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キョウさんが、一番ショックだったのは、妻と娘を奪われたことではなかった。
家族がいなくなって、天涯孤独の身に戻って、訪れた喪失感と虚無感。その奥底に微かにあった、解放感に気づいてしまったことだった。
これなら、オレひとりが食えていけさえすれば良い。
これで、またバンドに集中できる。
微かだけど確かに、そんな考えがよぎった。
そのことを自覚したとき、キョウさんは己に失望し絶望した。
かつて自ら縁を切った両親がオーバーラップし、自分にもその血が脈々と流れているのだと思い知らされた。
キョウさんは自分の両親のことは詳しくは話さなかった。ただ、子どもの頃日常的な暴力があったことを少しだけ話してくれた。
だから、自分に原因があり、妻を悪者にできないことは承知の上で、それでもネグレクトを受けていた娘を守りたいと、ネグレクトをしてしまうに至ってしまった母親である妻から引き離そうとしたはずだった。
なのに、実際の自分は娘を手放してほっとしている。
そのことが、キョウさんの中に灯っていた炎を消した。前を向き、先へと進むために必要な、心に宿していた炎を。
大切なものを持てない自分は。
大切なものなどなかった自分は。
己の心さえわからない自分は。
心に作用する何かを創り出すに値する人間ではない。
キョウさんはバンドを解散し、街の整備工場で働き始めた。
その後の十年は、整備士の資格を取ったり、勤めていた工場が廃業になって別の工場に移ったりと、多少の変化はあったものの、仕事と食事に睡眠といった最低限の営みを繰り返すだけの日々を送った。
そんな日々の中にも、わずかな彩りがあった。
バイクに乗るようになったハルさんが、いつの頃からかキョウさんの整備工場に入り浸るようになっていた。
繰り返すだけの日々にあって、頻繁に訪れるハルさんに請われるまま、バイクの知識やドライビングテクニックなどを教えている時間だけは、キョウさんの冷え切った心を仄かに暖めた。
「ハル坊はよ、ガキん頃から妙に老成している部分もあったが、ガキ特有の激しさや危なっかしさもあったからナ」
スピードにのめり込んでいく若者に、大人として適切な知識と技術を与えるべきだと考えたキョウさん。
若い情熱に、大人が諭したり注意したりすることがあまり意味をなさないと、自分の体験からも理解していたキョウさん。
ハルさんは頭が良いからと、単に気をつけろと言うのではなく、物理の影響下におけるモノの道理を理解させた方が安全だと考えたのだと言っていた。