がしていった。ゆっくりとしか進めない機械なので、食事休憩をはさんでもなお、行った。剥がれたワックスが通路の脇に溜まった。それらを全て片付けるのに、終業時刻いっぱいまでかかった。
アパートに帰ると、玄関にまだ七夏の靴が揃えてあった。部屋に入ると、七夏は裸でベッドの上に寝ていた。文雄も服を脱ぎ、七夏の上に覆い被さった。
「ポリッシャーをかけたでしょう。古いワックスのにおいがするわ」起き抜けの、ぼやぼやした顔で七夏は言った。
「明日、新しいワックスをかける。そして近いうち馘になる」
「馘になるのにワックスをかけるなんて、随分とお人好しね」カーテンからもれる朝の光で、七夏が微笑を浮かべているのが分かる。
「お人好しなんかじゃない。現に、昨日知り合ったばかりの女と寝ようとしている」
「でも、ずっと花をポケットに入れて掃除してきたんでしょう?」
「ああ」
「価値のない人間じゃないわ」
七夏が小さく顎を引いて頷いた。文雄は七夏の中に入った。七夏の声がもれた。それに呼応するように文雄は動かした。七夏は背すじを反らせながら、中で文雄のペニスを締め付ける。構わず奥へと突く。私も、と七夏は言った。私もずっと花を差して掃除していたわ。文雄は、分かった、と言った。分かりっこないわ。毎日毎日、幸せそうな夫婦や子供連れが私の前を通り過ぎて行くのよ。文雄は更に奥を突き上げた。七夏は声をあげた。分かりっこない、分かりっこないわ。文雄はペニスの先から迸るのを感じ、それに身を任せた。七夏は身体を痙攣させ、今にも絶えそうに息をした。
文雄も七夏も、それぞれシャワーを浴び、肌を傷つけそうなくらいカラカラに乾いたTシャツに着替えた。七夏が冷蔵庫の中の余りもので野菜炒めを作っていた。弟と一緒に首都から逃げてきた、と七夏は背中を向けたまま言った。文雄は椅子に座り、朝の情報番組を観ながら、それを聞いていた。お客さんとの間に出来たの、と七夏は言った。
「お母さん、スナックの雇われママだったわ。分かるでしょう?」
文雄は頷きもせずテレビの方を向いていた。若い女が天気予報をしている。今日も厳しい暑さとなりますので、水分補給を忘れずに、と言っていた。続いて携帯電話会社のコマーシャルが流れ、クレジット・カードのコマーシャルが流れた。文雄は最近、どちらも持つのをやめていた。文雄の今の生活には必要無かった。
まるで他人事のように七夏は続けた。母親が家に連れてくる男は皆、ろくでなしばかりで、弟はいつも殴られていたこと。七夏も家に入れてもらえずに一晩中、外で過ごすことがあったこと。食事もカップラーメン一つを弟と分け合って食べることが度々あったこと。
「どうやって逃げてきた」文雄は七夏にそれ以上話させないように訊いた。
「逃がせ屋に頼んだわ」
「逃がせ屋?」
「夜逃げを手助けする業者。探せば結構いるものよ」
「高いんじゃないのか?」
「そうね。弟が今、その仕事に就いてるわ。足りない分は、私が身体で払った」ほんの少しの間、我慢すればいいだけよ。何てこと無いわ。
「そうか」
「重たくなったでしょう。気にしないで」
七夏は出来上がった野菜炒めを皿に盛りつけ、文雄の前に置いた。一人分だけだった。七夏は「一回だけよ、あなたとは」と言った。奥へ行って身支度をし、部屋を出て行こうとした。
「俺が何とかする」
そう口にするのが早いか、そう考えるのが早いか、文雄は言った。
「止してよ、面白半分に。一回じゃ物足りなかった?」
何のあても、文雄には無かった。それを見透かすような目で、七夏は文雄を見た。
「弟とは一緒に住んでいるのか?会って話したい」
「本気で言ってるの?たった一回やったくらいで、いい気にならないでよ」
文雄は辺りを見回して、裏が白いチラシとボールペンを七夏に突き付けた。
「ここに住所を書いてくれ。今度、会いに行く」
七夏は、あきれたように首を振って、チラシとボールペンを受け取り、住所を書いた。そして、突き返して言った。
「弟は今日は仕事で帰って来ないし、大体、今日はあなたも仕事じゃない。ワックスをかけるんでしょう?」
「仕事は休む」
「バカじゃないの?本当に馘になるわよ」
とにかく、と七夏は言った。今夜、家に来ても弟はいないのだから、本当に来るのなら明日の仕事終わりにして欲しい、そう言うと真っすぐ文雄の眼を見た。様々なものを見てきた眼だった。俺よりも。
