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学生のプレゼンならではの手も打つ。
相手は企業人だ。
シビアに物事を見ざるを得ない立場だろう。
一方、感情を持ったひとりの人間でもある。
正直、学生のプレゼンに大きな期待を抱いてはいないだろう。「ごっこ遊びの割にはよくまとまっているんじゃないの?」といった評価が得られれば良い方なのではないだろうか。
その先入観で見られれば、自ずと「本当にできるの?」「実際どれほどのものなの?」といった疑念は払拭できない。全く同じ内容でも、長年付き合いのある信頼のおける協力会社とは、扱いが違って当たり前だ。
一方、学生ならではのブーストもある。
「学生なのに」「学生にしては」といった評価は、当事者からすれば悔しく思う要素もあるが、それそのものが世の中にとっての価値になり得ることは、活かしても良いのではと考える。
これは、物事を客観的に捉え、真っ直ぐ目標に最短最速最適な計画を立てられる考え方を持つ祷の論だ。言われれば、そうなのかなとわたしも思う。
「学生が頑張って」「大人顔負けの提案を持ってきた」ものに対し、大人が寛容な心で若者を応援し受け入れてくれたとしたら、学生からの支持、社会からの支持、ノリの良さなども含めたユーザーからの支持などが得やすい。広報担当としてはこの辺も価値として見越してくれる。
それも加味されれば、見込めるであろう効果があり、見通せる実現性があり、見越せるリスクがクリアされてるなら、「やっても良いだろう」との判断を得るのは難しいとまでは言えないと思えた。
今回はコンペではないから、比較による当落の影響もない。
更に、一個人の感情を動かし、社会やユーザーへの効果も高める一手として。
用意したのが、嘘偽りのないわたしの想いだ。
それこそが、祷がわたしをプレゼンターにした理由の一側面である。
「この後、サンバの魅力、サンバはどのようなものなのか、それを具体的に体感していただくパフォーマンスを行います」
安達さんは微笑んで、「楽しみにしてたんですよ」と言っている。本音なら嬉しいが、半分はリップサービスであろうと思っておく。
「ダンサーを務める穂積と柊が着替えのために一旦外させていただきます」
更衣室として、同じ階の応接室を押さえてくれていた。場所は既に知らされている。
わたしの言葉を受け、ふたりは一礼し、荷物を持って一旦部屋から出た。
「わたしと祷はこのまま演奏させていただきます。
ダンサーの着替えの待ち時間を使って楽器のセッティングもさせていただきます」
祷も立ち上がり一礼し、席から離れた。
「ダンサーふたりの着替えと楽器のセッティングが終わるまで、少し個人的なお話にお付き合いください」
今日のおおよその流れは事前に祷から話されていたであろう安達さんが、初めて少し驚いたような顔をしていた。
このくだりはあらかじめ聞かされていなかったのかもしれない。