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主な登場人物
川上 蒼
32歳 男性 視覚障害者 マッサージ師
佐藤 美彩
28歳 女性 蒼が働くクリニックで受け付けをしている
深沢 彩佳
女子高校生 蒼と佐藤が働いているクリニックの常連患者
花岡 優奈
女子高校生 彩佳の親友
約1ヶ月が過ぎた。9月も、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。日中には、まだ暑さが残るモノの朝晩はすっかりひんやりして秋らしい日々が訪れていた。
この日、彩佳と優奈の学校では体育祭が行われ、運動の苦手な彩佳と優奈はヘトヘトに疲れ果てていた。
「あー、彩佳ー、疲れたねー。帰りにクリニックに寄って、マッサージしてもらお?」優奈が彩佳に言ってきた。
「そうだね。じゃあ、そうしよう。」ということで、彩佳と優奈は体育祭で疲れた体を引きずって、蒼の務めるクリニックにやってきたのだった。
「美彩ーさん、こんばんわ。今日は二人とも川上先生でお願いしまーす。」お盆休みに三人でプールに行って以来、彩佳と優奈は佐藤のことを名前呼びするようになっていた。
「彩佳ちゃん、優奈ちゃん、こんばんわ。了解ー。川上先生、今治療中だからちょっと待っててねー。」佐藤が二人に優しく言った。
「はーい。」彩佳と優奈は声をそろえて返事をした。
15分ほど待っていると、蒼の治療室の扉が開き、山下が出てきた。
「あ、山下さん!こんばんわ。この間はお野菜いただいてありがとうございました。」彩佳と優奈はペコリと頭を下げた。
「おお!彩佳ちゃんと優奈ちゃん、来てたのか。ここのクリニックの花壇で取れた野菜たちだ、スタッフのみんなや常連さんに食べてもらわないとな。」山下は笑顔で言った。防犯カメラを付けて以来、盗難は起きていない。
「ありがとうございます。すっごく新鮮で、めっちゃくちゃおいしかったです。スーパーで買ったのと全然違っててびっくりしました。」優奈が興奮気味に言った。
「おお、そうか、そうか。また、頑張って作らないとな!わはは。」山下は嬉しそうだ。
そうこう話をしていると、蒼の治療室の扉が再び開き、蒼が顔を出した。
「えっと、深沢さん、花岡さん、どっちから先にします?」蒼が質問してきた。
「じゃあ、私からでいいかな?」優奈が彩佳に尋ねると
「うん、いいよ。私も一緒に入っていいですか?」と彩佳。
「もちろん!じゃあ、お二人一緒にどうぞ。」彩佳と優奈は山下に手を振って治療室の中に入っていった。
「今日は体育祭だったんですけど・・・めちゃくちゃ暑いし、もう疲労困憊って感じです。・・・学校帰りで汗臭いかもですけど、よろしくお願いしまーす。」優奈はちょっと恥ずかしそうに言ったが、デオドラントスプレーのいい香りしかしなかった。蒼は優奈に対して施術を始めた。
「で、先生もめがねをかけてるからわかると思うんですけど、暑くて汗をいっぱいかくと、めがねがずれてきたりするし、もう、サイアクですよねー。」
「そうですね。あと、冬の寒い日に外から暖かい建物の中に入ると、めがねが曇って見えなくなりますよね。あれも困りますね。」蒼と優奈はめがねあるあるで盛り上がっている。
「それで、ちょっと先生に前から聞きたいことがあったんですけど。私、強度近視でメガネを外すと0.02とかしか見えないんですけど、私も視覚障害者になるんですか?」と優奈が蒼に質問した。
「えっと、花岡さんはめがねをかけると視力はどれぐらいですか?」蒼が優奈に尋ねた。
「0.8ぐらいですけど・・・。」優奈が不安そうに答えた。
「うん。それなら視覚障害ではないです。いくら裸眼で見にくくても、めがねやコンタクトレンズで強制して視力が出るなら視覚障害にはなりませんよ。」
「そういうことだったんですね。勉強になります。」と優奈はほっとしたように言った。
「でも、強度近視の人は、網膜剥離や緑内障などのリスクが高くなると言われていますから、気をつけてください。あまり近くばかりを見すぎず、遠くを見るようにしたり、目を時々休めてあげてくださいね。詳しくは眼科医の診察を受けてください。」蒼がそう言うと優奈は「はい。」と素直に返事した。
優奈の施術が終わり、彩佳の施術が始まった。
「それじゃあ、美彩さんのところで待ってるね。川上先生、ありがとうございました。」優奈は、そう言って治療室から出て行った。
「私も優奈も体育が苦手で、体育祭は精神的にも肉体的にも疲れるんです。」と彩佳が施術を受けながら言った。
「その気持ち、よくわかります。ぼくもからっきし運動がダメなので、体育祭の時はいつも『早く終わらないかなー』と思ってましたから。」蒼は苦笑いしながら言った。
「へぇー、そうなんですか。私たちって、結構似たもの同士なのかもしれないですね。」と彩佳は言った。