分かった、と文雄は言った。
*
閉店時刻を過ぎ、最後の客が出て行くと、文雄は事務所から出て1階へ向かった。フロアーにはまだ販売員の女たちが残っていて、レジを締めたり、片付けをしたりしていた。文雄に声を掛けてくる女は一人もいない。皆んな早く仕事を済ませたがっているのが分かった。
モップで床を拭き始めた。汚れがひどい所はモップの柄に体重を乗せ、強く押し出すように拭く。冷房が切られたのだろう、フロアーの半分も拭いたところで汗が吹き出てきた。いつの間にか販売員たちはいなくなっていた。文雄も少し休憩をとることにした。客用の椅子は何脚か置いてあったが、清掃員はどんなことがあってもそれらに座ってはいけない決まりになっていた。文雄は地べたに座り、ショーケースに凭れた。向こうから、ジャラジャラと音を鳴らして銀さんが巡回に来た。
「もう休憩か?らしくないな」それにしても暑い、と言って銀さんは制帽を脱ぎ、ごましお頭をハンカチで拭った。
「ワックスをかける。それまで体力を温存しているだけさ」
「若いもんが、なにを言っている」銀さんがそう言うと、デパートに面している大通りを暴走族のバイクが大勢、通った。昔、一度だけ暴走族のバイクに乗せてもらったことがある、と銀さんは言った。今でも、もう一度乗ってみたいと思う時がある、と窓の外を眺める銀さんは少年のような眼をしていた。
「俺はもう若くもない。少なくとも社会に抵抗しようと思うほどは」
「ワシはまだまだ、反抗しとる」
「どうやって?」
「NHKの受信料を払わない」
家にテレビが無いと言い張ればそれまでだ、と銀さんは得意気に片方の眉を上げて見せた。小さな反抗でも、寄り集まれば大きな抵抗になる、どうだ、君もやってみないか、と言った。文雄は、あいにく俺の部屋は玄関からテレビが丸見えなんだと言った。銀さんは肩を落としてみせた後、「NHKのこと、誰にも言わないでくれよ」と念を押してきた。文雄が頷くと、嬉しそうに帰って行った。
立ち上がって、残り半分のモップがけをはじめた。時刻は深夜になろうとしている。朝までにワックスがけを終わらせるためには、食事休憩は取れないと思った。と言っても文雄はいつも、食パン2枚とマーガリンしか持って来ていなかった。本当に空腹をしのぐ為だけだ。食べても食べなくても、どっちでも良い。
暑さが、文雄の思考が七夏へと向かうのを妨げているみたいだった。どんな希望も不安も感じなかった。七夏と七夏の弟に会って、何を訊くのか、一つも想定していなかった。それで良いと思った。
フロアー全体をモップで拭き終わった頃には、文雄は肩で息をしていた。日が昇るまで、あと少しだった。これからワックスをかける。ワックスは薄すぎても効果が無いし、かと言って厚すぎると開店までに乾かない。文雄はその案配を、これまでの経験で導き出し、ワックスのかけ具合を調節する。その日の天気や湿度も念頭に入れる。それが決まれば、あとは早かった。
客のよく通る、出入口付近からワックスをかけ始めると、背後から足音が近づいて来るのが分かった。ジャラジャラと鍵の擦れ合う音も無かったので、銀さんではないことは振り向かなくても分かっていた。
「誰にも言わないでくれないか」主任は文雄の背中に向かって言った。
「何をです?」
「清掃員を一人、辞めさせることだ。誰にも言わないでくれたら、石田を辞めさせることはしない」
文雄はワックスをかける手を休めず、「じゃあ辞めたくなったら誰かに言います」と言った。
「つまり、辞めるつもりはないから誰にも言わない、と?」低い声で主任が訊いた。
今のところは、と文雄はモップを前後に動かしながらそう答えると、主任は立ち去って行った。きっと、ああやって皆んなに同じことを言って回っているんだ、と文雄は思った。脅かしてみたり、秘密を共有してみたり。机の前に座って仕事をしている人間は、そんなことばかりしている連中だ、と文雄は思った。暇な奴等だ。
夜が明けはじめ、ショー・ウインドウが斜めの影を床に落とすようになってきた。あとは化粧品売り場をワックスがけするのみだった。深い傷があったところをワックスで埋めるようにし、目立たなくさせた。これでしばらくは持つ。
用具を片付け、事務所に上がり、同僚たちに挨拶するとデパートを出た。
