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「オレはよ、ヒトに生かされてンだわ」
妻と娘を手離したとき。
娘との間に生まれた微かな絆を、娘と同時に喪ったとき。
キョウさんから感情や情熱といった、ひとをひとたらしめているものが身体から霧散するように抜けていった。
ハルさんが、元妻が、サンバが、そんなキョウさんに人間らしさを取り戻させてくれた。
感謝しているのだという。
あのとき。
娘との関係の構築の機会を自ら後ろ倒しにしたときのように。
娘との別れの儀式の機会を自らふいにしようとしていたキョウさん。
頬を張ってでも、娘に、現実に、繋ぎ止めてくれた元妻がいなければ、同じ過ちを繰り返すところだった。
引き摺ってでも、現実と、日常の、間に非日常と感情を解き放つ場を組み込んでくれたハルさんがいなければ、人生に熱と彩りが戻ることはなかった。
だから、残りの人生で返せるものは返したいのだと、キョウさんは言った。
『ソルエス』の演者として、しっかりと楽しみながら、チームのパフォーマンスに寄与し、今は後進の育成にも励んでいる。
もし、後進が、自分が経験したような後悔をするかもしれない道に進もうとしているなら、先達の失敗談くらいは語ってやりたい。
キョウさんは変わらず遠くを眺めながら、「つまンねぇ話しちまったか?」と訊いてきた。
わたしは首を振った。
キョウさんの、思いがけない重くてつらい話を聴かされ、そういうことではないと自分に言い聞かせているのに、それでも涙が堪えられなかった。
キョウさんは、きっとわたしに悲しい話を聴いて欲しかったのではない。伝えたいことがあるのだ。それを理解しないといけない。安易に泣いてちゃダメなのに。
でもキョウさんは、気にした様子もなく話を続けた。
「今しかできねぇコトってのは、あるんだよ」
いつかやろうと思っても、そのいつかが来る保証なんてない。
当たり前に来る明日を迎えられないことがある。
今日あるものが明日を迎えられないことがある。
自分も、相手も、世の中も、世界も、何ひとつ、約束されてなんかいない。
「だから、すべきことは、できるときにしといたほうがいいンだ」
息を吐き出すように紡がれた言葉はさりげなくて、教えるでも説くでもないのに、わたしの身体に深く染み込んでいった。
辺りは闇と呼ぶにはまだ淡い色味の藍色に染まっていた。
隣のキョウさんの顔を覗いてみた。
その目はやっぱりどこまでも優しくて、寂しそうだった。涙が流れていないせいで、却ってその乗り越えてきたものの重さが窺い知れた。
キョウさんはそれ以上自分のことは言わなかったし、わたしも訊かなかったから、これは単なる想像だけど、もしかしたら、この海がキョウさんの娘さんを連れて行ってしまった海なのかもしれない。