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祷と穂積さんのふたりがなんの打ち合わせをしていたのか。
その答えはさして時間を空けずに祷から直接もたらされた。
「がんちゃん、ちょっと話せる?」
お風呂から出て新聞を読んでいたら祷に声を掛けられた。
教育方針なのか、うちでは子どものころから新聞を読むように言われていて、それが習慣になっていた。新聞は家族の共有のものなので基本的にはリビングやダイニングで読むことになっている。
「うん」
わたしは新聞を閉じた。習慣で読んでいるだけで、別に興味深い記事はなかった。
「部屋に行こっか」という祷について二階に上がる。
「どっちの部屋にする?」という問いには「祷の」と答えた。
祷の部屋のソファにあったクッションは柔らかくて抱えたら気持ちが良い。
「手首はどう?」
祷の部屋は相変わらずおしゃれでまとまっていて居心地が良い。
この前と同じポジションでクッションを抱えて座った。
祷からほうじ茶の小さなペットボトルをもらったので開けて一口飲んだ。
「もう全然痛くない。違和感ももうない、と思う」
ペットボトルを開けるときに力を入れても何にも感じなかった。バイトも問題なかったし、そのほかの日常生活も普通に送れている。
「良かった。明日のエンサイオでは慣らし程度に叩くことはできそうだね」
頷くわたしに、でも油断せず、あくまでも慣らしに徹するようにと念を押された。
そのつもりだ。どうせイベントには出られないのだ。練習に根を詰める必要はない。イベント出演を犠牲にしたのだから、せめてこの間に身体を完璧に戻さなくては割に合わない。
「キョウさんと、ちゃんと話せる?」
この前のキョウさんとのやりとり。祷も気付いてたんだ。
「うん。ちゃんと、話す」
少し俯き、クッションを抱えた腕の先にある両手をきゅっと握って答える。
祷は優しい笑顔で頷いていた。
「がんちゃん、イベント出たいよね?」
出たい。でももう無理なのだ。
今は痛みはもちろん、違和感もないと思う。でももう一度診察は必要だろう。
仮に完治が認められたとしても、今更出たいと言っても簡単ではない。メンバーは確定していて、確定メンバーでイベント向けの練習をしているのだ。一番実力の劣るわたしが出ることになったら、そのための調整は必要だろう。それだけでもみんなに迷惑がかかるし、練習の時間が足りるかどうかわからない。
それでも、『ソルエス』のみんなはわたしを出そうとしてくれると思う。なんとか調整し、練習にも付き合ってくれるだろう。
一番のネックは、やっぱりお母さんだ。
もう一度お母さんにこの話をする気にはなれない。
完治が認められれば条件が変わる。再交渉の余地はある。
否決の根拠が覆っているのだ。もう否認できる理由がない。普通なら自ずと承諾が得られるはずである。
でも、そうはならない。一度自分で出した回答を、自ら撤回するお母さんの姿なんて想像もできない。
一度決まったことをほじくり返すなとか、本筋とは異なる論点で押し切られるだろう。
そこでまた嫌な思いをしてまで、挑む気力はもうない。
そうまでして仮に強行突破できたとしても、その先にはみんなに迷惑をかける未来が待っているのだ。
そこでふと思った。みんな、とは具体的には出演が確定しているメンバー。それも、バテリアのメンバーを指す。
祷はここに含まれているのだろうか?
「祷は次のイベント出るの?」