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主な登場人物
川上 蒼
32歳 男性 視覚障害者 マッサージ師
佐藤 美彩
28歳 女性 クリニックの受付
深沢 彩佳
女子高校生 小さい頃から蒼たちの務めているクリニックに患者として通っている
花岡 優奈
女子高校生 彩佳の親友
時刻は午後6時を過ぎた。この日も蒼が仕事を終えて帰り支度をしていると
「お疲れ様です。川上さん、もう帰っちゃんですかー?」受付の佐藤がいつものように明るく声をかけてきた。蒼は、患者さんからは先生と呼ばれることが多いが、スタッフたちからは、なんとなく気恥ずかしいので先生呼びをしないでもらっている。
「はい。もうこっちには患者さんがいないので、帰ります。院長の方はまだ患者さんいっぱいいらっしゃるんですか?」
蒼の務めるクリニックでは、内科と外科を院長である医師の田中が診ている。
「ええ、あと3人ぐらいです。川上さん、気をつけて帰ってくださいねー。」
と佐藤は蒼に小さく手を振って、パタパタと軽やかな足音を立てて受付に戻ろうと歩き出した。
「ありがとうございます。残業、頑張ってください。お先に失礼します。」蒼は佐藤の背中に向かって、そう言いクリニックをでた。
帰り道、保育園と神社の間の路地に入った。路地に入って少し歩くと向こう側から若い女性二人組と思われる賑やかな話し声が聞こえてきた。
路地の道幅は1.5mほどしかないので、蒼は端に寄って女性達の方を見ないように、保育園の壁に向き立ち止まった。
「・・・そしたら先生がね、みんな大笑いできゃははは・・・でね、」蒼が来た方とは逆側から二人並んで歩いてくる。蒼側の女性が一生懸命に話をしていて、蒼の存在に気づいていないようだった。蒼と女性たちの距離がかなり近づいたところで、もう一人の女性が叫んだ。
「優奈!前、見て!!」
「きゃ!っ」ドンっと、優奈と呼ばれた女性が立ち止まっていた蒼にぶつかってきた。
「ごめんなさい。」蒼は反射的に謝罪の言葉を口にした。
「あー、びっくりしたー。こんなところに人が立ってるなんて思わなかったわー。ごめんなさーい、これから気をつけてねー。」優奈と呼ばれた女性はそう言ってさっさと蒼をかわして先へと歩き出した。その気配を感じたので、蒼も帰路へと歩みを戻した。
「あ、あの・・・。」もう一人の女性が何かを言おうとしたようだったが、蒼は
「ごめんなさい、すみませんでした。」と女性の言葉を遮るように、歩きながら上半身を相手の方へひねって謝罪の言葉をもう一度述べた。
「彩佳ー!何やってんのー?早くおいでよー!」優奈というらしい、蒼とぶつかった女性は路地の向こうから、もう一人の女性を呼んだ。
「あ、うん・・・。今、行くね。」彩佳と呼ばれた女性は後ろ髪を引かれるかのようだったが、優奈と呼んだ女性の方に向き直って歩き出した。蒼は、そのやりとりを聞きながら、ぽこぽこ歩いて行った。
数日後。午後の診療時間、午後5時を少し過ぎた頃に受付の佐藤が蒼のところに院長からのマッサージ指示書を持って、パタパタやってきた。
「新患さんでーす。川上さん、深沢ハナエさんって覚えてます?」佐藤が、真剣な表情で聞いてきた。もちろん蒼は覚えている。ハナエは数年前まで蒼がマッサージをしていた患者だった。しかし、90歳を越え、要介護となり、ご家族もお世話が大変になってきたので、施設に入られたと聞いていた。
「はい。覚えてますよ。確か、施設に入ったって聞きましたけど。ハナエさん、どうかなさったんですか?」蒼は心配になって聞き返した。
「うん。今、来られた新患さんなんだけど、ハナエさんのひ孫さんなの。でね、ハナエさん、先月にお亡くなりになったそうよ。大ばあちゃんがお世話になりましたって・・・。」
蒼がここで働き始めてもう10年目になる。蒼の患者は高齢者率が高いので、10年目ともなれば、こういう訃報を聞くことも、それなりにはあったが、それでもやはり担当していた患者の訃報を聞くのはとても悲しくつらかった。
「・・・そうですか。ハナエさんが・・・。おしゃべり好きで楽しいおばあちゃんでした。寂しいですね・・・。」蒼がしんみりと言うと、佐藤は切り替えるように
「新患さん、フカザワ アヤカさんです。よろしくお願いします!女子高生にヘンなことしちゃダメですよー。」と、わざと明るく言って受付に戻っていった。