蒼たちが務めているクリニックは、毎週日曜日が定休日だった。そのほか、祝日とお盆、年末年始が休診日だ。蒼は月~土まで週6日勤務だったが、受付は佐藤の他にもスタッフがいるので、交代で休みを取っている。
佐藤は非番でお休みの日だったが、この日、佐藤は患者としてクリニックにやってきた。
蒼は自分の治療室で待機していた。そこに院長から新患の指示書が回ってきた。マッサージ指示書には「サトウ ミサ」と書かれていた。蒼は指示書を受け取り、拡大読書機で内容を確認し、治療室に佐藤を招き入れた。蒼の拡大読書機は拡大表示や白黒反転の他、OCR機能で画像から文字を認識して、音声で読み上げる機能が付いているので、これを駆使して指示書を見るのだった。
「このクリニックが開院して以来、約10年のお付き合いですが、施術をさせていただくのは初めてですね。」と蒼は佐藤に話しかけた。
「そうですね。今日はよろしくお願いします。」佐藤がペコリと頭を下げた。
蒼は佐藤を治療台へ案内した。
今から約10年前、クリニックが開院する時に、高校を卒業したての佐藤と、マッサージ師免許を取り立ての蒼は初期スタッフとして雇われたのだった。10年前は蒼の目も今よりは見えていて、佐藤の外見は見て覚えている。背は蒼よりも10cmぐらい低くてスレンダー、髪は肩に届くぐらいの長さで、目が大きくかわいらしい印象だった。
しかし、だんだんと蒼の視力は落ちていき、ここ数年に入ったスタッフや患者の顔や見た目は蒼には見えていなかった。スタッフ同士で「丸顔でめがねしてる人」とか「芸能人の誰ソレ似の人」とかいう会話には、蒼は全く付いていけなくなっていた。
「仕事でパソコン入力して、おウチに帰ったらスマホで友達とSNSしたり、動画見たり・・・。首から肩にかけて凝っていると思います。一応、、毎日少しずつなんですけど、腹筋やスクワット、あとウォーキングはするようにしてます。」と佐藤が蒼に言った。
「そうですか。さすが佐藤さん。すごくがんばってらっしゃる。」蒼が言うと
「でも、お盆に彩佳ちゃんたちとプールに行ったじゃないですか。あのときは、現実を見せつけられました。」佐藤は苦笑いを浮かべた。
「そうなんですか。」蒼はそれ以上この話題には触れなかった。施術は肩から始まり、背中、首、腕と進んでいった。
「仕事のパソコンは設定をいじるわけにはいかないかもですが、プライベートのスマホは設定をダークモードにしたり、動画の視聴はなるべく大画面のタブレットにしたりすることで目への負担を軽くして、結果肩こりを軽くできるかもしれません。」蒼が生活についてのアドバイスをした。
「ダークモードって何ですか?」佐藤が質問してきた。
「えっと、スマホは初期設定では、白い背景に黒い文字で表示されてると思うんですけど、それを黒い背景に白い文字で表示させるのが、ダークモードです。このダークモードはガジェット好きの間ではカッコイイとか、消費電力を抑えられるという理由から設定している人も多いみたいですよ。」と蒼が説明した。
「そうなんですか。目にも優しくて、バッテリーの節約になるなら、設定した方がいいですよね。」佐藤が言った。
「はい。ぼくのように強い光が苦手な人にとっては必須の機能なんですけど、一般の人にとってはあまり知られていないのかも、ですね。昔TVゲームで文字表示のウィンドウが黒で、白文字表示のゲームをやってて、そのときに一緒にやってた同級生に『黒背景に白文字は見やすくていいね』って言ったら『ちょっと何言ってるのか、意味分からないんですけど』って言われたことがありました。晴眼者にとっては背景が黒か白かなんて関係のないことなんでしょうね。おっと、これは佐藤さんには関係のない話でした。」
施術は腰からお尻、足へと進んでいった。
「でも、今ではそれが見直されてきたってことですよね。」
「ええ、まぁ。バッテリ節約がメインの目的なんだと思いますけど。というのもこの機能が搭載されたのが、画面が液晶から有機ELに換わり始めたころだったんですよ。液晶ではダークモードによる省電力効果はないですから。」
「でも、それでも、それで助かる人がいるなら、それはそれでいいじゃないですか?」
「はい。そうですね。まぁ、ユーザー補助、アクセシビリティのところにはもっと昔から白黒反転モードがあったんですけど、一般ユーザーは、こんなところほぼ見ないですからね。」
施術は足の裏、足の指まで行われた。
「ああー、気持ちいいー・・・。・・・もう、このまま眠りたいー。」施術が終わって、蒼は手ぬぐいを洗濯カゴの中に入れた。
「川上先生の手だけ、おウチに持って帰りたいー。」佐藤が言った。
「この後、こっちは患者さんいないので、寝ててもらってもいいですよ。」と蒼が言った。
「実は、この間『疲れたー、疲れたー』って言ってるところを優奈ちゃんに聞かれて『だったら川上先生に揉んでもらったらいいのに!』て言われたんです。でも、ホント揉んでもらって良かったです。」と佐藤は笑顔で言った。
「そうだったんですか。こっちはヒマなんで、いつでも歓迎ですよ。」蒼はそう答えた。
つづく