七夏がチラシの裏に書いた住所と地図を見ながら歩いた。朝とは言え、真夏の陽の光は、黒いはずの道路を白く輝かせていた。文雄がいつも降りるバス停の2つ手前が七夏のアパートだった。通りを挟んで大きな公園があり、道路沿いに多くの木が植わっていた。烈しいセミの鳴き声がしていて、歩く度に頭上から打ちつけられ、地面に少しずつ埋まっていくような感触さえあった。
七夏の部屋は2階の角部屋だった。玄関の前に立ち、ベルを鳴らす。中から声があった。どなたですか、と訊くので、石田、石田文雄と答えた。
ドアが開き、若い男が顔を出した。文雄より十歳近く若い。
「何歳だ?」
「二十歳です」合っていた。文雄より九つ下だった。
「そんなに若くて、逃がせられるのか」
「ええ。何なら今から、あなたを逃がしたって良い」落ち着いていた。二十歳とは思えない口振りだった。文雄の眼をじっと見てきた。
「逃げないさ。そんな話をしに来たんじゃない」そう文雄は言うと、「名前は?」と訊いた。
「研二です」
「姉さんは?」
「仕事に。今日は早番だそうです」
「そうか。上がって良いか」
「どうぞ」
玄関に入ると、真っ先に感じたのが、異様な清潔さだった。きれいに整頓されているのを通り越していて、生活感がまるで無かった。ほんの少しの埃すら床に落ちていないように感じた。
「結婚したいんですか?姉さんと」
「そのつもりでいる」そう文雄は玄関に立ったまま言うと、「いつでも逃げられるようにしているのか?」と訊いた。研二は、じっと眼を見て頷いた。
文雄も研二の眼を見つめ返した。きちんとした教育を受けたら、相当な所まで行けただろうと、研二のことを思った。
「花屋へ行くぞ。付いて来い」文雄はそう言うと、部屋を出た。
階段を下りて道に出ると、文雄は後ろも振り返らずに歩いた。公園づたいに歩いてバス停に出ると、左手にあります、と後ろから研二が追いついてきて言った。
二人並んで公園に植わっている木々の下を歩いた。公園の中は、老人たちが帽子を被って散歩していた。時折、わぁっ、と歓声がした。アスレチックで遊ぶ子供たちからだった。そこだけ空気が乾いていて、光が集まっているみたいだった。
小さな花屋だった。まだ9時前で、店主の女の人が店先に打ち水をしていた。後ろで束ねた髪のツヤからして、中年くらいだろうが、文雄の「まだ開店しませんか」との問い掛けに、「いいですよ」と答えた時の声にはハリがあった。
白い花を一輪だけ買った。店主はきれいに包んでくれた。礼を言って店を出た。「その花、どうするんですか」と研二は訊いてきたので、お前のアパートに活ける、と言った。「毎日、水を替えてやるんだ。花があるだけで、大分違うはずだ」
「でも…」
「もう逃げようとするな」
そう言って文雄は持っていた花を研二の胸に突き出した。研二は、しばらくそれを受け取らなかった。逃がせ屋を使って逃げてきた人間が逃げた先で出来そうな仕事は、きっと逃がせ屋しか無く、その仕事も危なくなれば、またどこかに逃げるしか無いのだろう。だから受け取りたくないのだ、それも手入れが必要なものは、と文雄は思った。
「姉には男がいます」知っている、と文雄は答えた。公園のベンチに腰掛け、研二にも座るよう促した。研二は座らず、文雄の前に立ったまま話を続けた。
益田という男で、実業家だということ、福祉事業もやっていて、家庭内暴力などを受けている女や子供にシェルターを提供していること、研二と七夏の住むアパートもシェルターの一つだということ。
「他の女には手を出しません。うちの姉にだけなんです」何が福祉だ、聞いてあきれる、と研二は首を振った。益田からは逃げられない、表のネットワークも、裏のも使って探し出してくるに違いない、それでもチャンスがあったらいつでも逃げられるようにしている、それは悪い事か?研二は怒りとも憎しみとも、そしてどこか諦めともとれる眼で、文雄を見下ろした。文雄は何も言わなかった。何を言っても、取って付けたような言葉になってしまうと思った。チチチッと鳥の鳴く声が際立っていた。研二の吐く息の音すら聞こえてくるんじゃないかと思った。
「花はもらっておきます、折角なので」研二はそう言って、文雄の手から花を取り、去って行った。文雄は、その後ろ姿を目で追うことは無かった。あの花が枯れるまでの間は、少なくとも研二も七夏も、この街にいる、そう思った。