「しませんよ。だいたいヘンなことって何なんですか?」蒼は、そう言いながら、佐藤が空気を和ませるために言ってくれたのだと感謝した。
「深沢さーん」蒼は待合室に向かって大きな声で呼びかけ、新患の深沢 彩佳を治療室に招き入れた。彩佳は治療室に入ってくるなり
「生前は、大ばあちゃんがお世話になり、ありがとうございました。」
と深々と頭を下げた。
「いえいえ、ご丁寧にどうも。お悔やみ申し上げます。」と蒼は答えながら、高校生なのに、しっかりしているなと蒼は思った。それから蒼は、彩佳を治療台の方へ案内し、カバンなどの荷物を治療台の下にある荷物かごに入れるよう促した。
「今日は、どうされましたか?」ここから問診である。
「はい。寝違えたみたいで、首が痛いんです。」と彩佳は今朝から首が痛くて横を向くのがつらいという。蒼は
「ちょっと失礼します。」と声をかけながら彩佳に触れ、首や肩周りの様子を触診していく。彩佳の髪の毛は長そうだったが、施術の邪魔にならないようにゴムできちんと結ばれていたので、蒼は好感を持った。
「頭、失礼します。」と蒼は彩佳の頭を支えるようにそっと
触れ、ゆっくりと右へ、それから左へと動かすように指示した。
「特に左方向の可動域が小さくなってますね。」蒼は、そう言って施術を始めた。
背中や腕を丁寧にマッサージし、首と肩の境目辺りをしっかり圧迫しながら頭をゆっくりと動かせさせたりと、施術を進めていく。
「ハナエさん、いつお亡くなりになられたんですか?」蒼は、施術をしながら彩佳に尋ねた。
「先月の22日です。前の日の夜まで、いつも通り過ごしていたそうなんですけど、朝に施設の人が起こしに行ったら、もう亡くなっていたそうです。お布団の乱れとかもなくって穏やかな顔だったそうです。」と彩佳は静かに答えた。
「そうですか。穏やかな眠るように逝かれたんですね。ハナエさんは、このクリニックが開院してからずっとお世話になっていたんで・・・。」蒼は、彩佳の治療をしながら、彩佳と生前のハナエの話をいろいろとした。こうやって古人を思い出して話すことも供養なのだと聞いたことがあったので蒼は亡くなられた患者の話をご家族やスタッフとするようにしていた。
一通り施術が終わったので、もう一度、最初に首を動かしてもらった時と同じようにゆっくり首を左右に動かしてもらった。
「あっ! まだ、痛みはありますけど、だいぶ横まで向けるようになりました。」と彩佳は言った。
「そうですね。今日はこれでおしまいにしましょう。痛みが取れるには2、3日ぐらいかかると思います。2、3日が経っても痛みが取れなかったり、何かありましたらまた来てくださいね。」蒼はそう言いながら施術で使った手ぬぐいを洗濯かごに入れた。
さらに数日が流れた。午後5時を過ぎた頃、受付の佐藤がパタパタと軽やかな足音で、蒼のところにやってきた。
「川上さん!彩佳ちゃん、また来たからよろしくおねがいしまーす。じっくりお話聞いてあげてくださいねー」佐藤は
そう言ってマッサージの指示書を置いてから、またパタパタと受付に戻っていった。
蒼は、彩佳を治療室に招き入れた。
「今日は、どうされましたか?まだ、首の調子がよくならないですか?」蒼が尋ねると、彩佳は首を横に振った。
「いいえ。もう、寝違えの方は おかげさまでスッキリ治ったんですけど、私むかしから肩こりがヒドくて・・・。この前、受付の佐藤さんに言ったら、川上先生に治療してもらったら?って言われたので・・・。」
佐藤と彩佳は仲が良さそうだった。彩佳は、蒼の治療を受けるのは前回が初めてだったが、小さい頃からハナエに連れられて院長の診察をよく受けている。彩佳にとって佐藤は小学生のころから知るお姉さんのような存在なのだろうと蒼は思った。
「そうですか。じゃあ、そこに横になってください。」蒼は治療台に横になるよう指示した。蒼は手ぬぐいを彩佳にかけて、軽く手のひら全体を使って彩佳の肩をなでた。そして、彩佳の肩の筋肉を手で握り混むようにした後、親指でゆっくりと圧迫を加える。何度か圧迫を加えた後そのまま親指で筋肉をもみ始めた。
「力加減はどうですか?痛かったり、何かあればすぐに言ってくださいね。」蒼がそう言うと
「は、はい。大丈夫です。ありがとうございます。」と彩佳は答えた。彩佳の言ったとおり、彩佳の肩はすごく凝っていた。首と頭の境目あたりを反対側の目の方にゆっくりと押し込むと
「あっ、それ気持ちいいです・・・。」彩佳が言葉を漏らす。
「ここは、目の疲れでよく凝るところなんですよ。長時間、スマホを見たり、小さい文字や細かい作業をすると、この辺がよく凝るんです。」蒼はそう説明した。
「そうなんですね。・・・あの、私、小さい頃から本を読むのが大好きで、それがイケないんでしょうか?」おずおずと彩佳が聞いてくる。
「本を読むことは、すごく良いことなのでそれをやめることはないですよ。ただ、目にも休息をあげてください。窓の外を見て遠くの景色をぼんやり眺めたり、目を閉じるのもいいですよ。」と蒼は優しく答えた。
「はい、わかりました。やってみます。・・・あの、先生は読書なさるんですか?」と彩佳が聞いてきた。
「うーん、そうですねー。ボクは子供の頃は全然本を読まない子でしたね。たぶん、子供の頃から目が良くなかったからなんだと思います。でも、今はいろいろな手段があるので、今が一番人生で本を読んでると言えますね。」と蒼は答えた。
「いろいろな手段?ですか?点字とかですか?」彩佳が聞いてきた。
「そうですね。視覚障害者の読書と言えば点字を思い浮かべる人が多いですね。でも、視覚障害者の中で点字が読み書き出来る人は1割程度だと言われています。」蒼が言うと。、
「えっ!そんなに少ないんですか?」彩佳が驚いた声を上げた。
「はい。最近ではスマホやパソコンの普及で、点字を読めなくても情報を得られるようになってきたのも大きいですね。」
「あの・・・。基本的な質問なんですけど、目が見えなくてスマホやパソコンってどうやって使うんですか?」彩佳が素朴な質問をしてきた。
「それは、主に2つの方法があって、一つ目は点字ディスプレイという特殊な機械をスマホやパソコンと繋いで情報を点字で表示させるというもの。二つ目が音声読み上げ機能を使うというもの。こっちの方が利用している人は多いと思います。」
「音声読み上げにも何か機械がいるんですか?」彩佳が重ねて聞いてきた。
「いいえ。今のスマホやパソコンには、最初から音声読み上げ機能が入ってるんで、特に何か繋がなくてもスマホやパソコン単体で音声読み上げができます。その機能を設定からオンにしてあげるだけで、基本的にはOKなんですよ。」
「それは、特殊なスマホとかじゃなくって、私のにも入ってるってことですか?」
「はい。そうです。OSによって表現は違いますけど、設定アプリの中の、ユーザー補助とかアクセシビリティとかいう項目から設定できますよ。」
「そうだったんですか。全然知らなかったです。それじゃあ、先生は、その音声読み上げで読書をなさってるんですか?」
「そうですね。一般的な電子書籍を音声読み上げさせることもありますが、視覚障害者など読書困難者向けにデイジーという特殊な電子書籍もあります。いわゆるオーディオブックみたいなものなんですけど、人が本を読み上げた声を録音したものです。ぼくはこちらを利用して読書することが多いです。まぁ、音声読書なんて、ホントの読書好きの人からすれば、邪道だと言われそうですけど・・・。」と蒼は照れ笑いをしながら言った。
「そんなことないです!私、オーディオブックも立派な読書だと思います。本を愛するのに手段は関係ないと思います。」彩佳は少し力強く言ってくれた。
「ありがとうございます。」蒼と彩佳は施術中、最近どんな本を読んだとか話をした。
施術が終わって、彩佳は帰りの身支度を整え、立ち上がった。
「ありがとうございました。・・・あ、あの、また来てもいいですか?」なぜか彩佳は恐る恐るといった感じで聞いてきた。
「もちろん いつでも来てください。」蒼はハッキリと答え、帰る彩佳を見送った。
10数分が過ぎ、 時刻は午後6時を過ぎた。蒼が帰り支度をしていると受付の佐藤がパタパタと蒼のところにやってきた。
「川上さん、彩佳ちゃんと仲良くなれたみたいで良かったです。あの子、人見知りのところがあるから、、、ありがとうございます。」彩佳は佐藤のことをお姉さんみたいに思っているようだし、佐藤も彩佳のことを妹みたいに思っているのかな?と蒼は思った。
「いえいえ、たまたま本の話が盛り上がっただけですよ。」蒼が言うと
「川上さん!未成年に手を出しちゃ犯罪ですよー。」と笑いながら受付に戻っていく。
「出しませんよ。」蒼の反論は佐藤には届かなかっただろうか?
翌日は土曜日だった。蒼の務めているクリニックは土曜日は午前中のみの診療時間になっている。時刻は午前11時30分、今日も修了かな?と蒼が思い始めた頃、待合室がちょっと賑やかな雰囲気になった。少しして受付の佐藤がパタパタと蒼のところにやってきて
「彩佳ちゃん、今日は川上先生にお話があるって来てますけど、何やったんですか?」蒼には身に覚えがなかった。
「いや、何だろう?ちょっとわからないですけど、お話を伺います。」と言うしかなかった。
蒼が彩佳を治療室に招き入れる。彩佳は改まった感じで口を開いた。
「あの・・・、少しお話いいですか?」
蒼は何を言われるんだろうと少し警戒をしつつ、
「はい、ご覧の通りこちらは他に患者さんもいないですし、いいですよ。」
待合には5、6人ぐらい患者が待っていたが、みんな院長の患者で蒼の患者はいなかった。
「あの・・・、先週のこと覚えてらっしゃいますか?」唐突に言われ、蒼は何のことだかわからなかった。
「いいえ、何のことだかわからないのですが。深沢さんが初めてボクの治療を受けたのは今週の初めでした。先週、何かありましたか?」蒼には、まだ話が見えない。
「先週の金曜日、たぶん川上先生はお仕事帰りだったと思うんですけど、そこの保育園と神社の間の細い道で・・・」彩佳がそこまで言ったところで、蒼はそのときのことを思い出していた。
「確か、路地に入ってすぐ、向こう側から二人組と思われる若い女性たちがこっちに向かってきていたので、端っこによって待っていたら、ぶつかってこられて・・・あの時の女性が深沢さんたちだったのですか?」蒼は彩佳に問いかけた。
「やっぱり、あれが、私だってわかってらっしゃらなかったんですね。」そんなの蒼にはわかるはずもない。声を聞いただろうけど、一瞬のことだったし、それをいつまでも覚えているほど記憶力も良くないと蒼は思った。
「そか、そうだったんですね。あのときの人たちの一人が深沢さんだったんですね。それで、それが何か?まさかぶつかった女性がけがをされたとか?」蒼は恐る恐る聞いてみた。
「いいえ、そういうことじゃないんです。あれは完全に私たちに非がありましたし、それなのに優奈ったらロクに謝罪もしないで行っちゃうし、全くの見ず知らずの人だったらそのままでも仕方ないかな?って思ったんですけど、こうやって治療をしていただく関係にもなったわけですし、知らんぷりっていうのもなんだかおかしいって思って。コチラだけが知ってて、先生が全然知らないなんてフェアじゃないと思ったんです。」彩佳は一気にしゃべった。
「けがはなかったんだね?」蒼はもう一度確認した。彩佳ははい、と深くうなずいた。
「ああ。良かった。そういうことだったんですね。いきなりお話があるって言われて、どんなこと言われるんだろってめちゃくちゃ緊張しました。あっ、でもあのときはボクも黙って突っ立ってたので、お互い様ということでいいんじゃないですか?」と蒼が言うと
「川上先生って優しいんですね。でも、今日は優奈も連れてきているので、謝らせてください。でないと、私たちの気が済みませんから。」そう言うと彩佳は待合室の方へ行って優奈を呼び入れた。治療室に優奈が入ってくる。彩佳が優奈を突っつくと
「先週はごめんなさい。これからはちゃんと前見て歩きます。」と優奈がペコリと頭を下げた。
「いえいえ。こちらこそ、ボクもただ突っ立ってないでなにか言うか音を出すよう気をつけます。」蒼もペコリと頭を下げる。
「あの場面で、川上先生が一人で何かブツブツ言ってたら、それはそれであやしい人みたいになっちゃいますよ。」とぷぷっと彩佳が吹き出した。そして、3人で笑い合った。
「じゃあ、せっかくだから私 川上先生にマッサージしてもらって帰るね。」彩佳が言う。
「うん!それじゃ、佐藤さんに言ってくるねー。」そう言って優奈は受付の佐藤のところにかけていった。
「素直ないい子だね。」蒼が言うと
「はい。私の自慢の親友です。」と彩佳は胸を張って答えた。
優奈は先に帰って、彩佳は蒼の施術を受けていた。
「深沢さん。間違ってたらごめんなんだけど・・・。」蒼は今さっき思いついたことを彩佳にマッサージしながら話しかけた。
「半月ぐらい前に、、ボクは歯医者さんに行く途中、道に迷ったことがあって、そのときに親切な女性に助けていただいたんだけど、あれも深沢さんだった・・・?」
「はい。そうです。でも、それ言っちゃうとこっちが恩着せがましくなるかなって思って・・・。」
彩佳はそう言ったが
「いいえ、あの時はとても助かりました。また、ボク以外でも困っている人がいたら、出来る範囲でいいので、助けてあげて欲しいです。」蒼はそう言った。それは蒼の本心であった。
「はい。きっと、そうします。」彩佳は、そう力強く答えてくれた。それが蒼にはとても嬉しかった。もし、彼女が困ったときは、自分ができる限りのことをしよう、お互い様にしたいと心から思ったのだった。
つづく